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Flying Skynyrdのブログ

映画や音楽、本についての雑文

フリー(Free)~コゾフ(Kossoff)とロジャース(Rodgers)の運命は

今日は「フリー」です。ブルースロック・シリーズで取り上げようか迷いましたが、彼等はやはりハードロックの旗手として捉えたほうがしっくりする様な気がしましたので、単独で取り上げてみたいと思います(どうでもいいことですが)。

フリーはポール・ロジャース(Paul Rodgers ,vo,g)、ポール・コゾフ(Paul Kossoff ,g)、アンディ・フレイザー(Andy Fraser ,b)、サイモン・カーク(Simon Kirke,ds)の4人でイギリスで結成され、1969年にデビューします。

デビューアルバムは『Tons Of Sobs(トンズ・オブ・ソブス)』です。

これは濃厚なブルースロックアルバムです。このアルバムのために初めに書いたようにブルースロック・シリーズに載せようか迷ってしまったのです。実はこのアルバムは私にとってはフリーのアルバムの中では最も好きなアルバムの1枚です。ロジャースのヴォーカルは声の質といいロックを歌うために生まれてきたような、まさに天才ヴォーカリストです。コゾフのギターは泣きのギターで有名ですが、ギターが震えているようです。

次は『Free(フリー)』です。このアルバムではフレーザーの曲(ロジャースとの共作ですが)が全曲を占めるようになります。前作では2人の共作は2曲だけで、あとはロジャース単独の曲が多かったのですが、フレーザーのソングライティング能力が上がってきたのです。(1969年)

そして、いよいよ『Fire And Water(ファイアー・アンド・ウォーター)』の登場です。この中の「オール・ライト・ナウ」が大ヒットしフリーは完全にハードロック界のスターにのし上がりました。このアルバムには他にもタイトル曲や「ミスター・ビッグ」「ヘヴィー・ロード」なども収録されています。(1970年)

次は『Highway(ハイウェイ)』です。このアルバム発表後にアンディ・フレイザーバンドを去ります。私個人的には前作よりこちらのほうが好きでした。「ビー・マイ・フレンド」「サニー・デイ」「スティーラー」「ハイウェイ・ソング」など名曲ぞろいですが、静かな曲が多いので賛否が分かれたのでしょう。最後の曲が「スーン・アイル・ビー・ゴーン」というアンディの曲が意味深です。(1970年)

翌年、『Free Live!(フリー ライヴ!)』が発表されます。これは文句なしのライヴアルバムです。いい曲ばかり揃えたという感じです。最初にこのアルバムを聴けば好きになること間違いなしです(大袈裟か)

この後、バンドは解散状態になりましたが、サイモンとコゾフが日本人ベーシスト山内テツとキーボードのジョン・バンドリック(ラビット)を誘い、”Kossoff ,Kirke,Tetsu,Rabbit"というユニットを発足させレコーディングしました(『Kossoff ,Kirke,Tetsu,Rabbit』)。

これがうまくいきサイモンの呼びかけでフリーは再結成されることになりました。

 そして発表されたのが『Free At Last(フリー・アット・ラスト)』です。オリジナルメンバーによる最後のアルバムとなりました。(1972年)

この後、アンディが抜け、テツとラビットが加わり、本当に最後のアルバム『Heartbreaker(ハートブレイカー)』が発表されました。このアルバムではコゾフの参加は数曲だけでした。ロジャースが代わりにギターを弾いています。コゾフはドラッグまみれで、メンバーが何とか彼を立ち直らせようといろいろ努力したようですが、結局はこれで解散ということになりました。

このアルバムは1曲目の「ウィッシング・ウェル」から4曲目の「ハートブレイカー」までの流れが素晴らしく(レコードのA面)、なかでも2曲目の「カムトゲザー・イン・ザ・モーニング」はロジャースの声とコゾフのギターが思い切り泣いて、震えます。アルバムジャケットもカッコいいです。私にとってこのアルバムはひときわ思い入れが激しく、特にタイトルナンバーの「ハートブレイカー」は一生涯忘れることができない曲になりました。理由は言えません。

