Flying Skynyrdのブログ

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2年連続3冠馬 シンボリルドルフとミスターシービーの対決

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1984年(昭和59年)、中央競馬会はこの年から重賞にグレード制を導入しました。八大競争をはじめ宝塚記念ジャパンカップエリザベス女王杯、それにマイル戦の安田記念、マイルチャンピョンシップ、それと3歳馬の朝日杯3歳ステークスと阪神3歳ステークス全15レースをGⅠとしました。その下にGⅡ、GⅢと重賞を3つのクラスに分けました。

その前年の新潟でデビューした1頭の馬が初のGⅠウィナーになることになります。

その馬の名はシンボリルドルフです。パーソロンとスイートルナの子で野平祐二厩舎、主戦騎手は岡部幸雄でした。

続く2戦目も勝って、3戦目のオープンも勝ち3歳(今でいう2歳)を終えました。

明けて4歳になり、弥生賞(GⅢ)に出走します。このレースではそれまで重賞勝ちを含む4連勝中で岡部が乗っていたビゼンニシキに1番人気を譲ったもののレースは圧勝し、皐月賞に向かいます。

皐月賞ビゼンニシキとの一騎打ちの格好になりましたが、難なくかわし優勝。まずは1冠目。2頭とも単枠指定となっていました。

続くダービーも人気の上ではビゼンニシキとの一騎打ちでしたが、数字の上では単勝1.3倍の圧倒的1番人気でした。ここでも2頭が単枠指定されました。シンボリルドルフの強さに圧倒されて出走を断念する馬が続出し、ダービーとしては戦後最少頭数の21頭でした(この当時はフルゲート28頭)。レースはスズマッハが逃げ、直線でルドルフが前を行く馬たちを難なく交わし優勝、2着には20番人気のスズマッハが入りました。シンボリルドルフのレースは前年のミスターシービーのように追い込み一手ではなく、常に先頭集団にいて抜け出すという横綱相撲で見ていて安心できるレース運びです。言ってみれば優等生で、難なく勝っているというイメージです。

海外遠征の計画もありましたが、脚部に不安が出て断念し、夏場を休養し秋初戦にセンタライト記念(GⅢ)を選びレコードタイムで楽勝し、西下します。

菊花賞も当然1番人気です。当然単枠指定となりました。2番人気にニシノライデン、3番人気がフジノフウウンになりました。

レースは中団につけたシンボリルドルフが直線で先頭に立ちそのまま追い込んできたゴールドウェイを押さえて逃げ切りました。これで見事に史上初の無敗での3冠達成です。まさに強い馬です。

 

シンボリルドルフはこのあと中1週の強行軍でジャパンカップに出走します。前年の3冠馬ミスターシービーが出走してきます。シービーとルドルフの初対決です。

 

ミスターシービーは明け5歳になり春の天皇賞を目指しますが、蹄に不安が出て結局春は全休、秋を目指します。秋初戦の毎日王冠(GⅡ)を2着して天皇賞に進みます。この年から秋の天皇賞は2000メートルに変更になり、1度勝っても出走できるようになりました。圧倒的1番人気に押されたミスターシービーは例によって最後方から進み、徐々に進出し全馬をごぼう抜きしてのレコード勝ち。胸のすくような勝ち方でした。4冠目達成でした。

ここういうハラハラさせながらも、スカッとする様な勝ち方がこの馬の最大の魅力でした。シンボリルドルフとは対照的な競馬です。これは騎手の乗り方にもよるところが大きかったのではないかと思います。吉永正人は逃げるか、追い込むかと極端なレースが多かったのです。岡部は冷静に常に好位でレースを進める特徴がありました。

 

