Flying Skynyrdのブログ

映画や音楽、本についての雑文

グリーングラス、最後まで頑張った!

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またまた競馬のお話です。

 

1976年のT.T(トウショウボーイテンポイント)対決に沸く京都競馬場菊花賞で、大番狂わせを演じ、T.T.Gと呼ばせるまでになったグリーングラス。しかしそれまでの道のりは長かったのです。

デビューは遅く、明け4歳(今の3歳)になってからで、1月の新馬戦でした。2番人気に押されましたが、1番人気は何とあのトウショウボーイでした。結果はトウショウボーイに1.6秒もの差をつけられての2着でした。その後も新馬戦は勝てず、3戦目の未出走戦で初勝利。この時点で皐月賞の出走はかないません。続く最下級条件戦でも4着に敗れ、ダービーへの出走はトライアルのNHK杯で5着以内に入るしかありません。しかしそのNHK杯も結局12着の大惨敗。グリーングラスの春は終わりました。

ダービー後の6月の条件戦でようやく2勝目をあげ、秋を目指しますが3勝目をあげたのが菊花賞前の鹿島灘特別です。獲得賞金的にはギリギリで出走回避馬が出ない限り出走できません。運よく出走回避馬が出て滑り込みで出走が可能になりました。

それでも人気の方は、トウショウボーイが1番人気、ダービー馬のクライムカイザーが2番人気、テンポイントが3番人気。グリーングラスは12番人気でした。

レースはバンブーホマレの逃げで始まります。トウショウボーイテンポイントはお互いにマークし合うように先頭集団を形成します。グリーングラスは内をついて前へと進みます。直線に向いてトウショウボーイが先頭に立ちます。すかさずテンポイントが並びかけ交わします。テンポイント先頭で直線半ば。テンポイントファンの実況アナの杉本清が「テンポイントだ、テンポイントだ、もうムチなどいらん、それいけテンポイント」と絶叫しながらも「あっ、内からグリーングラス」というなんとも複雑な心境が表れた実況を今でも思い出します。

結果はグリーングラスの優勝。テンポイントが2着。トウショウボーイ3着。クライムカイザーは6着に敗れました。この結果T.T.Gの3強時代がやってきました。

この年の有馬記念にはグリーングラスは出走せず、T.Tの一騎打ちとなり、トウショウボーイが制しました。

グリーングラスは明けて5歳になりAJCC杯を勝ち、目黒記念カシュウチカラの2着となり春の天皇賞に進みます。これには宿敵テンポイントが出走してきました。グリーングラスは2番人気に押されましたが、結果は1番人気のテンポイントの4着と菊花賞の雪辱を果たされました。

次走は宝塚記念を選び出走。このレースにはテンポイントトウショウボーイが顔を揃え2度目のT.T.G対決となりました。結果はトウショウボーイ1着、2着にテンポイントグリーングラスは3着でした。まさに3強の争いでした。

この後、7月の日本経済賞を勝って夏場休養。ぶっつけで秋の天皇賞を目指します。このレースにはトウショウボーイが出走してきました。トウショウボーイが1番人気、グリーングラスが2番人気でした。しかし勝ったのは5番人気のホクトボーイ、2着に春の天皇賞テンポイントの2着に来たクラウンピラードトウショウボーイは7着に敗れ、グリーングラスンは5着に敗退しました。トウショウボーイは距離の壁に泣きましたが、グリーングラス脚部不安によるローテーションのまずさが表れました。

続いて暮れの有馬記念に出走。3度目のT.T.G決戦となりました。グリーングラスは2頭に食い下がりますが3着に終わります。

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明けて6歳になり、1月のAJCC杯を2着、中山のオープン戦を3着して春の天皇賞へと向かいます。グリーングラスは1番人気に押されます。2番人気は前年の菊花賞プレストウコウです。レースはプレストウコウ郷原洋行がレース中珍しい鞍ずれをおこし競争中止グリーングラスがトウフクセダン、カシュウチカラを押さえ優勝。二つ目の八大レース制覇を果たしました。その後、宝塚記念に1番人気で出走しましたがエリモジョージの逃げに屈して2着。暮れの有馬記念に直行しますが、カネミノブの3着に終わり6歳が終了します。

明けて7歳、1月のAJCC杯に出走してサクラショウリの2着。その後脚部不安で、休養の後ぶっつけで宝塚記念に出走。7番人気と人気を落としますが、向正面で先頭に立つという積極的なレース運びで直線半ばまで頑張りますが、サクラショウリバンブトンコートに交わされ3着でした。しかしこの時鞍上の岡部幸雄は暮れの有馬記念は走ると確信したそうです。