フリーのアルバムがCD化されたとき面白いものを発見しました。

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背表紙を並べるとそれぞれコゾフとロジャースの顔になります。やってくれましたよ。

フリー解散のあとは、ポール・ロジャースはサイモン・カークと"Bad Company(バッド・カンパニー)"を、ポール・コゾフは1973年にソロ・アルバム『Back Street Crawler(バック・ストリート・クローラー)』を発表します。これにはフリーのメンバーも参加し、私も嬉しくなりました。

そして、このアルバムのタイトル名と同じグループ名で活動を始めます。そして2枚アルバムを制作しますが、1976年、2枚目の制作途中で飛行機の中で亡くなります。ドラッグ中毒です。アルバムは『Band Plays On(バンド・プレイズ・オン)』と『2nd Street(セカンド・ストリート)』でした。わずか25歳でした。ショックでした。後者が遺作となってしまいました。

 

このバンドはその後、Crawlerと名前を変え、2枚ほどアルバムを出して解散します。

 

一方ポール・ロジャースのバッド・カンパニーはサイモン・カークの他にモット・ザ・フープルのギタリスト ミック・ラルフス、キング・クリムゾンのベーシスト ボズ・バレルでスタートします。

デビューアルバムから大ヒットで不動の人気を獲得します。『Bad Company(バッド・カンパニー)』とにかくこのアルバムは凄い。全曲文句なし。ミック・ラルフスのモット・ザ・フープル時代の「レディ・フォー・ラブ」もロジャースのヴォーカルだとまたひと味違って名曲として生まれ変わります。(1974年)

続いては『Straight Shooter(ストレイト・シューター)』です。この発表の年(1975年)に来日します。もちろん観に行きました。日本武道館です。確か1日だけの公演であまりいい席が獲れなかったように記憶していますが、それでもポール・ロジャースを聴けたことで満足でした。

さらに1976年、77年と続けて『Run With The Pack(ラン・ウィズ・ザ・パック)』、『Burnin' Sky(バーニング・スカイ)』と続けてアルバムを発表します。

  

しかし、このあとしばらく休養に入り、1979年、久々に出されたアルバム『Desolation Angels(ディゾレイション・エンジェルス)』も高評価でしたが、再び長期休養に入ります。

そして、1982年に『Rough Diamonds(ラフ・ダイアモンド)』を発表しますが、かつてのような輝きはみられませんでした。ここでポール・ロジャースはグループを脱退します。

 

脱退後はソロアルバム(『Cut Loose』)を発表したり、ツェッペリンジミー・ペイジとグループを組んだり(The Firm)し、1993年にはマディ・ウォーターズへのトリビュート・アルバム(『Muddy Water Blues』)を制作したりします。そして、1998年にはオリジナルメンバーにより、バッド・カンパニーを再結成します。こうしてポール・ロジャースは今でも活躍しています。

 

 

このように見てくると、同じ志を持った二人の若者が同じように脚光を浴びながら、その後の人生の明暗はどう理解すればよいのでしょうか。片や人知れずぼろぼろになって亡くなり、片や常に音楽界の第一線でいまだに活躍中。この対称的な人生を歩んだ二人ですが、音楽にかける情熱は同じように激しかったのでしょう。どちらが勝ち、負けということはありませんが、この違いはどこから来るのでしょう。改めて人生の不可思議さを思い知らされる二人の生き方でした。あっ、ロジャースはまだ終わっていませんね。失礼しました。ポール・ロジャースの今後の活躍を祈ります。

なお、フリーの全貌は5枚組CD『Songs Of Yesterday』で聴くことが出来ます。

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トラフィック(Traffic)時代のスティーヴ・ウィンウッド(Steve Winwood)とデイヴ・メイソン(Dave Mason)

ブリティッシュ・ロックの雄、私の大好きなバンドの一つ、トラフィックは1967年、スティーヴ(g,key,vo)、デイヴ(g,vo)、ジム・キャパルディ(Jim Capaldi  ds,vo)、クリス・ウッド(fl,saax)の4人で結成されました。