いよいよシービーとルドルフの対決です。ジャパンカップではシービーが1番人気、ルドルフは4歳馬ということもあり、ローテーションのきつさもあって4番人気でした。

2,3番人気は外国馬でした。レースは伏兵のカツラギエースが逃げそのまま逃げ切ってしまいました。カツラギエースは5歳でシービーと同期。それまで宝塚記念を含む重賞を5勝している馬で弱い馬ではありませんが、この強豪ぞろいでは伏兵の1頭にすぎませんでした。予想外の逃げにもノーマークでした。シンボリルドルフは3着、ミスターシービーはいいところなく10着に敗れました。

 

続く対決はその年の有馬記念です。1番人気はシンボリルドルフミスターシービーが2番人気、3番人気にジャパンカップを勝ったカツラギエースがなりました。3頭が史上初の3頭単枠指定になりました。

レースは前走のようにカツラギエースが逃げ、今度は逃がさないとばかりにシンボリルドルフがしっかりマークし、最後の直線で交わし優勝。ミスターシービーは追い込んできたものの前がふさがり、カツラギエースにも及ばずの3着に終わりました。シンボリルドルフも4冠目達成でした。

 

こうしてシービーとルドルフの闘いはルドルフの2勝でこの年を終えました。

翌年、ルドルフは日経賞(GⅡ)から始動し優勝。ミスターシービーはサンケイ大阪杯(GⅡ)から始動して2着。共に春の天皇賞に出走してきました。

シンボリルドルフが1番人気、ミスターシービーが2番人気。まさに一騎打ちムードでした。

レースはミスターシービーが後方から、3コーナーでまくり、菊花賞と同じように4コーナーで先頭に立ちますが、そこで力尽き直線であっさりとシンボリルドルフに抜かれ5着と沈みました。シンボリルドルフの5冠達成の瞬間です。

ミスターシービーはその後脚部不安で休養に入るも、骨膜炎を発症して復帰を断念、引退を決意しました。

 

一方、シンボリルドルフ天皇賞の後海外遠征の計画が持ち上がります。そして宝塚記念に出走を決めます。しかし、前日に脚部不安が出て、出走取消。海外遠征も断念します。

秋の天皇賞にぶっつけで臨みます。当然1番に押されレースもほぼ勝ったと思ったところに、ゴール寸前大外から伏兵のギャロップダイナに交わされ2着に敗れました。

 

その後、ルドルフはジャパンカップを1番人気で勝ち、続く有馬記念は2冠馬ミホシンザンに4馬身差の圧勝で連覇し史上初の7冠馬になりました。

 

6歳になって再び海外遠征の話が出て、実際にアメリカのサンタアニタ競馬場のGⅠレースに出走しましたが、故障を発症し6着に敗れ、帰国します。そして再び海外遠征の話がありましたが結局引退を決めました。

 

2頭の3冠馬の闘いはシンボリルドルフの完勝に終わりました。この2頭は野球でいうと、ちょうど「長嶋」と「王」のような関係で、「記憶に残る長嶋」と「記録に残る王」のようなイメージでした。ミスターシービーの破天荒でやんちゃ坊主のような競馬、シンボリルドルフ横綱相撲の優等生のような対称的な競馬。それぞれが特徴的で今でも鮮明に思い出します。

 

ミスターシービー15戦8勝、2着3回、3着1回 クラシック3冠、天皇賞(秋)

シンボリルドルフ 17戦13勝、2着1回、3着1回、取消1回、クラシック3冠

         天皇賞(春)ジャパンカップ有馬記念2回

 

ミスターシービー種牡馬として数頭の重賞ウィナー輩出。

シンボリルドルフ種牡馬としてトウカイテイオー(4冠馬)を出しています。

 

競馬はやっぱりドラマです。

 

それでは今日はこの辺で。

遂に出た!3冠馬 ミスターシービー

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1983年(昭和58年)はセントライトシンザンに次ぐ史上3頭目、戦後2頭目、19年ぶり、そして父内国産馬としては初めての3冠馬の誕生に沸きました。

