Flying Skynyrdのブログ

映画や音楽、本についての雑文

カントリーロックの目覚め~『ロデオの恋人』バーズからフライング・バリット・ブラザーズへ

ボブ・ディランからザ・バーズを知ったことは以前書きましたが、そのバーズも1968年に5枚目の『The Notorious Byrd Brothers(名うてのバード兄弟)』を出すころには、既にジーン・クラークは抜けており、デヴィッド・クロスビーも製作途中で脱退することになり、さらにマイケル・クラークも解雇したとかでメンバーはアルバム発表後には遂に2人になってしまいました。しかしながらアルバムそのものは高評価でバーズの最高傑作ではと騒がれました。

バーズはそれまでもフォークロックの幕開けである『ミスタータンブリンマン』以降

『Tirn! Turn! Turn!(ターン、ターン、ターン)』『Fifth Dimension(霧の5次元)』『Younger Than Yesterday(昨日より若く)』と次々にアルバムを発表し、それぞれヒットを飛ばし、内容はシタールを使用したり、テープの逆回転をしてみたりと実験的な試みを施し、「サイケデリック・ロック」「ラガ・ロック」「スペース・ロック」などと呼ばれたりもしていました。

  

6枚目の製作にあたりリーダーのロジャー・マッギンはインターナショナル・サブマリン・バンド(The International Submarine Band)のグラム・パーソンズ(Gram Parsons)を招聘します。ドラムもマイケルからケヴィン・ケリー(Kevin Kelley)に変わります。これはおそらく元々カントリーやブルーグラス出身のクリス・ヒルマンの提案かと思われます。そしてカントリーロックの最高傑作の1枚であるばかりでなくロック界のまさに金字塔と呼べるアルバム『Sweethert Of Rodeo(ロデオの恋人)』が生まれます。

 この中でグラム・パーソンズはロジャーとヴォーカルを分け合い、その存在感を示します。彼のヴォーカルは繊細で悲しげで決して上手くはありませんが、一度聴いたらその魅力に引き付けられてしまします。ボブ・ディランの曲も2曲取り上げられています。

まさにカントリー色が強いこのアルバムは、当時古いファンからは反発があったようですが音楽界は大絶賛でした。その1番の功績者であるグラム・パーソンズはこのアルバムが発表される前に突然脱退します。

そしてクリス・ヒルマンとともにFlying Burrito Brothers(フライング・バッリト・ブラザーズ)を結成します。余談ですがこのグループの日本での呼び名は確か4枚目あたりまではレコードの帯にもフライング・バッリト・ブラザーズと書かれていたし、解説などもそう呼んでいたのですが、いつの頃からかフライング・ブリトー・ブラザーズと変わって来ました。ここでは私が慣れ親しんだバリットで行くことにします。略するときはブリトースでいきます。

ブリトーズのメンバーはグラムとクリスの他にスヌーキー・ピート(Sneaky Pete Kleinow (pedal steel))とクリス・エスリッジ(Chris Ethridge (b,key))の4人です。

1969年のファーストアルバム『The Gilded Palace Of Sin(黄金の城)』は上の『ロデオの恋人』と並び称される最高傑作です。この2枚は私の持っているレコードの中でもベスト20には間違いなく入るでしょう。

なにしろ全曲がいいんです。捨て曲は全くなしです。特にジェームス・カーやリンダ・ロンシュタットも歌った「The Dark End Of Street」はグラムの哀愁漂う、頼りなげなボーカルが心をそそります。彼のバージョンはほとんど知られていないと思いますが。

そして1970年のセカンド・アルバムは『Buritto Deluxe(バッリト・デラックス)』です。

この頃からグラムはローリング・ストーンズのメンバー特にキース・リチャードと親交を深めます。このアルバムの中でもストーンズの「Wild Horses」を取り上げています。そしてグループの南アフリカツアー遠征のまえに飛行機が嫌だという(真実かどうかは不明)理由でグループを脱退してしまいます。そして彼はソロ活動に入ります。このアルバムから後にEagles(イーグルス)の創立メンバーであるバーニー・リードン(レドンBernie Leadon)とドラムスにバーズを首になったマイケル・クラークが参加します。