スティーヴは15歳でスペンサー・デイヴィス・グループに兄のマフ・ウィンウッドと参加し、「キープ・オン・ランニング」や「ギミー・サム・ラヴィング」などの大ヒットを飛ばし、そのソウルフルなボーカルと切れの良いキーボードで天才少年と騒がれました。しかしよりポップな音楽を目指すリーダーのスペンサー・デイヴィスと音楽性の食い違いから脱退を考えるようになりました。スティーヴはそれまでのブルースやロックミュージックのみならずフォークやR&B、ジャズといった幅広い音楽を目指していました。そして3人と知り合いセッションを重ねるうちに新しいバンドの結成を決意します。スティーヴはスペンサー・デイヴィス・グループを脱退し、4人はバークシャーの小屋で6か月間合宿をし、ついにアイランドレコードよりデビューします。デビューシングル「ペイパー・サン」がいきなり大ヒットし、ファーストアルバム『Mr.Fantsy(ミスター・ファンタジー)』も大好評でした。プロデュースはあのジミー・ミラーでした。

その当時のイギリスのロック界はブルースロック花盛りで、トラフィックの作り出すちょっとサイケデリックトータルアルバム的なところもあるこのアルバムは新しいロックの方向性を感じさせる1枚でした。次の2ndアルバム『Traffic(トラフィック)』も高評価でした。今でも名曲として歌われている「パーリー・クイーン」やデイヴ・メイソンの「フィーリング・オールライト」なども入っています。

しかし、ここで問題が起きます。スティーヴとデイヴの対立です。この二人、アルバムの曲作りは分業で、スティーブとジムは共作、デイブは単独となっています。互いに個性が強く、譲らないという面もあったのでしょう。デイヴはさっさとグループを去ります。スティーヴも最後に『Last Exit(フェアウェル・トラフィック)』という3人でのスタジオ録音と片面ライブのアルバムを出してあっさりとグループを解散します。1969年でした。

このあとスティーヴはエリック・クラプトン、クリームのds ジンジャー・ベイカー、ファミリーのb リック・グレッチとあのスーパー・グループ "Blind Faith(ブラインド・フェイス)"を結成します。そしてアルバム『Blind Faith(スーパー・ジャイアンツ)』を発表しますが、半年余りであえなく解散します。

このアルバムには今でもクラプトンやスティーヴに歌われている「Can't Find My Way Home」や「Presence Of The Lord」が含まれています。私も大好きです。余談ですがこのアルバムジャケットは一時問題になり、差し替えられていた時期がありました。理由は想像にお任せします。

解散後、スティーヴはソロアルバムの作製に取り掛かります。そこにかつてのトラフィックのメンバーであるジムとクリスが応援に来ます。そして出来上がった傑作アルバム『John Barleycorn Must Die(ジョン・バーレイコーン・マスト・ダイ)』(1970年)には「トラフィック」の名前が刻まれていました。トラフィックの再結成です。このアルバムは6曲入りですが、「ジョン・バーレイコーン」をはじめ地味ではありますが佳曲ぞろいです。特にこの曲はトラディショナル・フォークを思わせ、しっとりと聞かせます。

そしてこのあと、トラフィックブラインド・フェイスのメンバーだったリック・グレッチをメンバーに加えました。そして、ライブアルバムが発表されたのです。『Welcome To The Canteen(ウェルカム・トウ・キャンティーン)』です(1971年)。このアルバムのクレジットには7人の名前がありました。メンバーの4人の他にジム・ゴードン(Jim Gordon, ds, ジョー・コッカーバンドやDerek & The Domins)、リーバップ(per)、それとなんとデイヴ・メイソンです。デイヴが復帰したのです。しかし、このアルバムにはなぜか「トラフィック」の名前はありませんでした。デイヴの復帰はこの1枚限りでした。