次走を東京のオープン戦で2着し、有馬記念へと向かいます。1番人気はサクラショウリグリーングラスは引退レースということもあってか2番人気に押されました。鞍上は岡部幸雄ハツシバオーに騎乗するため大崎昭一に乗り替わりました。レースは3コーナー過ぎで早くも先頭に立ったグリーングラスがそのまま猛追するメジロファントムを押さえ切り優勝しました。

 

グリーングラスはこの後引退します。有馬記念での有終の美を飾りました。トウショウボーイテンポイントと並ぶように年度代表馬も獲得しました。

インターメゾ産駒の典型的な長距離血統で、3歳、4歳の前半までは長距離レースは組まれていない当時の日本のレース体系からして、当然遅咲きになる宿命でした。

それでも7歳での有馬記念制覇は立派としか言いようがありません。最強世代の1角を形成したグリーングラス、思い出に残る名馬でした。

種牡馬成績はGⅠ馬を1頭出したぐらいで目立った産駒はいませんでした。

競争成績は26戦8勝、2着7回、3着4回 菊花賞天皇賞(春)有馬記念

 


1976 菊花賞 グリーングラス


第24回 有馬記念 【グリーングラス】3角先頭

 

 それでは今日はこの辺で。

まぼろしの1枚 『ヘヴィーステレオ (Heavy Stereo)』

今日は、たった1枚のアルバムを出しただけで解散した幻のバンド、『ヘヴィステレオ』について書いてみたいと思います。以前の記事でちょっとだけ触れていますので参考までにその記事を載せておきます。

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『ヘヴィステレオ』はイギリスのバンドです。

メンバーは

ゲム・アーチャー(Gem Archer,vo,g,p)

ネズ(Nez,b)

ピート・ダウニング(Pete Downing,g)

ニック・ジョーンズ(Nick Jones,ds)

の4人組です。彼らは1995年にクリエイション・レコードの社長に見いだされ、1996年にデビューアルバム『Deja Voodoo』を発表します。

このアルバムは、グラム・ロックの再来などと言われ、一時期騒がれました。確かに70年代のグラム・ロックの雰囲気は多分に漂っています。が、それ以上にこの時代としてはブリティッシュ・ロックぽさが出ていてかなりいい出来になっています。

楽曲は全曲ゲムの作品です。6曲目の「Mouse In A Hole」はドラマティックな名曲です。1曲目はロックンロール、2、3曲目はポップなメロディ、5曲目はアコースティックナンバーと、さらにビートルズを思わせる曲などもあったりしてバラエティに富んでいて飽きません。ゲムの声や歌い方が、デヴィッド・ボウイマーク・ボランに少し似ているところがあって、グラムロックの再来などと呼ばれたのかもしれません。

しかしその後、ベンドはクリエイション・レコードから一方的に契約を打ち切られてしまいます。

フロントマンのゲムは同じくクリエーション・レコードに在籍する『オアシス』に加入することになります。2001年の『オアシス』の5枚目のアルバムから参加し、『オアシス』の解散まで在籍します。

    

 

2002年と2008年にはポール・ウェーラーのアルバムに、2004年にはなんとあのスティーヴ・マリオットのメモリアルコンサートに参加しています。

     

 

2009年に『オアシス』のリーダーノエル・ギャラガーがグループ脱退を宣言、弟のリアム・ギャラガーは止む無くグループの解散を宣言します。ゲムはリアム・ギャラガーが結成する『ビーディーアイ』に同じく『オアシス』のメンバーのアンディ・ベルと共に合流します。そして2011年と2013年に2枚のアルバムを発表します。

   

このバンドはイギリスでも日本でもよく売れました。しかしながら、2014年に解散を宣言します。

その後、ゲムは2017年にノエル・ ギャラガー率いる『ハイフライング・バード』に加入した模様です。

たった1枚とは、もったいないバンドでした。一方的な解約解除とは何があったのでしょうか。


03 - Deja Voodoo - Heavy Stereo

 

それでは今日はこの辺で。

『アルカトラス(Alcatrazz)』と『グラハム・ボネット(Graham Bonnet)』

今日はだいぶ懐かしいところで、『アルカトラス』について書いてみたいと思います。

『アルカトラス』は1983年にグラハム・ボネットによって結成されます。

設立メンバーは

グラハム・ボネット(Graham Bonnet,vo)