ブリトーズのほうは後に"Fairefall(ファイアーフォール)"を結成するリック・ロバーツが加わり、1971年に3枚目のアルバム『Flying Burrito Brothers(フライング・バッリト・ブラザース)』を発表します。

ここではリック・ロバーツの「コロラド」という名曲もありましたが、やはりグラム・パーソンズ抜きではいかんともしがたく、やがてバーニーが抜け1972年のライブアルバム『The Last Of The Red Hot Burittos(ザ・ラスト・オブ・ザ・レッド・ホット・ブリトウズ)』を発表して一旦解散となります。

その後、オリジナルメンバーのクリス・エスリッジ、スヌーキー・ピートに加え元"Swampwater(スワンプウォーター)"のGib Guilbeau(ギブ・ギルボー)、元キャンドヒートのJoel Scott Hill(ジョエル・スコット・ヒル)、元ザ・バーズのGene Parsons(ジーン・パーソンズ)らが加わり再結成されました。その最初のアルバムが『Flying Again(フライング・アゲイン)』です。

その後アルバム『Airborne(エアボーン)』を発表して、遂に来日しました。1978年です。場所は九段会館でしたが、はっきりとは憶えていません。残念ながらチケットの半券も残っていません。スヌーキー・ピートとスキップ・バッティン(元バーズ)を観られたのが嬉しかったことはよく憶えています。あとギブ・ギルボーもいました。

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右がその時のライブアルバム『Close Encounters To The West Coast(フライング・ブッリト・ブラザーズ・ライブ)』です。この2枚とも単独ではCD化されていないようです。この後も活動は続けていますが、さすがに興味は薄れました。昔の未発表音源やコンピレーションものが数多く出され、今でも珍しいものが出れば購入しています。

一方、グラム・パーソンズはソロに入って2枚のアルバムをリリースします。

『GP』(1973年)『Grievous Angel(グリーヴァス・エンジェル)』(1974年)

  

いずれも素晴らしいことは言うまでもありません。しかしこの2作目の発表前に麻薬の過剰摂取で亡くなります。26歳でした。『Grievous Angel』は遺作として発表されました。彼のロック界における功績の偉大さはその後のコンピレーションアルバムやトリビュートアルバムの多さに現れているでしょう。これは先に取り上げたサンディ・デニーと通ずるものがあるかもしれません。

  

  

もう一つ忘れてならないのは、素晴らしい女性シンガー"Emmylou Harrisを見出し世に送り出したことです。彼女はグラムに見いだされ彼のソロアルバムに参加し、以後一躍一流シンガーの仲間入りを果たしました。元々がカントリー系のシンガーで1975年のアルバム発表以来、現在も第1線で活躍しています。

  

ついでにバーズのその後を簡単に書きます。

『ロデオの恋人』以後、ロジャー・マッギンを残しすべてのメンバーが姿を消し、新たにクラレンス・ホワイト(Clarence White(g))、ジーン・パーソンズ(Gene Parsons(ds))、ジョン・ヨーク(John York(b))の4人になって『Dr.

Byrds & Mr.Hyde(バーズ博士とハイド氏)』『Ballad Of Easy Ryder(イージーライダーのバラード)』を発表しますが前者は不評、後者は映画の主題歌も入っているということで若干名誉回復というところでしょうか。もちろん悪くはありません。ただ前作までの出来には大分及びませんでした。

 

次にジョン・ヨークが抜け代わりにSkip Battinが加入します。ここでバーズは演奏能力としては最強のメンバーになりました。そこで発表されたのがバーズ最初のライブアルバム、それも2枚組でした。1970年です。『Untitled(名前のないアルバム)』

これは私も大好きなアルバムです。やはり演奏力があがって、特に1面(レコードの第2面)をつぶして演奏される「Eight Miles High(霧の8マイル)」は圧巻です。

その後1971年に『Byrdmaniax(バードマニア)』『Farther Along(ファーザー・アロング)』と続けて発表しますが鳴かず飛ばずで結局解散します。

 

後年のバーズはロジャー・マッギンのワンマン色が強く、グループとしての機能が果たせていないような印象でした。それでもバーズを1人で引っ張てきた功績は大きいと思います。このあと1973年にオリジナルメンバーで再結成しますが、何か同窓会のような雰囲気でした。タイトルはそのまま『Byrds』でした。もちろん嬉しかったですしすぐに購入しました。それぞれが均等にヴォーカルをとってほほえましかったです。