 このアルバムでデイヴは2曲のオリジナル曲を歌っています。「サッド・アンド・ディープ・アズ・ユー」は名曲です。

再びデイヴが外れ、残りのメンバーで次のアルバム『The Low Spark Of High Heeled Boys(ザ・ロウ・スパーク・オブ・ハイヒールド・ボーイズ)』を発表します(1971年)。このアルバムからは長尺演奏が目立ってきます。11分を超えるタイトル曲の他に7分を超える曲も2曲入っています。

次は録音地をマッスルショールズに移し、メンバーにもマッスルショールズのスタジオミュージシャンを入れます。ジム・ゴードンとリック・グレッチが抜けデヴィッド・フット(David Hood ,b)とロジャー・ホーキンス(Roger Hawkins ,ds)が加わりました。アルバムは『Shoot Out The Fantasy Factory(シュートアウト・ザ・ファンタジー・ファクトリー)』(1973年)です。このアルバムもわずか5曲です。白眉は「(Sometimes I Feel So)Uninspired 」です。この曲は何度聴いたかわからないほどです。スティーヴも疲れているんだなと思ったりしました。

この2枚のレコードジャケットは6角形でした。珍しいのでレコードを載せます。

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1972年当時の珍しいビデオ(VHS)があります。おそらくDVDにはなっていないと思います。メンバーはマッスルショールズのミュージシャンたちです。

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このあとバリー・ベケット(Barry Beckett ,key)を加え、1973年、2枚組ライブアルバムを発表します。『On The Road(オン・ザ・ロード)』です。

 2枚組なのに収録は6曲です。ジャズロックのような雰囲気を漂わせます。

そして1974年にラストアルバム『When The Eagle Flies(ホエン・ジ・イーグル・フライズ)』を発表します。マッスルショールズのメンバーは抜け、ベースにジャマイカのロスコ・ジーが加わりました。

ラストを飾るにふさわしい、何とも言えない、ジャンルにとらわれない、これぞトラフィックです、というアルバムです。

1983年にはクリス・ウッドは亡くなります。そして1994年にスティーヴはジムとトラフィック名義でアルバムを発表します。『Far From Home(ファー・フロム・ホーム)』です。

そして今度はデイヴ・メイソンとジム・キャパルディがコンビで活動します。

しかしジムも2005年に亡くなります。もう残るはスティーヴとデイヴだけです。寂しい限りです。

 

トラフィック解散後、デイヴ・メイソンとスティーヴ・ウィンウッドはそれぞれ来日を果たしました。デイブは1977年に中野サンプラザで、スティーヴは1989年代々木の体育館でそれぞれコンサートを開いています。当然私は観に行きました。双方とも大満足でしたが、スティーヴの方は来日が遅かったので、ソロからの曲が多く、期待していたトラフィック時代の曲がほとんど聴けなかったのがちょっと残念でした。でもギターを弾きながらのブルースは圧巻でした。デイヴの方はその前に発表されていたライブアルバム『Certified Live(ライブ~情炎)』を彷彿とさせるもので大満足でした。

それぞれのソロアルバムについてはまたの機会に書くことにします。たくさんの名盤があります。

音楽雑誌のことなど

本棚を整理していたら、いろいろ懐かしい雑誌が出てきたのでちょっと取り上げてみたいと思います。

まずは、『ニューミュージックマガジン』(NMM)。これは1969年4月の創刊だそうです。私は当時高校生で洋楽に嵌りだした頃でした。この翌年から買い始め、その後毎月20年以上購読し続けました。途中から『ミュージックマガジン』と改名されました。90年頃以降、記事がロック以外多岐に亘るようになってきたため90年半ばごろ購読をやめました。家が狭くて保管場所がないというのも大きな理由でしたが。残念ながら80年以降のバックナンバーはすべて処分してしまいました。好きなものをとっておくというのも現実は金がかかるのです。