イングヴェイ・マルムスティーン(Yngwie Malmsteen,g)

ゲイリー・シェア(Gary Shea,b)

ヤン・ウヴェナ(Jan Uveno,ds)

ジミー・ウォルド―(Jimmy Waldo,key)

でした。

 

グラハム・ボネットはご存じのとおり、元レインボーのヴォーカリストですが、レインボーを脱退後は、3枚目のソロアルバム『Line Up』を発表します。1981年です。

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このアルバムからシングルカットされた「Night Games」がヒットします。またキンクスの「Set Me Free」をドラマティックにアレンジしてカヴァーしています。結構気に入っています。

翌年、マイケル・シェンカーに誘われて、マイケル・シェンカー・グループの3枚目のアルバム『Assault Attack』に参加しますが、すぐに解雇されます。アルコールが原因とされています。

 

そして1983年に上記のメンバーで『アルカトラス』を結成します。結成に至るまでメンバーの決定に時間がかかりました。まずドラムが紆余曲折し、結局アリス・クーパーにいたヤン・ウヴェナに決定し、ギターに『スティーラー』イングヴェイ・マルムスティーンに決めました。イングヴェイは今でこそ知らないものはいないというほどになっていますが、当時はまだまだ無名と言ってもいいほどでした。ただ『スティーラー』での演奏にグラハムが目を付けたのです。スティーラーはキールのロン・キールが率いるバンドでした。

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そして1983年にデビューアルバム『No Parole from Rock 'n' Rollをリリースします。

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伊藤政則のライナーの見出し、帯にも書いてありますが「泣くがいい。声をあげて泣くがいい。」には笑っちゃいますが、楽曲はマイナー系の曲が揃い、素晴らしい出来に仕上がっています1曲目の「アイランド・イン・ザ・サン」4曲目の「ヒロシマ・モナムール」、レコードではB面の2曲目「トゥ・ヤング・トゥ・ダイ、トゥ・ドランク・トゥ・リヴ」など名曲ぞろいです。インギーの超早弾きギターには当時驚かされました。

 

翌年には日本公演でのライブ『Live Sentence』がリリースされます。

このライヴはファーストアルバムからと、グラハムのソロ、レインボー時代の曲などからなっています。

 

しかしインギーはさっさと退団してしまします。替わりに呼ばれたのが、フランク・ザッパのバンドにいたスティーヴ・ヴァイ(Steve Vai)です。

 

そして1895年に発表されたのが『Disturbing the Peaceです。

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 ギタリストが変わるとこんなに変わるのかという、典型的な例じゃないでしょうか。グラハムのヴォーカルは相変わらずですが、楽曲全体が明るくなって、アメリカンハードロックに近寄ったという感じです。スティーヴ・ヴァイはザッパのところにいたぐらいですから前衛的なギタリストで、当然この位置で満足できるわけもなく、すぐに退団してしまいます。せっかく新境地を探し当てたというのにまた一からです。

 

そして代わりのギタリストがダニー・ジョンソンです。1986年に4枚目として『Dangerous Gamesがリリースされます。

たいした評価も得られないまま、翌年あっさりと解散します。

スーパーギタリストをバンドに引き留めておくことが非常に難しいことだということを証明してくれたようなバンドでした。

それでもファーストアルバムの影響力はその後のメタル界をみると相当なものだったのではないかと勝手に思っています。

 


Alcatrazz - Jet to Jet

 


Alcatrazz - Hiroshima Mon Amour [HD]

 

それでは今日はこの辺で。

トウショウボーイとテンポイント

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いつも音楽や映画の記事ばかり書いていますので、たまには趣向を変えて、音楽や映画にも引けを取らないぐらい長い付き合いの競馬についてちょっと書いてみたいと思います。ちょうど秋の競馬シーズンを迎えるところで挑戦したいと思います。

今年も凱旋門賞には日本馬が挑戦しましたが残念な結果に終わりました。

私が競馬を観るようになったのは、ハイセイコーによって競馬ブームが起きた頃だったと思いますが、その頃は未成年なので当然馬券は買えません。それでも重賞、今でいうグレードレース(GⅠ、GⅡ、GⅢ)などはテレビ観戦していました。