ミスターシービーは前年1982年11月の東京でデビューしました。もちろん圧勝でした。ミスターシービートウショウボーイシービークインとの間の子で良血馬です。松山康久調教師のもと主戦騎手はシービークロスモンテプリンス吉永正人でした。

2戦目は中山の1600メートル。首差の辛勝でした。3戦目の800万特別戦は1番人気ながら2着と初黒星を喫しました。しかしこの時の追い込みがその後のミスターシービーの脚質を決めることになりました。

明けて4歳(今でいう3歳)になり初戦に東京の共同通信杯4歳ステークスを選びました。後方待機策から直線で追い上げ前走で敗れた相手に勝利し、重賞初制覇を飾りました。

続くレースは中山の弥生賞です。1番人気で快勝、重賞連覇します。そして1冠目の皐月賞へと向かいます。

皐月賞は当然1番人気です。単枠にも指定されました。2番人気はウズマサリュウ、3番人気がブルーダーバンでした。当日は雨の不良馬場になりました。追い込みのミスターシービーにとっては不利な馬場となりました。

レースはスタート後後方に位置し、向う正面から徐々に上がっていき、4コーナーで先頭に獲りつき、直線で先頭に立ちそのまま押し切りました。まずは1冠目制覇です。

 

そのままぶっつけでダービーへと向かいます。ダービでは当然ながら単勝1.9倍の圧倒的1番人気で単枠指定です。。2番人気には皐月賞で2着になったメジロモンスニー、3番人気は皐月賞で逃げ粘ったカツラギエースになりました。

レースは出遅れで最後方、場内騒然。徐々に進んで4コナーで先頭から6~7番手までとりつきます。直線は外に持ち出し追い込みにかかります。他馬と接触しながら、ものともせずに一気に抜け出してきます。その脚は他の馬が止まって見えるくらいです。追い込んできたメジロモンスニーを抑え込んでの優勝でした。3着にビンゴカンタが入りました。これで2冠達成です。

 

秋の3冠目に向けて夏場は休養に当てました。しかし、その間足を痛め、さらに風邪をひくなど体調が思わしくなく、予定していた秋初戦のセントライト記念は断念、西下して菊花賞トライアル京都新聞杯に出走することにしました。1番人気にはなるものの、見るからに元気がなく、体重も12キロ増と太目残りでした。ここも単枠に指定されました。レースはカツラギエースから1秒以上離されての4着。初めて連対を外しました。盛山アナウンサーの「ミスターシービー、ものすごい競馬をしました」が印象的でした。

菊花賞では1番人気には押されたものの、父のトウショウボーイも距離の壁に泣いた菊花賞の3000メートルには不安が残り、ましてや前走の敗北も気になるところでした。

レースはハイペースで進み、ミスターシービーは最後方に待機します。2集目の3コーナーの上りから追い上げ始め3~4コーナーの下り坂で一気に先頭に追い付き、直線に向かいます。場内は騒然、どよめきます。しかしミスターシービーはものともせず直線を逃切り優勝しました。関西テレビ杉本清アナウンサーは菊花賞の度に「3~4コーナーの坂はゆっくり下らなければいけません」といっていたのを見事に覆され「驚いた、ものすごい競馬をしました」と驚嘆していました。「見てくれこれが3冠の脚だ」と共に名セリフです。2着にビンゴカンタ、3着にシンブラウンが入りました。

 

こうしてミスターシービーは19年ぶりの3冠を達成し、ジャパンカップ有馬記念を回避して4歳を終えました。このローテーションには批判もありました。3冠馬ジャパンカップ、ましてや有馬記念に出ないというニュースには当時がっかりした記憶があります。

そしてミスターシービーシンザンが果たした5冠制覇を目指し5歳を迎えようとしています。5冠というのはクラシック3冠に天皇賞有馬記念制覇を加えたものです。

しかし、ミスターシービーの苦難はここから始まります。

それはこの翌年に再び現れる3冠馬についての記事で書こうと思います。

 