NMMは中村とうよう氏らによって創刊されました。当時の音楽雑誌には星加ルミ子編集の『ミュージックライフ』というのがあって、写真も多く女の子にも人気ででした。映画雑誌でいうと『スクリーン』ような芸能誌に近いものだったと思います。それとヤマハで出していた『ライトミュージック』というのもありましたね。でも私の場合はそちらの方にはあまり触手が動かず、NNMの方に興味をそそられました。なぜかというとNMMには音楽雑誌なのですが、どこか反体制的なそしてアヴァンギャルドな匂いがしたのです。取り上げられる記事もボブ・ディラン岡林信康など、あるいはロックという音楽の位置づけなども芸能雑誌とは一線を画していました。執筆者は小倉エージ、北中正和萩原健太、日暮泰文などがいたと思います。特に中村とうよう氏の批評は政治から音楽ジャーナリズムまで幅広く、毎回楽しみでした。とうよう氏は2011年に79歳の時に飛び降り自殺をしました。すべてやりつくしたというような遺書が残されていたようです。彼の記事や本には様々なことを教えられました。感謝の一言に尽きます。

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1970年の『ニューミュージックマガジン』。表紙のイラストがすごくいいですよね。確かこの頃の装丁は矢吹申彦だったと思います。本当にいいですね。これだけでも買いたくなってしまいます。値段を見たら160円でした。びっくりです。もっともこの値段だから買えたんでしょうけど。

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1971年頃。この頃は210円。

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1972年頃 フランク・ザッパチャック・ベリーマーク・ボランです。250円位になっていたでしょうか。

ミュージックマガジン社はこの他に『ニューミュージックマガジン年鑑』というのも途中から毎年発行するようになりました。さらに単行本も発行していました。

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1970年代の年鑑。

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1980年代の年鑑・増刊

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単行本。主に中村とうよう氏などの執筆。

 

1982年にNMMの別冊として『レコードコレクターズ』が創刊されました。

編集長はやはり中村とうよう氏です。当初は別冊で隔月発行でした。やがて毎月発行になり別冊の名前も消えました。

この雑誌は最初の数冊はジャズ中心でした。その後ロックも扱うようになり、おもにリイシュー盤が発売される比較的ビッグなアーティストの特集が多かったと思います。

ジャズ中心のころの『レコードコレクターズ』

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ロックも特集するようになりました。ジェファーソンやクリーム。デッドなど。

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この雑誌も30年弱購読しましたが、先の理由で購読を止めてしまいました。

 

 『レコードコレクターズ』にも増刊号がありました。

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この他の雑誌では『ジャズ批評』が出てきました。この雑誌も結構な期間購読しました。

 

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1970年代の『ジャズ批評』

この当時はまだページ数も少なく今の半分ほどの厚さだったのでは。

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こんなブルース特集もやってました。

 

続いて海潮社の『音楽全書』です。季刊でした。これはいい雑誌だと思ったのですが、あっという間に廃刊になってしまったのではなかったでしょうか。(1976年~1977年)

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次は1998年12月創刊の『ストレンジデイズ』です。これは当初CDジャーナルの別冊として発刊されました。今は休刊になっているみたいです。装丁も用紙も高級感漂う雑誌でした。どちらかというとプログレをはじめブリティッシュ系の特集が多かったような印象があります。値段はちょっと高めでした。これも何年か購読しました。

『ストレンジデイズ』の創刊号から3号まで。クーラ・シェイカーが表紙になっていたなんて忘れていました。ブルースロックの特集などもありました。

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あと、『現代思想』で有名な青土社から『音楽の手帖』なる雑誌も出ていました。

クラシックが主ですが、たまにジャズ特集などもやってたのですね。(1979年)

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その青土社の『ユリイカ』の特集でたまに音楽や映画が特集され、そういう時は購入していました。松本俊夫監督も執筆されています。(1980年)

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先ほどのNNMの執筆者、日暮泰文が発行したブルースの雑誌、その名も『ザ・ブルース』なんていうのもありました。その増刊号。レゲエ特集。(1979年)

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あと、たぶん今はもう廃刊になってしまっていると思いますが『カイエ』なんていう雑誌もありました。もちろん音楽雑誌ではありませんが、『ユリイカ』と同じでたまに映画や音楽を取り上げていました。これにも松本俊夫監督が執筆しておられます。(1979年)

