Flying Skynyrdのブログ

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1993年、3強対決は!

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1993年のクラシック戦線は3強対決に沸きました。

ウイニングチケットビワハヤヒデナリタタイシンの3頭です。鞍上もそれぞれ途中からですが柴田政人岡部幸雄武豊と当時を代表する騎手でした。

 

まずはウイニングチケットナリタタイシンの対決が3月の弥生賞で見られました。それまでウイニングチケットは4戦3勝重賞初挑戦。ナリタタイシンは7戦2勝、2着3回、ラジオ短波賞3歳ステークス優勝。

レースは1番人気のウイニングチケットが勝ち、2番人気のナリタタイシンが2着でした。

ビワハヤヒデ皐月賞トライアル若葉ステークスを勝って皐月賞へと向かいます。6戦4勝2着2回と連対率100%です。デイリー杯3歳ステークスを勝ち、朝日杯3歳ステークス、共同通信杯はいずれも2着でした。

 

そして迎えた皐月賞。1番人気はウイニングチケット、2番人気はビワハヤヒデ、ちょっと差があって3番人気がナリタタイシンになりました。この時点ではまだウイニングチケットビワハヤヒデの2強という感じでした。

レースはビワハヤヒデが前目の競馬。ウイニングチケットは中団、ナリタタイシンは最後方からの競馬でした。直線に入ってビワハヤヒデが先頭に立ち、ウイニングチケットが追い込みをかけますが伸びを欠きます。ほぼビワハヤヒデの勝利かと思われた瞬間、猛烈な勢いで大外からナリタタイシンが跳んできました。そしてあっという間に首差かわして優勝を遂げました。2着にビワハヤヒデ、伸びを欠いたウイニングチケットは4択に終わりました。ここに事実上の3強が誕生しました。


1993 皐月賞

続いて日本ダービーです。3頭とも皐月賞からダービーへ直行しました。人気は前走で敗れたウイニングチケットが再び1番人気、ビワハヤヒデが2番人気、3番人気がナリタタイシン皐月賞と同じになりましたが、その差はほんの僅かになりました。4番人気はNHK杯を勝ったマイシンザンです。

レースはビワハヤヒデが中団の前、ウイニングチケットはそれをマークするようにその後ろ、ナリタタイシンは例によって離れた後方から。直線に入ってウイニングチケットが抜けだします。内からビワハヤヒデも来ます。大外からはナリタタイシンが凄い脚で追い込んできます。そしてゴール前、3頭の壮絶なる叩き合いの末、半馬身差でウイニングチケットビワハヤヒデを抑え優勝、ナリタタイシンはさらに1馬身遅れての3着でした。柴田政人は念願のダービー制覇を果たしました。場内は「政人コール」がなりやみませんでした。


1993 日本ダービー

 

その後は、ナリタタイシン高松宮杯(当時は7月施行で中京の2000メートル、GⅡでした)で2着になり、京都新聞杯から菊花賞に向かう予定でしたが直前に運動誘発性肺出血を発症しぶっつけで本番に出走することになりました。

ビワハヤヒデは夏場休養して、神戸新聞杯を勝って菊花賞に向かいました。

ウイニングチケットは同じく夏場を休養に当て、トライアルの京都新聞杯を勝って菊花賞に向かいました。

そして本番。ビワハヤヒデが1番人気、ウイニングチケットが2番人気、ナリタタイシンはローテーションの狂いから大きく離されての3番人気になりました。

レースはビワハヤヒデが早め早めで2~3番手、ウイニングチケットは中団、ナリタタイシンは例によって最後方からの競馬。4コーナー手前で先頭に立ったビワハヤヒデがそのままゴール。2着争いはステージチャンプウイニングチケットを僅かにかわし2着、ナリタタイシンは全く見せ場なく17着と惨敗しました。やはり病気の影響が大きかったのでしょう。

3頭での直接対決はこれが最後となりました。

 


1993年菊花賞 - ビワハヤヒデ

 

このあとナリタタイシンは休養で4歳を終えます。

ウイニングチケットは果敢にジャパンカップに挑戦し、レガシーワールドの3着と好走します。そして有馬記念に出走します。

ビワハヤヒデ有馬記念に出走してきました。ビワハヤヒデが堂々の1番人気、ジャパンカップを勝ったレガシーワールドが2番人気、ウイニングチケットは3番人気でした。勝ったのは奇跡の復活を果たしたトウカイテイオーですが、ビワハヤヒデが健闘し2着に入り、4歳馬ながらこの年の年度代表馬に選出されました。そしてこの年の最優秀3歳牡馬に半弟のナリタブライアンが選出され、翌年のクラシック戦線を賑わすことになります。