その後、クリス・ヒルマンがサウザーヒルマン・ヒューレイ・バンドを解散した後、ロジャー・マッギンとジーン・クラークと共に”Mcguinn,Clark & Hillman(マッギン、クラーク、ヒルマン)"を結成します。そしてこの3人が日本にやってきたのです。

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内容はともかくこの3人を観られただけで私は大満足でした。

 

途中から疲労のため駆け足になってしまいました。まだまだ書き足りませんが今日のところはこの辺にしておきます。

フォークロックという切り口でいくとこのザ・バーズともう一つ"Buffulo Springfield(バッファロー・スプリングフィールド)の系譜を忘れることはできません。

この両グループから数々のフォークロック、カントリーロックのミュージシャンが生まれてきます。これらについてはまた次の機会にしましょう。

 

それでは今日はこの辺で。

『キャロル』を観る

今日のキネ旬シアターは『キャロル』でした。

監督:トッド・ヘインズ

主演:ケイト・ブランシェット(キャロル)

   ルーニー・マーラ(テレーズ)

 

この映画、原作がパトリシア・ハイスミスです。ハイスミスと言えば映画『太陽がいっぱい』『見知らぬ乗客』の原作者として有名です。

 

私も彼女の小説は大好きで日本で出版されているものは大体読んでいたのですが、この原作は読んでいませんでした。私は彼女はミステリーやサスペンスの名手だと思っていたのでこの『キャロル』も当然サスペンスなのだろうと勝手に想像して(なにしろ事前情報なしですから)観たのですが、これが全然違いました。原作を読まなかった理由がわかりました(原作が映画どうりかどうかはわかりませんが)。

   

ストーリーは怪しげな魅力を持つ美人人妻キャロルが4歳の娘のクリスマスプレゼントをデパートに買いに来た際に、応対したコケティッシュな美人でデパートの店員テレーゼと知り合います。テレーズはキャロルが忘れていった手袋を郵送してあげ、キャロルはそのお礼にテレーズを昼食に誘い、さらにも家に招待します。キャロルは離婚調停中で娘の親権について揉めている最中でした。テレーズにも結婚を申し込まれている恋人がいたが本人はいまいち夢中になれないでいました。

そうした中、二人は急速に惹かれあい、親しくなります。実はキャロルはレズビアンなのでした。テレーズも薄々感じていました。離婚もそのことが原因でした。しかし夫はやり直したがっていました。キャロルにその気はありません。怒った夫はレズビアンであることに対し「道徳的条項」なるものを持ち出し、キャロルの親権は一切認めず、永遠に面会も認めないとの離婚条件を出してきました。キャロルは自分を見失い、テレーズに当たり散らしました。キャロルはそれを謝り、しばらく旅行にでるので一緒に行かないかと誘います。テレーズは同意し彼女たちは旅立ちました。途中立ち寄ったホテルで見知らぬ男がそれとなく近づいて来ました。その男は夫が雇った探偵でした。二人の情事の様子を録音し夫に送りました。これで裁判は決定的に不利になります。キャロルは娘との生活をあきらめきれず、テレーズを捨て夫のもとに帰る決心をします。テレーズはキャロルを忘れられず、悲しみに暮れ電話をかけますがキャロルはテレーズを拒否します。

しかしキャロルはどうしても夫の家族との同居には耐えられず、親権を譲る条件として面会だけはさせて欲しいと言い、夫の元を離れます。そしてテレーズに会いに行きます。キャロルは新しい家を買ったので二人で暮らさないかと誘いますが、テレーズはそれは出来ないと拒みます。キャロルはあきらめ、去ります。拒んではみたものの、やはりテレーズはキャロルのことがあきらめきれません。そしてキャロルのもとへと向かいます。

この映画は数々の映画賞を受賞したそうです。ケイト・ブランシェットという女優はなんとも妖艶です。

そういえば昔、パトリシア・ハイスミスレズビアンだったということを聞いたことがありました。この『キャロル』という小説は彼女の自伝らしいです。発売当初はクレア・モーガン名義で「The Price Of Salt」というタイトルだったらしいです。1952年に出版され、1990年にようやくハイスミスの執筆だったことが明かされたようです。