当時で思い出深いのはやはりトウショウボーイテンポイントでしょう。

1976年、昭和51年、トウショウボーイ皐月賞こそ獲ったものの、ダービーはクライムカイザーの2着に、菊花賞グリーングラスに阻まれ、3着に敗れました。

テンポイントは4歳時(今でいう3歳)の3冠レースは無冠に終わりました。皐月賞2着、ダービーは7着と惨敗、菊花賞は2着でした。

そして迎えた暮れの有馬記念。両馬のの一騎打ちはトウショウボーイに軍配が上がりました。テンポイントは八大競争は無冠に終わりました。

明けて5歳、テンポイント春の天皇賞を制し絶好調のまま春のグランプリ、宝塚記念へと駒を進めます。対してトウショウボーイは休養明け、ぶっつけで宝塚記念へと、再び両馬の一騎打ちムードです。当然テンポイントが1番人気、トウショウボーイはぶっつけが嫌われ2番人気でした。しかし結果はトウショウボーイの勝利に終わりました。この時の旗手は武邦彦武豊の父)です。一方テンポイント鹿戸明でした。騎手の差だなんて叩かれもしました。

その後、テンポイントは秋の京都大賞典を制し、有馬記念へ。トウショウボーイ高松宮杯を制し秋の天皇賞へ。しかし距離の壁に阻まれ(当時の秋の天皇賞は3200メートル)7着と惨敗し、有馬記念へと向かいます。またしても両馬の一騎討ちムードです。

スタートしてトウショウボーイが先頭、テンポイントはマークするようにがっちりと2番手。両馬のデッドヒートはスタートから直線に入っても続きます。4コーナーで並びかけたテンポイントトウショウボーイを交わし直線へ。そのままテンポイントが直線の叩き合いを制しました。テンポイントトウショウボーイに勝った瞬間でした。3着に同期で菊花賞を制したグリーングラス、4着にその年菊花賞を制したプレストウコウが入りました。

この後、トウショウボーイは引退し種牡馬生活に。戦績は15戦10勝、2着3回、3着1回と申し分ない成績でした。

一方、テンポイントは翌年海外遠征に向け、足慣らしに正月のハンデ戦日経新春杯に出走。66.5キロという過酷な重量を背負わされ出走。3~4コーナーの中間で骨折、そのまま競争中止。テレビ中継は杉本清アナウンサーの「テンポイント、おかしいぞ」との絶叫とともにテレビカメラはテンポイントを追い続け、ゴールシーンもあったかなかったか記憶にないくらいです。私はちょうど雀荘でこのレースを観ていましたが、ショックなどというものではありませんでした。

普通ならこのまま安楽死となるところですが、ファンからの殺すな、との声が殺到し、獣医師が総がかりで治療に専念しましたが、結局約2か月後死亡しました。安楽死ではなく自然死でした。戦績は18戦11勝、2着4回、3着1回とこれまた申し分のない成績でした。死後、寺山修司テンポイントに詩を捧げました。

トウショウボーイテンポイント、両馬は両極端な一生でした。トウショウボーイ種牡馬としてもミスターシービーなど多くの名馬を送り出しました。テンポイントはそのあまりにも非劇的な生涯に、競馬ファンの脳裏に永遠に残ることになりました。

この頃は私はまだ馬券は買っていませんでしたが、競馬という競技は単なるギャンブルではなくスポーツとしてのドラマ、馬の人生ドラマがあるのだということを、まざまざと見せつけられた気がします。これによりすっかり競馬の虜になってしまいました。

これ以降、しばらくしてから馬券を購入することになっていきますが、しばらくの間、スポーツとしての競馬、また好きな馬の追っかけを楽しむ期間が続きます。

そしてその後、ギャンブルとしての競馬にのめり込む時期が訪れます。

そのあたりのことはまたいずれ機会を見つけて書くことにしましょう。また思い出のレースなど思い出しながら書いてみたいと思います。

この後登場してきそうな馬。グリーングラスプレストウコウサクラショウリバンブトンコートビンゴガルーカツラノハイセイコモンテプリンスホウヨウボーイミスターシービーシンボリルドルフオグリキャップトウカイテイオーナリタブライアンテイエムオペラオーディープインパクト、等々きりが無いのでやめます。

といっても、最近はめっきり馬券も買わなくなりましたし、競馬場へも足を運ばなくなりました。いいことなのか悪いことなのかわかりませんが、大きな理由は集中力と記憶力の衰えです。集中力と記憶力が衰えると競馬は勝てません。ギャンブルに共通していますが。

ということで今は楽しむ程度になっています。


1977 有馬記念 テンポイントVSトウショウボーイ

 