1983 日本ダービー ミスターシービー


1983 菊花賞 ミスターシービー

 

それでは今日はこの辺で。

 

『アンディ・デリス(Andi Deris)』と 『ピンク・クリーム69(Pink Cream 69)』

ジャーマンメタルの雄、ハロウィン(Helloween)の3代目のヴォーカリスト、アンディ・デリスがハロウィン加入前に結成したバンドがピンク・クリーム69(PC69,ピンキーズ)です。

結成メンバーは

アンディ・デリス(Andi Deris,vo)

ルフレッド・コフラー(Alfred Koffler,g)

デニス・ワード(Dennis Ward,b)

コスタ・ツァフィリオ(Kosta Zafiriou,ds)

 

アンディとアルフレッドがドイツ人で、デニスがアメリカ人、コスタがギリシャ人という珍しい組み合わせで、これがそれまでのジャーマンメタルとはちょっと違う、アメリカンロックの味付けが施されています。

 

1989年にファーストアルバム『Pink Cream 69』がリリースされます。

このアルバムは、発売当初日本では発売されませんでした。次のセカンドアルバムの評判がよく急遽発売となりました。ですから日本ではセカンドアルバムと言うことになります。

ジャーマンメタルの特徴である、メロディック・スピードメタルとは明らかに一線を画しており、ヨーロッパの哀愁を帯びたメロディーとアメリカンハードロックがうまい具合に組み合わさったアルバムになっています。4曲目の「One Step Into Paradise」、5曲目の「Close Your Eyes」などはいかにもヨーロッパの哀愁を感じさせます。このあたりはアメリカのバンドでは味わえません。10曲目の『 I Only Wanna Be For You』などは日本人受けするのは間違いありません。ラストはライブ音源でレゲエをやっています。

楽曲はほとんどがアンディ・デリスの手によるものです。

 

1991年にセカンドアルバム『One Size Fits All 』がリリースされます。

このアルバムによってPC69は確固たる地位を獲得します。それだけ価値のある名盤と言えるでしょう。特に、5曲目のバラード「Ballerina」は名曲です。パワーメタルの「Signs Of Danger」などファースト以上の出来栄えです。10曲目の静かなバラード「 Where The Eagle Learns To Fly」も聴かせます。このアルバムも共作もありますが全曲アンディ・デリスの手によるものです。こうしてみると、PC69はアンディの曲作りとヴォーカルに完全に依存しているように思われます。

 

1993年、サードアルバム『Games People Play』をリリースします。

この頃から時代はオルタナグランジがロック界を席巻し始めます。HM/HR界にとっては厳しい時代に入りました。それを意識したのか、サウンドはより暗く、ヘヴィになりました。楽曲もメンバー全員の手によるものになりました。ハードロック的色彩は薄れました。この頃から、アンディ・デリスとメンバー間に溝が出来てきたのでしょう。

このアルバムを最後にアンディ・デリスはグループを去り、マイケル・キスクの後釜としてハロウィンに加入します。

残ったメンバーはイギリス人のデヴィッド・リードマン(David Readman,vo)を加入させ、1995年に4枚目のアルバム『Change』を発表します。

もはやハードロックでもヘヴィメタルでもない、オルタナもどきアルバムです。アルバムタイトル通り、チェンジを狙ったのでしょうが、以前からのPC69ファンからも、ロック界からも全く無視されました。

 

しかし、1999年の6枚目のアルバムで見事に復活します。『Electrified』です。

ハードロックに戻ってきました。ファーストやセカンドのサウンドに近いものが有ります。ヴォーカルのデヴィッド・リードマンもアンディ・デリスほどの個性はありませんが、地味ながら確かな歌唱力を発揮しています。久々の会心作です。

 

一方、グループを去ったアンディ・デリスはハロウィンでその存在感をしまします。アンディのメロディアス志向はハロウィンに新しい風を吹き込みました。

      