パトリシア・ハイスミスの意外な面を観たような気がします。ちょっと原作を読んでみたくなりました。この機会にもう一度彼女の作品を読み直してみましょうか、ほとんど忘れていますのでね。短編の切れ味はすごかった記憶はあります。

それにしても1950年頃のアメリカの女性があれほどタバコを吸っていたのかと驚かされます。いたるところで吸っています。それがほとんど女性なのです。日本でも昔の映画の喫煙シーンの多さには今さらながらに驚きますが、それは大抵が男です。それが当時の現実でしたので納得ですが、アメリカ映画でこれほどの女性の喫煙シーンは見たことがなかったと思います。余計なことですが。

 

www.youtube.com

 

それでは今日はこの辺で。

 

フォークロックの夜明け~ボブ・ディラン&ザ・バンド、ザ・バーズから

今日は尊敬するボブ・ディラン(Bob Dylan)先生について、フォークロックという切り口からザ・バンド(The Band)やザ・バーズ(The Byrds)を織り交ぜながら書いてみたいと思います。

一般にアメリカのフォークロック(フォークとロックの融合)は1965年、ディランの5作目『Bringing It All Back Home(ブリンギング・イット・オール・バック・ホーム)』が始まりだと言われています。

それまでのディランはアコースティックギターとハーモニカだけの弾き語りでブルースやフォークを歌っていました。が、イギリスのビートルズなどとの交流から、それまでのアコースティックギター1本に物足りなさを感じ、エレキバンド形式のスタイルに傾倒し始めました。そこで生まれたのが前記のアルバムでした。しかしこのアルバムはまだエレキとアコースティックが同居したものでした。

バターフィールド・ブルースバンドを従えてニューポート・フォーク・フェスティバルのステージに立って大音量で演奏を始めた時には、観客の猛抗議でステージを降りざるを得ず、アコースティックギターを抱えて再びステージに立つと「It's All Over Now,Baby Blue」を歌って、それまでの古い聴衆に別れを告げたという有名な話があります。しかし、そうした聴衆の反応とは裏腹にレコードの売り上げは伸びました。

そしてこのアルバムの中から「Mr.Tambourine Man」をザ・バーズがアルバム『Mr.Tambourine Man(ミスター・タンブリンマン)』で取り上げ大ヒットを飾りました。

このアルバムにはこの他にもディランの曲を3曲カバーしています。バーズはこの後も数多くのディランの楽曲をカバーしました。このグループも私の大好きなグループの1つです。オリジナルメンバーはロジャー・マッギン(Roger Macguinnリーダー)、Gene Clark(ジーン・クラーク)、David Crosby(デヴィッド・クロスビーのちにCSN,CSN&Yなど)、Chris Hillman(クリス・ヒルマンのちにFlying Burrito Bros.など)、Michael Clarke(マイケル・クラークのちにFlying Burrito Bros.など)で、その後メンバー交代を繰り返し1971年に解散、1973年にオリジナルメンバーで再結成もアルバム1枚で終了。途中でカントリーロックをメジャーな部門にのし上げた功績の持ち主・Gram Parsons(グラム・パーソンズのちにFlying Burrito Bros.)が加入したり、ギターの名手Clarence White(クラレンス・ホワイト)なども加入します。

バーズのことになると長くなりますのでこの辺にしますが、グラム・パーソンズとフライング・バッリト(ブリトー)・ブラザース(Flying Burrito Bros)については改めて書こうと思っています。

 