なお、当時の八大競争とは皐月賞東京優駿(日本ダービー)、菊花賞桜花賞優駿牝馬(オークス)、天皇賞(春・秋)、有馬記念でした。

天皇賞は春・秋ともに3200メートルの距離で争われました(1984年から秋は2000メートル)。春は京都、秋は東京です。当時は天皇賞を一度制すると2度と出走できない決まりでした。ですから天皇賞を制した馬は国内で出走するとなると相当な重量を課せられるので自ずと出走するレースが限られて、海外へと向かう馬が出てきたのです。テンポイントもその例でした。

グレード制が導入されてこれらのレースはGⅠに格付けされました。

 

それでは今日はこの辺で。

続々・癒し系ロック 『スターセイラー(Starsailor)』

今日は癒されるロックの第3弾、『スターセイラー』について書いてみたいと思います。

以前の記事を参考までにどうぞ。少しだけですが触れています。

lynyrdburitto.hatenablog.com

結成は2000年、メンバーは

ジェームス・ウォルシュ(James Walsy,vo,g)

ジェームス・ステイフォックス(Jmames stelfox,b)

ベン・バーン(Ben Byrne,ds)

バリー・ウェストヘッド(Barry Westhead,key)

の4人です。イングランド出身です。バンド名はティム・バックリィのアルバム名から取ったようです。

2001年にデビューアルバム『Love Is Here』をリリースします。

このアルバム発表前に、ロンドンでの初ライブが大評判になり、レコード会社間の争奪戦になり、結局EMIと契約を結び、このアルバムにも入っている、「Fever」と「GoodSouls」の2枚のシングルを発表し、ブレイクしました。そしてアルバムの発表へとなりました。このアルバムは間違いなく傑作です。ヴォーカルのジェイムス・ウォルシュはバンド名にもなったティム・バックリィの息子でジェフ・バックリィの歌い方に影響されたといっていますが、その美しい声とはかなげな歌い方が、アコースティカルなサウンドとピッタリ合って、聴き惚れてしまいます。メロディーはマイナーで美しく悲しげです。全く捨て曲なしです。彼の一番好きなアーティストは意外にもアメリカのオルタナカントリー・ロック系の歌手で「ウィスキータウン」のリーダだったライアン・アダムスで、彼の『ハートブレーカー』というアルバムが一番気に入っているそうです。イギリスのギター・ポップには興味ないとのことです。ライアン・アダムスは確かに面白いです。機会があったら書いてみたいと思っています。

 

2004年にセカンドアルバム『Silence Is Easy』をリリースします。

驚くべきは、アムバムの中の「Silence Is Easy」と「White Dove」の2曲をあのフィル・スペクターがプロデュースしていることです。このアルバムは1曲目からアップテンポの明るい曲調で始まりますので、一瞬、路線変更かと思いましたが、2曲目からは美メロ復活で安心しました。しかし、フィルのプロでデュース曲も含め全体的にアメリカ的になっています。レコーディングもアメリカのスタジオです。売り上げ的には低迷しました。蛇足ですが、このアルバムは日本盤で買ったのですが、コピーコントロールでした。不満です。

 

続く2006年には『On The Outside』をリリースします。

このアルバムも前作同様、サウンド的にはロック色が強まっていますが、曲調はファーストに近いです。ヴォーカルにはますます磨きがかかってきています。売り上げ的にはいまひとつでした。決して悪いアルバムではありません。ちなみにこのアルバムも日本盤はコピーコントロールでした。よく見たらイギリス盤もそうでした。

 

 3年の空白の後に4枚目のアルバム『All The Plans』をリリースします。

アコースティック・サウンドが戻ってきました。2,3枚目のロック色の強いサウンドからファーストに近いサウンドになりました。といってもリズム隊はしっかりしていて、軽さはありません。このアルバムにはストーンズロン・ウッドが参加しているとのことですが、クレジットでは見つけられませんでした。もっともスターセイラーはローリング・ストーンズのヨーロッパツアーのオープニングアクトを 務めていたことから、ロン・ウッドの参加も不思議ではありませんが。

 

この後、バンドは活動休止状態に入ります。そして2014年にはワイト島のフェスティバルに参加して、活動を再開したようです。

そして今年9月、8年ぶりに新作を発表する予定です。タイトルは『All This Life』です。

 どんな作品を提供してくれるのか楽しみです。


Starsailor - Poor Misguided Fool


Starsailor- Give Up The Ghost

スターセイラーは癒されます。

 

それでは今日はこの辺で。

トム・ペティ(Tom Petty) 逝く!