 

アンディは同時にソロアルバムも何枚か発表しています。

これはなかなか聴きごたえがあるアルバムになっています。ハロウィンとPC69が同時に聴けるという感じです。

 

PC69は現在も活動中ですがアルバムの方は2009年を最後に出ていません。

 


PINK CREAM 69 - Ballerina

 


Andi Deris- Good Bye Jenny

 

それでは今日はこの辺で。

不思議な2冠馬 カツトップエースと悲運な名馬 サンエイソロン

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1981年の牡馬3冠レースは不思議な結果に終わりました。1冠目の皐月賞はトライアルのスプリングステークスを1番人気で勝ったサンエイソロンが有力視されていましたが、レース前日に繋靱帯炎を発症し出走取り消しになり、大混戦ムードになりました。

案の定、なんと16番人気のカツトップエースが優勝、2着にも11番人気のロングミラーが入り、単勝6920円、枠連6650円の大波乱になりました。

カツトップエースイエローゴッドの子で、短距離はいいがクラシックまではと、期待はされていませんでした。皐月賞大崎昭一に乗り替わり、陣営は密かに期待していたのかもしれません。

ダービートライアルのNHK杯皐月賞を取消したサンエイソロンが1番人気に応え優勝、2着に皐月賞馬ながら5番人気だったカツトップエースが入りました。

日本ダービーは当然サンエイソロンが1番人気、皐月賞2着のロングミラーが2番人気、カツトップエースは3番人気でした。

レースはカツトップエースが終始2番手につけて直線へ。直線で先頭に立つとそのまま逃げ込みを図ります。外からサンエイソロンが急襲して並びそのままゴールイン。写真判定の結果、ハナ差でカツトップエースが優勝しました。これで春の2冠馬に輝きました。大崎昭一はこの時点で史上初のダービー2勝騎手になりました。

カツトップエースはその後夏を休養して秋に備えました。しかし屈腱炎を発症し秋を断念、治療に専念するも回復せず引退となりました。何ともあっけない2冠馬の退場でした。

となると、秋の菊花賞は今度こそサンエイソロンと下馬評は高いものでした。秋初戦のセントライト記念メジロティターンの2着に負けましたがトライアルの京都新聞杯はレコード勝ち、堂々の1番人気で菊花賞に臨みました。

3000メートルの距離に若干の不安はありましたが、能力の高さでカバーしてくれるだろうとの見方から1番人気に押されました。

しかし、レースは伏兵のミナガワマンナに0.7秒差、4馬身をつけられての2着に終わりました。

明けて5歳になったサンエイソロンは初戦の中山記念こそ5着に敗れましたが、続くサンケイ大阪杯は優勝、今度こそ八大レース制覇をと春の天皇賞を目指しますが繋靱帯炎が再発、断念。それでも6月の高松宮杯を2着、秋の毎日王冠を2着して、秋の天皇賞を目指します。1番人気に押されましたが見せ場もなくメジロティターンの12着に大敗しました。足の状態からもはやこれまでと引退を決めました。

追い込み一手の脚質からあと一歩の取りこぼしが多く、悲運の名馬とあだ名されました。

強力な末脚は魅力的でしたが、最後まで脚部不安に悩まされました。ここでもカツトップエースサンエイソロン、両馬の運命の違いが浮き彫りにされました。

 

カツトップエース 戦歴 11戦4勝、2着2回、3着1回 皐月賞日本ダービー

サンエイソロン  戦歴 21戦6勝、2着8回、3着2回 取消1回

 

それでは今日はこの辺で。

 

映画『静かなる情熱 エミリ・ディキンスン』を観る

昨日のキネ旬シアターは『静かなる情熱 エミリ・ディキンスン』でした。

 

監督・脚本:テレンス・デイヴィス

主演:シンシア・ニクソンジェニファー・イーリーキース・キャラダイン 

 制作:イギリス 2017年日本公開

 