こうしてアメリカのフォークロックというジャンルが確立されるようになりました。

ディランは続いて『Highway 61(追憶のハイウェイ61』を発表します。

ブルースロックの稿でも書きましたようにこのアルバムはバターフィールド・ブルースバンドとアルクーパーなどがバックを務めています。実は私は当時(1965年)まだまだボブ・ディランなど知る由もなく、高校生になってPPM(ピーター・ポール・アンド・マリー)の「風に吹かれて」の作者がディランだということを初めて知って、原曲よりPPMのほうがよほどきれいでいいなと思ったことを憶えています。それから日本のフォークミュージシャンのほとんどが皆、口をそろえてボブ・ディランに影響を受けたというのを聴いてどんなもんだろうと、従兄の家に行ったときに「ディラン持ってる?」と聞いたところ「持ってるよ」ということで早速聴かせてもらいました。それで聴いたのが確か33回転のコンパクト盤(17cmLPと呼ばれていた)の「Like A Rolling Stone」でした。これには正直、”ぶったまげた”という表現がぴったりの驚きでした。曲調といい歌詞といい今まで聴いたことがないような音楽で、とにかく感動しました。それ以来ディランのとりこになりました。ちょうどディランの全作品が、中村とうよう氏の監修、片桐ユズルの訳詞で再発されていましたので、何とかお金を貯めて、少しずつ全作品揃えました。とにかくこの作品はロック史上最高峰に位置づけられる作品だと確信します。

続いて発表されたのが『Blonde On Blonde(ブロンド・オン・ブロンド)』です。

 このディランの7作目は2枚組でした。バックにザ・バンド(当時はまだザ・ホークスと名乗っていた)のメンバー・Robbie Robertson(ロビー・ロバートソン)のクレジットもみられます。この作品は前作の研ぎ澄まされたロックよりちょっと田舎っぽい、泥臭い、南部の雰囲気が感じられるサウンドになっています。録音場所がナッシュビルに移ったということも影響していると思います。このアルバムは私にとっては『追憶のハイウェイ61』と並ぶ、いやそれ以上の作品に思えます。

ボブ・ディランはこの頃ザ・バンド(当時はザ・ホークス)を従えコンサート活動を行っていました。その様子が近年発売されているディランの『The Booleg Series ,Vol.4』

で聴くことが出来るようになりました。

ディランはこの後,オートバイ事故で再起不能とまで言われ、ウッドストックで約2年間謎の隠遁生活に入りました。この間ホークスのメンバーを呼んでセッションを重ねました。この時”ビッグピンク”と呼ばれる家の地下室で録音された楽曲が後年(1975年)発表されました。『The Basement Tapes(地下室)』です。

この作品は、『Blonde On Blonde』の延長線上にあるような南部臭さが漂う、デモテープながら素晴らしいものでした。ザ・バンドの単独録音もありました。

ザ・ホークス改めザ・バンドはこの後『Music From Big Pink(ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク)』を製作・発表します。

このアルバムにはディランの「I Shall Be Released」や『地下室』にも入っていた「Tears Of Rage(怒りの涙)』も入っており、また「The Weight」が映画『イージーライダー』にも挿入されザ・バンドは一躍有名になりました。その後も良質なアルバムを出し続け"Grateful Dead" "The Allman Brothers Band"と並びアメリカの3大バンドと言われるまでになりました。

ザ・バンドは元々ロニー・ホーキンスというロックンロールの歌手がカナダで見つけたバンドでそれ以降彼のバックバンドを務めていました。

メンバーはロビー・ロバートソン(g)、リック・ダンコ(b,vo)、レボン・ヘルム(ds,vo)、リチャード・マニュエル(key,vo)、ガース・ハドソン(key,etc)の5人です。

リーダーのロビー・ロバートソンは1976年バンドの解散を発表します。他のメンバーは解散に反対でしたが、結局解散に至りました。そして解散コンサートに多くのミュージシャンが参集しました。ディランをはじめニール・ヤングジョニ・ミッチェルドクター・ジョン、クラプトン、ニール・ダイアモンド、ヴァン・モリソン、ポール・バターフィールド、リンゴ・スターマディ・ウォーターズその他。ザ・バンドの交友ぶりがわかります。この時の模様は『ラスト・ワルツ』として映画にもなりました。私もロードショー封切りと同時に友人のN.S君、S.S君と観に行きました。ザ・バンドもそうですが他のミュージシャンをたくさん観られて満足でした。またレコードでも3枚組『Last Waltz』で発表されました。

 

この他にディランとザ・バンドの共演は『Planet Waves(プラネット・ウェイヴス)』『Before The Flood(偉大なる復活)』

  

 特に後者はライブ2枚組で、ザ・バンドの演奏も十分効けますし最高のライブアルバムです。

ディランの1978年の初来日の時の興奮が今蘇るようです。蛇足ですが、この時の日本武道館の講演で岡林信康美空ひばりを見かけました。

 