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ブロンズ社の音楽雑誌『同時代音楽』。確か1970年代の終わりの頃に創刊されたと思いますがすぐ廃刊になったのではないでしょうか。季刊です。それの臨時増刊号です。(1978年)

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それと最後に『詩の世界』。これは詩の世界社発行です。ボブ・ディラン特集です。執筆メンバーを見たら、今となっては驚きですよね。こうしてみるとボブ・ディランについては詩人として当時から盛んに取り上げられていたのがわかります。ノーベル賞も当然でしょう。(1978年)

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雑誌ではありませんが、やはりクラシック専門の出版社『音楽の友社』からこんな本も出されていました。著名なジャズ評論家の相倉久人の翻訳本です。ブルースにも造詣が深かったです。

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おまけでシンコーミュージックからの単行本です。

日本のフォークアルバムのジャケットがほとんど載っています。URCはよかった。(1992年)

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以上、いろいろ見てきましたが、なぜか映画の雑誌が1冊も残っていません。随分買った記憶があるのですがどうしたのでしょう。憶えていませんが、たぶん処分してしまったのでしょう。もったいない。『キネマ旬報』『映画評論』『映画批評』など、どこへ行ってしまったのでしょう?

『フィリップ・セイス(Philip Sayce)』を聴く

今日はフィリップ・セイス(Philip Sayce)の『Silver Weels Of Stars』を紹介します。

フィリップ・セイスを聴くのは初めてです。名前は以前から知っていたのですが、買うチャンスがありませんでした。ところが最近安価で見つけたので購入することに。

先日紹介したメリッサ・エスリッジのバックでギターを弾いていた人です。ブルース・ギタリストという触れ込みでだったので、なんとなく記憶していたのですが、このアルバムはブルース色は薄く、どちらかというとハードロックにバラードを交えたオーソドックスなロックアルバムに仕上がっています。インストナンバーなどはジミヘンを感じさせたりします。全体的にいろいろなアーティストの影響を感じさせます(ツエッペリンだったりパープルだったりと)。

彼はクラプトンやジミヘン、スティーヴィ・レイヴォーンなどに影響を受けたといいますからやはりブルースの影響が強いのでしょう。年齢的には40歳を超えて、決して若くはありませんが、メリッサと出会うことで道が開けたという感じなのでしょうか。このアルバムでもメリッサが1曲デュエットしています。

この後のアルバムを聴いていないのでその後どのようになっているのかは今のところ不明です。このアルバムの前に2枚、この後に5枚ほど出しているようです。安価で見つけたら買ってみることにします。

 

高校時代の読書について

昔のことを書いていると、いろいろと思い出されることが多く、回顧録のようになってしまいますが、それはそれでまあいいかと思い、頭に蘇るまま書き綴ることにします。

今日は高校時代にどんな本を読んでいたかを思い出してみます。まず頭に浮かぶのは、大学に通っていた兄から薦められて読んだカミュ『異邦人』です。高校入学間もない頃だったと思います。不条理だの実存主義弁証法唯物論などなど当時はこういう言葉が飛び交っていたように思います。

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『異邦人』の書き出し、「きょう、ママンが死んだ。もしかすると、昨日かも知れないが、私にはわからない。養老院から電報をもらった。『ハハウエノシヲイタム、マイソウアス』これでは何もわからない、おそらく昨日だったのだろう。」。これは衝撃的でした。主人公ムルソーは葬儀の翌日、女と情事にふけり、映画を観て笑い転げ、母親の死んだ悲しみなどかけらもなく、普段どうりの生活をし、最後には殺人まで犯してしまいます。第2部の殺人事件の裁判で、ムルソーはその動機について聞かれ、「太陽がまぶしかったから」と答え、聴衆の憎悪を煽ります。判決は死刑。ムルソーは満足します。そして最後に「自分が幸福だったし、今なお幸福であることを悟った。一切がはたされ、私がより孤独でないことを感じるために、この私に残された望といっては、私の処刑の日に大勢の見物人が集まり、憎悪の叫びをあげて、私を迎えることだけだった。」で終わります。