またまたロック界を代表する大物の訃報が入りました。

トム・ペティ&ザ・ハートブレイカーズでおなじみのトム・ペティが10月1日、心臓発作のため66歳の若さで亡くなりました。

1976年のデビュー以来現在まで、アメリカンロックをリードしてきたトム・ペティ、数多くのアルバムを残しますが、特に初期の4枚のアルバムは傑作でした。

  

ちょっとしゃがれた声で、メッセージ性を含んだ歌詞歌い、1980年代にはボブ・ディランとも行動を共にしました。音楽性とメッセージ性が合っていたのでしょう。

トム・ペティは自身が言っているように、ローリング・ストーンズザ・バーズを併せたようなバンドにしたいとの言葉通り、ザ・バーズのポップさとストーンズの粗っぽさを兼ね備えたバンドとなりました。

トム・ペティ&ザ・ハートブレイカーズは1976年にデビューしたもののアメリカでは売れず、イギリスでファーストアルバムが24位に入るなど人気を博し、その後セカンドアルバムがアメリカでも23位に入り、ファーストアルバムも55位に入ってきました。イギリスからの逆輸入のような形になりました。そしてサードアルバムの『Damn The Torpedoes(破壊)』は全米で第2位を記録する大ヒットとなりました。

イギリスで人気が出たのは、やはりストーンズやフーなどに共通する音を持っていたからでしょう。

 

1988年には『Traveling Wilburys』の名前でボブ・ディランジョージ・ハリソン、ジェフ・リン(E.L.O)、ロイ・オービソンと共に名前を隠した覆面バンドでアルバムを発表して評判になりました。

 

 トム・ペティは日本ではそこまでの人気は得られませんでした。この訃報も新聞(朝日)には載りませんでした。

 

突然の訃報に驚くばかりです。まだ66歳です。もう少し頑張ってほしかったですが、こればかりは致し方ありません。

まだまとまりませんが、その内機会を見つけて特集するかもしれません。

心よりご冥福をお祈りします。合掌。

レコード・CD漁り、再開!

退院して10日が過ぎました。なるべく家の近所などを歩くようにしていましたが、電車に乗っての外出はまだしていませんでした。

少しづつ体を慣らしていかねばと、今日は電車に乗っての外出に挑戦しました。目指すはやはり、レコード屋ですね。

とりあえず「disk union」と「Book Off」です。入院前は立ってレコード・CDを探すのも腰・尻・足が痛くてたまりませんでした。なのでしばらくレコード漁りからは遠ざかっていましたが、今日めでたく再開できました。特に痛みも痺れもなく、若干の違和感のみで何とかレコード・CD探しをすることが出来ました。

収穫は写真の通り少なかったです。たった2枚です。

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1枚は『ローラ・フィジー』、ジャズ・ヴォーカルです。彼女のアルバムは何枚か持っているのですが、これはたまたま持っていなかったのでゲット。ミシェル・ルグランとの共演盤以来気に入っています。彼女のデビューアルバムで、スタンダードナンバーを集めたアルバムです。108円です。儲けものです。

2枚目は『リアン・ライムス』、カントリー系の女性ヴォーカルです。彼女についても何枚か持っているのですが、これは持っていなかったのでゲット。収録曲にベッド・ミドラーサイモン&ガーファンクル、フランキー・レインの曲などが入っているので楽しみ。これも108円。変形ジャケットが面白い。ちょっと聴いてみましたがよさそうです。

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その他にも何枚かあったのですが、収納を考えるとどうしても消極的になり(もはや狭い家には収納場所がない)、結局やめてしまいました。昔はこんなことはなかったのですが、年のせいでしょうか。合計2時間ほどの滞在でしたが、身体のほうはなんとかもちました。

結局4時間弱の外出でしたが、さすがに疲れました。この程度で疲れるなんてショックですが、まあ病み上がりなので致し方ないとあきらめ、徐々に体力をつけるように頑張るしかありません。

昨年の春ぐらいから、脊柱管狭窄症の影響なのか神経を痛めたせいで足の筋力が極端に落ち、長時間歩くと下半身がだるくなってきて、歩くのが辛かったのですが、これについてはまだ筋力が全然回復していないので、症状は変わりません。今日も帰りの歩行は辛かったです。それまでは10キロ以上歩いても全然平気だったのに、と思うと情けなくなります。

まあ、焦らず、気長にと自分に言い聞かせ、明日もどこか(雨でなければ)、ふらりと出かけましょう。

 闘病記事はこの後以下のブログに移動します。よろしくお願いします。

lynyrdburitto.hatenadiary.jp

それでは今日はこの辺で。