話が前後しますが、ディランはバイク事故復活後は音楽性がコロコロ変わり、歌詞もますます難解になり周囲を驚かすことに事欠きませんでした。一時は声まですっかり変わりまるで別人のようでした。

とりあえずディランのフォークロック時期を書いてきましたが、結局まとまりませんでした。なにしろ彼は理解のはるか彼方にいるような人ですので致し方ないと自分に言い聞かせます。

昨年、ノーベル文学賞の受賞が決まって、やったなと大喝采でしたが、本当に受賞するかなと半信半疑でしたが、受賞しました。やっぱり理解の外でした。

ここまでアメリカのフォークロックについて書いてきましたが、次の機会に今度はイギリスのフォークロックを取り上げてみたいと思います。フェアポート・コンヴェンションについては既に書きましたので、それ以外の連中を書いてみたいと思います。

それでは。

ブルースロックの名手たち 60年~70年代編 ③

今回はアメリカのブルースロックのお気に入りミュージシャンを何人か取り上げてみます。

書きたいことがいっぱいあって、あっ、まだあの人を書いていないとか、あれもまだだとか、何しろせっかちな性格なもので、一人で焦ったりしてバカみたいなのですが、これも性分でしょうがないのです。でもまあ先は長いことですので、のんびりとやっていくことにしました。

ということでまず、

Al Kooper(アル・クーパー)、Michael Bloomfield(マイケル・ブルームフィールド)

この二人はボブ・ディランの『Highway 61 Revisited』の録音で知り合います。マイケルは当時バターフィールド・ブルース・バンド(前々回紹介)に在籍しており、同バンドがディランのバックを務めることになり、レコーディングをしていたのですが、そこにアルが飛び入り参加して(オルガン)、知り合いになります。そして二人でセッションをする話が持ち上がり、レコーディングに取り掛かりましたが、2日目のセッションにはマイクは参加せず、代わりにスティーヴン・スティルス(Stephen Stills)が参加しました。その時の様子が『Super Sessions』に収められています。(1968年)

レコードでいうとA面がマイク、B面がスティルスでアルが両面参加です。

さらに翌年、再び二人はフィルモア・ウェスト『The Live Adventure of Mike Bloomfield and Al Kooper(フィルモアの奇蹟)』

をライブ録音します。レコードで2枚組です。このライブではマイクが途中で不眠症ででダウン、病院に担ぎ込まれ、代役でカルロス・サンタナや後で紹介するエルヴィン・ビショップ、スティーヴ・ミラー(レコードではクレジットされていませんが)務めます。レコードでは3面に収録されています。このアルバムではブルースナンバーのほかに”サイモンとガーファンクル”や”ザ・バンド”、”トラフィック”の曲なども取り上げ、それ以降のセッションブームの先駆けとなりました。

アルはディランのレコーディング参加後、"The Blues Project(ブルース・プロジェクト)"、”Blood,Sweat & Tears(ブラッド・スウェット・アンド・ティアーズ略してBST)”を結成しますが、いずれも短期間で脱退しマイケルとのセッションに参加することになります。その後はソロ活動に入ります。

   

 ソロになってから私が好きなアルバムは『Nakes Songs(赤心の歌)』ですね。

このなかのブルースナンバー「As Years Go Passing By(時の流れるごとく)」は珍しくアルがギターを弾き、ブルースフィーリングたっぷりに歌い上げています。

蛇足ですが大学時代、たしかマリア・マルダーのライブだったと思いますが、影の方でキーボードを弾いていたのはアル・クーパーじゃなかったのかなと、今でも思っています。

一方マイケルはディランのレコーディング参加後、バターフィールド・ブルース・バンドを脱退しバリー・ゴールドバーグやニック・グレイヴナイツなどと"The Electric Flag(エレクトリック・フラッグ)"を結成しアルバム『A Long Time Coming』を発表します。

その後もソロアルバムやニック・グレイヴナイツらと『Live at Bill Graham's Fillmore West(永遠のフィルモア・ウェスト)』を発表したりします。

その後はあまり輝かしい活躍もなく、1981年に薬による中毒で37歳で死亡しました。あまりに繊細な神経の持ち主だったのでしょう。

白人のブルースギタリストとしては間違いなく最高峰の1人だったでしょう。

 

Elvin Bishop(エルヴィン・ビショップ)