アメリカの詩人、エミリ・ディキンスンの半生を描いた映画です。詩の世界にはあまり詳しくないので恥ずかしながら名前を知っているくらいの知識でした。生前にはわずか10篇の詩しか発表されておらず、死後1800もの詩作が発表され、19世紀史上の天才詩人と言われたほどの人物です。

 

時は19世紀半ば、エミリの女学生時代から死までの人生を駆け足で綴る展開で進みます。福音主義の学校教育に我慢できないエミリは父親に呼び戻され自宅で過ごすようになります。エミリの実家はマサチューセッツ州の名家で、その父親は弁護士で政治家。寝て過ごすことが多い病弱の母親、兄で弁護士のオースティン、それに妹のヴィニーと暮らすようになります。

エミリはこの後、ほとんどの人生をこの実家で暮らすことになります。父親に詩作をする許しを得て、暇をみては詩を作るようになります。父親のコネで新聞社への投稿も許されます。

その他の登場人物は親友となるバッファム、兄と結婚する義姉のスーザン、エミリが密かに恋する牧師のワズワースとその妻、エミリの詩に心酔する青年、エミリの叔母くらいです。

 

エミリは完璧主義者で、人の過ちは許せない性分です。そんな自分にも腹立たしい思いを持っています。兄が不倫をした際には激しく罵り、壮絶な兄弟げんかを展開します。

ワズワース牧師の説教に感銘を受けたエミリは、牧師夫妻を家に招待します。妻を持った男に恋をすることは許されないと分かっていても、エミリの気性の激しさは、その妻の愚かさを罵倒したりするところにも現れます。都度、妹のヴィニーが彼女を諫めます。ヴィニーはエミリの一番の理解者なのです。

さらに結婚願望はあるのですが年を重ねるにしたがって容姿に対するコンプレックスが激しくなり、男性の前に顔を出すのを嫌がるようになります。そして自宅から出ることも嫌がるようになっていきます。

父親の死、親友の結婚、母親の死が続き、その喪失感は彼女を引きこもらせるようになっていきます。そしてますます詩作にのめり込むようになっていきます。

さらに、病が彼女を襲います。ブライト病と呼ばれる腎臓病の一種で彼女はのたうち回るような痙攣を起こすようになります。それでも必死に詩作に励みますが遂に55歳の若さでこの世を去ります。

福音主義への懐疑、父親の保守主義的教育への反発、社会の女性蔑視に対する批判、女性の自立の必要性などを訴えながらも、それでも家族が一番好きで大切、一方で彼女自身に対する自己嫌悪、反省に揺れ動く内面もよく描かれています。そしてそんな彼女を諫めながらも最後まで暖かく見守る最高の理解者である妹の存在が光っています。

 

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主役のシンシア・ニクソン (左)と本物のエミリ。似てますね。

 

死後、妹や姪が詩の編纂をして世に送り出しました。1800といいますから驚きです。

途中で詩の朗読が何篇かあったのですが、憶えられませんでした。今週観た「ネルーダ」もそうでした。記憶力も衰えてきます。残念。

 


映画『静かなる情熱 エミリ・ディキンスン』予告編

 

それでは今日はこの辺で。

この人の、この1枚 『この世で一番キレイなもの/早川義夫』

早川義夫は1960年代、ロックバンド「ジャックス」のリーダーとして関西フォークブームに乗って活躍しましたが、2枚のアルバム『ジャックスの世界』『ジャックスの奇蹟』を発表した後あっさりと解散しました。それまでに日本にはこんなバンドはいなかったのではないでしょうか。後に六文銭高石友也のナターシャセブンに加入するギタリストの木田高介も在籍していました。またセカンドからはつのだひろが加入しました。早川義夫の上手くはないですが強烈な絶叫型ヴォーカルでメッセージソングとラブソングを歌う姿は当時では珍しかったのです。パンクロックの原型かもしれません。