私はそれまでこういった小説を読んだことがなかったので面喰いました。が、引き込まれました。訳もわからずにというか、何かが自分の中で動いたような気がしたのです。

元々私はそれほど読書が好きなわけではありませんでした。小学校の時は『世界名作全集』なるものを半強制的に読まされましたので、一応有名な小説は一通り読んではいましたが、夢中になるというほどでもありませんでした。中学校では部活が忙しく、夜も遅く、休みの日も部活で読書どころではありませんでした。ということで本格的に読書に目覚めたのはやはり高校生になってからでした。

『異邦人』に続いて『ペスト』カフカの『変身』『』などを読み漁り、しまいにサルトルの『嘔吐』まで行って訳が分からなくなりました。木の根っこを見て嘔吐するってなんだよ、ってな感じでした。その他に弁証法などの哲学本などにも触手を広げていきました。が、結局理解には程遠かったのでしょう。そういうものを読んでること自体に自己満足していたのかもしれません。

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学校では高校1年で隣の席の友人が、マルクス=エンゲルスの『共産党宣言』や毛沢東の『実践論・矛盾論』などなどを読めと、重要な部分に赤線を引き熱心に薦めてきます。

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私は薦められるまま、様々なその類いの本を読み続けました。時代がそういうものを要求していたのでしょう。卒業後その友人は活動家になって関西方面に行き、その後行方知れずになりました。そういうことも当時の社会風潮でした。

このあとは、芥川、太宰、三島、坂口、漱石、鴎外、藤村、北杜夫などなど純文学と呼ばれる作家、そして司馬遼太郎子母澤寛など歴史小説や歴史関連本にも興味が広がっていきます。さらにはサスペンス、ミステリーまで幅広い分野にわたることになりました。この間、三島由紀夫の自決事件という衝撃的な出来事もあり、知的欲求は高まっていきました(頭のレベルは置いといて)。

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高校時代の3年間だけでもこのように読書の範囲は多岐にわたりましたが、それでもやはり読書のきっかけは未知の世界へと導いてくれたカミュカフカだったのは確かでした。

大学生になると様々な出会いから、いろいろな人の影響を受けるようになります。そのころ学生の間で人気のあった大江健三郎吉本隆明高橋和巳安部公房なども読むようになりましたが、これは少し先の話になります。

これらの本は多分に私の映画や音楽の好みに影響を与えていたと思います。こうして私の思春期から青年期にかけての人格みたいなものが形成されていったのかもしれません。人間の運命とは面白いものです。人との出会いで大半が決するのではないでしょうか。

今日はこの辺で、またの機会にそれからの読書生活について書いてみたいと思います。

余談ですが、昔の本の活字の小ささといった驚きです。こんな細かい字を読んでいたのかと思うと、今の本の字は本当に大きいです。昔の老人は偉かった。

閑話休題 桜のあと②

藤のあと、つつじを探しに。しかし残念ながら既に終わりかけでした。

ピンクの季節は終わり、あたりは緑一面に。そしてやがて黄赤、そして白へと。

季節はめぐります。

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『去年マリエンバートで』回想

今日は映画漬けの大学生生活の中から、今から約40数年前に観た、当時得意になって観ていた難解映画の極致とも思える作品の一つ、『去年マリエンバートで』について書いてみたいと思います。なぜかふと思い出しましたので。

監督:アラン・レネ

脚本:アラン・ロブ=グリエ

アラン・レネはフランスの映画監督で、『ゲルニカ』やアウシュヴィッツを描いた『夜と霧』といった短編のドキュメンタリー作品が多く、最初の長編映画が広島原爆を扱った『二十四時間の情事』で第2作目がこの『去年マリエンバートで』でした。

 

日本公開は1964年ということで当然私はその当時に観ることはできませんでしたし、映画に興味をもって盛んに洋画を観るようになってからも、この監督と映画の存在は知っていましたが、残念ながら観る機会はありませんでした。東京へ出てからも、当時どこの名画座でも上映していませんでした。東京へ出て1年程経ったある時、ある会館の特別上映会(昔はよく特別上映会というのを映画館以外で上映していました)で初めて観ることが出来ました。その時は内容などさっぱり理解できませんでしたが、待望の観られたということだけで充分満足でした。