彼はバターフィールド・ブルース・バンドの3B(バターフィールド、ブルームフィールド、ビショップ)と呼ばれ、ブルームフィールド脱退後は同バンドのリードギターを務めました。しかし、すぐに脱退し独自の”Elvin Bishop Group"を結成します。当初はブルースを基調としたロックでしたが次第に様々な要素を取り入れ、しまいには大ヒット曲を出すまでに都会的に洗練されたグループになりました。

1st『Elvin Bishop Group』

2 nd『Feel It』

大ヒットの6th『Struttin' My Stuff』

先ほどのフィルモア・ウェストフィルモア・イーストというビル・グラハムが作ったロックのコンサート会場フィルモア・オーディトリアムが1971年に閉鎖されることになって、その最後の1週間の特別興行がドキュメンタリーとして作製され、『フィルモア最后のコンサート』として上映されました。フィルモアには数々のミュージシャンが出演して、数々のライブアルバムが発表されました。この最後の1週間にもそうそうたるメンバーが出演し、当時はビデオも洋楽のテレビ番組もなく洋楽ミュージシャンの動く姿はごく稀に映画で観る(ウッドストックギミーシェルターなど)以外にはなかったので、この映画は当時のウェストコーストのミュージシャンを観られたということで大興奮でした。

フィルモア 最后のコンサート[A4判]

その中でエルヴィン・ビショップが夢中で首を振り振りギターを演奏する姿は圧巻でした。この映画の目玉の1つになっていたと思います(個人的感想ですが)。このあと出てくるボズ・スキャッグスも目玉の1つでしたが。

 

Steve Miller Band(スティーヴ・ミラー・バンド

当初は”Steve MIller Blues Band"と名乗っていたくらい、ブルースに傾倒していました。1stアルバム『Children Of The Future(未来の子供達)』

2ndアルバム『Sailor』

 

まではボズ・スキャッグスBoz Scaggs)が在籍していました。濃厚なブルースを聴かせます。3rdアルバム以降は徐々にブルース色は薄れていきます。

そして8枚目の『The Joker』が大ヒットします。

続く『Fly LIke An Eagle(鷲の爪)』で不動の人気を獲得します。

この後も良質な作品を残し現在に至っています。

実は彼をこの稿に載せるのには迷いがありました。このアルバムは中村とうよう氏が当時の「ニューミュージックマガジン」で確か99点か100点を付けたと思います。理由はロックの新しい時代の始まりだというようなことが書かれていたと記憶しています。それぐらい素晴らしいアルバムでした。楽器の使い方やメロディー、録音すべてがこれまでにないような処理の仕方でした。ということで私は今でも彼の新譜を追いかけ続けていますので、ブルースロックの範疇に入れるのにはちょっと抵抗があったのですが、初期のころのブルース色を考慮して入れてみました。

彼についてはまた別途取り上げるかもしれません。

 

Boz Scaggsボズ・スキャッグス

上のスティーヴ・ミラー・バンドに2ndまで在籍していた彼は、その後ソロとなって1969年に1stアルバム『Boz Scaggs』を発表します。

この中の「Loan Me A Dime」はフェントン・ロビンソンのブルースでデュアン・オールマンも参加して12分に及ぶ大作、傑作になっています。

しかしレコードの売り上げは芳しくありませんでした。そのような状態が4作目まで続き、5作目の『Slow Dancer』で大変身を遂げます。

 

それまでの野暮ったい兄ちゃんから、あか抜けた紳士に変身したように音楽の方も泥臭い音楽から、都会的なそれでいてソウルフルなボーカルであっと言わせました。

次の『Silk Degrees』で決定的となりました。なかでも「We Are All Alone(ウィー・アー・アール・アローン)」は今でも名曲として歌われています。

その後はAOR(アダルト・オリエンテッド・ロック)の分野で人気を保っているようです。私は次の『Down To Then Left 』で卒業しました。

1978年の日本公演も日本武道館に観に行きました。残念ながらチケットの半券は残っていません。

 そういえばボズも「フィルモア最后のコンサート」で頑張ってギターを弾いていました。確か映画では「Loan Me A Dime」だったと思うのですがレコードでは「Baby's Callin' Me Home」でした。何年か前にこの映画がDVD化され発売され(日本では未発売)たのですが、なぜかボズの場面がカットされているのです。こんなふざけた話はありません。早く完全版を日本から発売してくれるのを切に望みます。