その後、URCのディレクターになり岡林信康加川良を担当します。岡林信康の『見るまえに跳べ』では5曲も早川義夫の曲が提供されました。「ラブ・ゼネレーション」「NHKに捧げる歌」「堕天使ロック」「ロールオーバー庫之助」「無用の介」です。全曲メッセージソングです。当時の岡林からすれば当然のことですが、オリジナルの「愛する人へ」は早川義夫の影響だと想像します。

lynyrdburitto.hatenablog.com

1969年にはディレクターを務める傍ら、ソロアルバム『かっこいいことはなんてかっこ悪いんだろう』を発表します。このアルバムからは「サルビアの花」が多くに人にカバーされヒットしました。が、オリジナルは決してきれいな歌ではなく、男のどろどろとした嫉妬のようなものを歌い上げています。

 

そして1972年に音楽界から引退し、書店を開業し23年間も沈黙を守ります。

1996年、突然音楽界に復帰し、アルバム『この世で一番キレイなもの』を発表します。

01.この世で一番キレイなもの

02.君のために

03.君に会いたい

04.お前はひな菊

05.H

06.サルビアの花

07.雪

08.桜

09.赤色のワンピース

10.いつか

 

ほぼ全曲ラブソングです。心の底から湧き出てくるような言葉の数々。中年男が、いや中年男だからこそ書けるのかもしれません。

「君のために」の梅津和時のサックスと渡辺勝のむせび泣くようなギター、早川義夫の上手くないが朴訥なヴォーカル、感激します。

「この世で一番キレイなもの」の一節、「キレイなものは どこかにあるのではなくてあなたの中に 眠っているものなんだ いい人はいいね 素直でいいね キレイと思う心がキレイなのさ」、じーんと来ます。

サルビアの花」はセルフカバーです。歌い方がちょっとおとなしくなったでしょうか。熟練したのかな。

「赤色のワンピース」は学生時代の恋人との思いで。鶴川から秋葉原まで電車で話したこと、お茶の水の画材屋・レモンに行ったこと、同棲したこと。情景が目に浮かぶようです。自分のことと重ね合わせ切なくなります。早川義夫のピアノ弾き語りです。

ラストの「いつか」は名曲です。詩を載せます。

 

誰もが 心の中で 歌を歌ってる

本当のものをつかむため

 

沈黙の中で 血が騒ぐ

空にいっぱい 夢を描き

僕はじいっと待っていた あふれてくるのを

まっすぐな声で 歌うことを

生きてゆく悲しみ 生きてゆく喜び

 

いつだってひとりなんだ 涙を落とせ

終わってはいないさ もっと叫べ もっと歌え

 

何も変わらない 時が流れて行く

弱さが 素晴らしいのさ

 

どんなに飾っても 隠しきれない

心の底が 見えてしまう

人は見えた通りの ものでしかない

弱い心が 痛みを感じて

やさしさはそこから 生まれてくるのだ

 

みにくさやいやらしさを 素直にあらわせ

やさしさを歌おう もっと見つめろ もっと歌え

 

心を立たせろ 虹を立たせろ

言葉を立たせろ 音を立たせろ

足りないのではなくて 何かが多いのだ

愛を歌え 願いを歌え

美しいものは 人を黙らせる

 

大空に映し出せ 鏡に向けて吠えろ

それが生きること もっと身を削れ もっと捨てて行け

もっと突き詰めろ もっと歌え

 


早川義夫 赤色のワンピース


早川義夫 いつか


早川義夫 ♪サルビアの花

「もとまろ 」バージョン


もとまろ サルビアの花

その後も、コンスタントのアルバムを出し続けます。どれをとっても素晴らしく、心打たれるアルバムたちです。

  

  

 

 最後の作品は2008年に発売された作品で、2007年に亡くなったヴァイオリニストHONZIとのライブ盤です。佐久間正英との3人。

 