内容はアラン・ロブ=グリエ芥川龍之介の「藪の中」にヒントを得たと言っています。「藪の中」と言えば、黒澤明の『羅生門』も同じ小説を題材にしています。

舞台はあるおおきな宮殿のようなホテルとその庭園です。

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ある男がある女に「私は去年あなたに合った」と言うが女は「知らない」という。この類の会話が延々と続き、時間は止まったり流れたり、画面も止まったりまた動き出したりと、そして同じナレーション(男の)が繰り返され、こちらの頭も混乱してきます。どうやら男の記憶では去年その女と恋仲になるが、女には夫がおり、その夫から一緒に逃げようということになったらしいが、女はそんなことは知らないという。しかしやがて女もその記憶の中に入り込み、夫も妻が男と付き合っている事実を知っているという。そして女は夫を捨て男とホテルから逃げ出すというような話です。

このように書いている自分もこんなストーリーが正しいのか間違っているのかはっきりわかりません。なにしろ40年以上前のことですから定かではありません、悪しからず。ただ記憶と現実、過去と現在、主観と客観、を時間という軸から場面場面を切り取ってつなぎ合わせていくというようなイメージを受けた記憶があります。これも記憶ですからすでに確かなものではないと思いますが。記憶とは何なのでしょうか、とふと考えてしまいます。当時の映画にはこのように現実と虚構、主観と客観など哲学的なテーマを取り扱ったものがおおかったような気がします。果たして自分の解釈が的を射たものなのかどうかは未だにわかりませんし、これからもわからないでしょう。また、正解などあるのかどうかもわかりません。文学でも映画でもその解釈は10人いたら10通りあると今では思えます。ただ当時はなんとしても正解にたどり着きたいという思いが強く、自分の理解力の低さを嘆くばかりでした。作者の意図したものは確かにあるはずなのですから、それを理解出来ないのは観る側の能力が低いのだと思い込んでいたのです。それでも難解な映画を観る醍醐味はやっぱりその映画を観て考え抜くということの楽しさだったのでしょう。歳を重ねるごとに、映画や小説などというものは自分なりに理解し、楽しめばいいのだという境地に至りました。これを成長というのか諦めというのかはわかりませんが、それでいいのだと今は納得しています。

この映画はまた白黒映画ですが映像の美しさと、構図の見事さに圧倒されます。上の写真の庭園も凄いですが、ホテル(宮殿)のなかの壁や天井の装飾、階段や廊下などシンメトリーの美しさというか幾何学的な美しさというか、圧倒的な迫力を感じた記憶があります(これも記憶ですが)。

ちなみにこの庭園はミュンヘンにあるニンフェンベルク城の裏庭で宮殿はアマーリエンブルク城ということらしいです。

そういえば『二十四時間の情事』の冒頭部分で日本人の男が外人の女に対し「君はヒロシマを見ていない」といい女は「私はヒロシマを見た」という会話が繰り広げられます。客観と主観の問題はこの映画にも取り上げられていました。

アラン・レネはこの後も『ミュリエル』『戦争は終わった』などの作品を発表していき、多くの映画賞を獲得します。

 

 

それと余談ですが映画の中でマッチ棒でゲームをする場面があるのですが、実際にそのゲームで友人たちと随分遊んだことがありました。これが実に面白いゲームなのです。

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マッチ棒を上の写真のように並べ、交互にマッチ棒を取っていき、最後の1本を取ったほうが負けです(逆に言えば最後に1本を残したほうが勝ち)。ルールは一度に何本のマッチ棒を取ってもいいのですが、列をまたがって取ってはいけません。これには必勝法が存在するそうです。映画の中で、女の夫はこのゲームで絶対に負けませんでした。

 たいして中身のない記事になってしまいましたが、書いている間、当時の風景がよみがえって来るようで楽しめました。

薄れていく記憶の中で、また何か思い出したら当時の映画の話を書こうかと思います。