 

 

Canned Heat(キャンド・ヒート)

このバンドはメンバーの入れ替わりが激しくつかみどころのないバンドですが間違いなくアメリカを代表するブルースロックバンドでしょう。映画『ウッドストック』のオープニングにも彼らの曲が使われました。

初期のメンバーはAllan"Blind Owl" Wilson(アラン・盲目のフクロウ・ウィルソン)、Bob"The Bear"Hite(ボブ・熊・ハイト)を中心にLarry Taylor(ラリー・テイラー)、Henrry Vestine(ヘンリー・ヴェスティン)、Frank Cookでまさにブギウギ、ブルースバンドでした。アランのボーカルが非常に特徴的で、なんか気が抜けるような細い声で、逆に”熊”の方は身体同様野太い声で対照的でした。そこがまた良かったのでしょう。

アランは1970年27歳で亡くなりました。最後はほとんど目も見えなくなっていたようです。牛乳瓶の底のような眼鏡をかけていましたから。死因は謎です。殺人といううわさも流されましたが、薬物によるものとされたようです。

アランが亡くなってからは”熊”がグループを引っ張っていきましたが、彼も1981年36歳で亡くなりました。途中Flying Burrito Brothersに参加するJoel Scott Hill(ジョエル・スコット・ヒル)やWalter Trout(ウォルター・トラウト)なども参加しますが、両巨頭を失ってからは残念ながら存在感が失なっていきました。

アルバムは数多く出ています。私が好きなアルバムは

『Rollin' And Tumblin'』

『Boogie With Canned Heat』

『Living The Blues』

『Future Blues』

   

 ちなみに『Living The Blues』はレコードとジャケットが違います。

 

ちょっと長くなってしまいました。きりがなくなってきたので今日はこの辺にします。

また後日ということで。

クレイグ・エリクソン(Craig Erickson) 第3弾

HMVから届いたCD、最後は

『Craig Erickson/Big Highway』です。

予想どうり、ゴリゴリのブルースロック。こういう頑なな姿勢は好感が持てます。

このアルバムは彼にとっての通算7枚目で、2007年発表です。全部で11枚のアルバムがあります。私にとっては3枚目のアルバムになります。結構なキャリアですが、日本では知名度がいまいちです。やはりこういうロックはあまり一般受けしないのでしょうね。

全体的にブルース色が強く、ギターもギンギンでいいんですが、難を言えば捨て曲はないが目玉曲もないというところですか。それでも私には十分楽しめました。

フェヴァリット・ギタリストに名を連ねそうです。

と、いうことで今回の購入は正解でした。ある程度予測がついたので、こういう結果になりましたが、現場に行って衝動買いすると、大体3分の1は1度聴いてそのままというのがあります。ひどいのは1曲聴いてお終いというのもあります。もったいないがしょうがないです。この衝動は抑えられません。病気みたいなものですね。でも大丈夫、懐具合以上のものは求めませんから。

こうしてみるとジャンルはバラバラですが「いいものはいい」という趣旨のもとでこれからも聞き続けます。

『メリッサ・エスリッジ(Melissa Etheridge)』を聴く

引き続きHMVのCDです。

『Melissa Etheridge/Skin』

メリッサのCDを購入するのは2回目です。以前購入したのは

『Melissa Etheridge/Yes I Am』

です。が、実はあまり強い印象がなく、多分1度聴いてそのままほったらかしになっていたと思います。それがなぜ今回購入することになったかというと、HMVの「欲しいものリスト」に残っていたのです。最近HMVのホームページを覘くことがなかったのですっかり忘れていたのです。それで今回の購入のついでということで、値段も安価だったので購入したという次第です。「欲しいものリスト」に乗せていたということは、それなりに気に入っていたということなのだと思うのですが、すっかり記憶から落ちていました。

聴いてみると、なんとこれがいいんです。ブルースロックの雰囲気で、ボニー・レイットを思わせます。メリッサ様ごめんなさい。

こういうことがあるから出鱈目な買い方も楽しいのです。

そのうち女性ボーカル特集でもしてみようかな。かなりの数になります。