なお、ジャックス時代と最初のソロもCDで出ています。

  

 

ジャックス時代の名作「ラヴ・ジェネレーション」です。岡林信康もアルバム『見るまえに跳べ』でカバーしています。歌詞の「信じたいために疑うのだ」は岡林の「自由への長い旅」へ受け継がれることになります。


Jacks - Love Generation

悩み多き40代、早川義夫の歌にずいぶん助けられました。

 

それでは今日はこの辺で。

無冠の帝王 モンテプリンス

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1980年、昭和55年の牡馬クラシック戦線は大混戦となりました。不良馬場の皐月賞は道悪巧者の増沢ハワイアンイメージが制しました。2着に3番人気だったオペックホースが入り、モンテプリンスは4着でした。

モンテプリンスは距離が延びればこの馬だと騒がれた馬でした。シーホーク産駒の長距離血統のため期待されました。勝ちみが遅く3戦目での初勝利後も400万特別を勝っただけでクラシック路線に臨みました。しかし道悪がからっぺたで、クラシック路線の弥生賞皐月賞トライアルのスプリングステークス皐月賞も道悪に泣きました。

しかし、良馬場で行われたダービートライアルのNHK杯は2着のレッドジャガーに7馬身の差をつける圧勝でした。日本ダービーは堂々の1番人気で臨みました。

レースは最後の直線で先頭に立ったモンテプリンスがそのままゴールするかと思われましたが、強襲したオペックホースに首差交わされ無念の2着に終わりました。

秋初戦はセントライト記念を選び、函館記念を勝ったサーペンプリンスに続いての2番人気で出走も見事に優勝。続く菊花賞トライアル、京都新聞杯はまたしても不良馬場に泣かされ5着でした。それでも本番の菊花賞は1番人気に押されました。2番人気はキタノカチドキの子供タカノカチドキでした。

レースは直線にで5番人気のノースガストの強襲に遭い、再び首差の2着でした。モンテプリンスの4歳(今の3歳)は無冠に終わりました。「無冠の帝王」の呼び名はこの頃から始まりました。

明けて5歳になり、4月のオープンを2着したものの血行障害が見つかり、秋まで休養することになりました。

秋初戦の毎日王冠は3番人気ながら10着と大敗して、秋の天皇賞に出走します。5番人気と人気を落としての出走となりました。直線でホウヨウボーイとのマッチレースになり、またしてもハナ差の2着に終わりました。その後、この年から始まったジャパンカップを2番人気に押されながらも外国馬の7着、続く有馬記念アンバーシャダイホウヨウボーイに続く3着でした。この年も無冠は続きます。

明けて6歳、東京新聞杯を勝ち、続く中山記念は2着ながらも勇躍春の天皇賞に向かいます。天皇賞は1番人気に押されます。2番人気は前年の菊花賞ミナガワマンナ、3番人気に有馬記念を勝ったアンバーシャダイと続きます。4番人気には地方からやってきたゴールドスペンサーです。

レースではこれまでとは打って変わって、後方待機策をとりました。直線に入って一気に他馬を抜き去り、アンバーシャダイ以下を押さえて優勝しました。「無冠の帝王」返上の瞬間でした。

この後、春のグランプリ、宝塚記念も圧勝します。しかしレース後繋靭帯炎を発症し休養を余儀なくされました。年内休養の予定でしたが、有馬記念出走をとのファンの願いに応えて出走も11着と惨敗、引退を決めました。

通算成績24戦7勝、2着6回、3着2回 天皇賞(春)宝塚記念

種牡馬になり、2頭の重賞ウィナーを輩出しました。

 

同期のダービー馬オペックホースはダービーを勝った後、32連敗という「史上最弱のダービ馬」という汚名を着せられました。

 

改めて馬の人生の厳しさを思い知らされます。


1980年 オペックホース 日本ダービー.mp4

 

それでは今日はこの辺で。