ウイニングチケットは11着と大敗を喫します。

そのトウカイテイオー有馬記念は先日の記事で紹介しました。

lynyrdburitto.hatenadiary.com

明けて5歳になり、ビワハヤヒデナリタタイシンの対決が春の天皇賞で実現します。

京都記念を勝ったビワハヤヒデ目黒記念を勝ったナリタタイシン春の天皇賞ではビワハヤヒデが1番人気、ナリタタイシンが2番人気でしたが、ビワハヤヒデの人気が1.3倍と圧倒的でした。

レースはビワハヤヒデが例によって早めの2番手追走、ナリタタイシンは後方待機。4コーナー手前で早くもビワハヤヒデが先頭、外からナリタタイシンが猛然と追い込みますが差が詰まらず、ビワハヤヒデの完勝。ナリタタイシン2着でした。


1994 天皇賞(春)

 

この後、ナリタタイシンは故障発生で年内休養、そのまま引退かと思われましたが、翌年の宝塚記念に出走してきました。しかし、1年以上のブランクではどうにもならず16着と大敗しました。このレースでライスシャワーが非業の死を遂げています。

その後再び故障発生。止む無く引退を決意し、ナリタタイシンの競争生活は終わりました。

 

ビワハヤヒデ天皇賞快勝後、宝塚記念も圧倒的人気で勝利し、秋初戦のオールカマーに出走してきました。

一方のウイニングチケット有馬記念の後、休養に当て翌年7月の高松宮杯に出走しましたが1番人気ながら5着と敗れ、秋のオールカマーに出走を決めました。

ここに3強のなかの2頭の5度目の戦いが実現しました。

8頭立てと寂しいレースになりましたが、ビワハヤヒデが1.2倍の圧倒的1番人気、ウイニングチケットが2.8倍の2番人気、3番人気は32.6倍にもなっていました。トミシノポルンガという地方競馬の馬でした。

レースはいつもの通りビワハヤヒデが2番手追走、ウイニングチケットは中団待機。知4コーナー手前でビワハヤヒデが先頭、外に出したウイニングチケットが追い込みますが差は詰まらず、ビワハヤヒデの完勝。ウイニングチケットは2着をなんとか死守しました。


1994年 産経賞オールカマー

 

そして迎えた秋の天皇賞ビワハヤヒデ単勝1.5倍の1番人気、ウイニングチケットが5.0倍の2番人気、ネーハイシーザーが8.6倍の3番人気になりました。

ビワハヤヒデウイニングチケット、実に6度目で最後の直接対決となりました。

レースは2番手ネーハイシーザーの後3番手でビワハヤヒデウイニングチケットは中団。そのまま直線へ。しかしいつもと違うのはここからでした。ビワハヤヒデウイニングチケットも全く伸びません。結局ネーハイシーザーが勝って、ビワハヤヒデは5着、ウイニングチケットは8着と惨敗しました。ビワハヤヒデは初めて連対を外しました。

 


1994 天皇賞(秋)

レース後、両馬とも屈腱炎を発症していたことが判明、完治に1年かかるということで共に引退を表明しました。

ここに3強時代が終わりを告げました。クラシック3冠を分け合った3頭ですが、引退後は3頭とも目立った子供は輩出できませんでした。それでも1993年は競馬を盛り上げてくれた3頭でした。

ビワハヤヒデナリタブライアンの兄弟対決を見たかった。

 

ナリタタイシンの戦歴 15戦4勝、2着6回 皐月賞

ビワハヤヒデの戦歴  16戦10勝 2着5回 菊花賞天皇賞(春)、宝塚記念

ウイニングチケットの戦歴 14戦6勝 2着1回 日本ダービー

 

それでは今日はこの辺で。

 

『スティーライ・スパン(Steeleye Span)』と『マディ・プライアー(Maddy Prior)』

フェアポート・コンベンションと並んでブリティッシュ・フォークロックの代表選手である『スティーライ・スパン(Steeleye Span)』について書いてみたいと思います。

初期のスティーライ・スパンはフェアポート・コンベンションよりもトラディショナルに傾倒していました。

1969年にフェアポート・コンベンションを脱退したアシュリー・ハッチングス(Ashley Hutchings,b,vo)ティム・ハート(Tim Hart,vo,g,banjo,mandolin)マディ・プライア―(Maddy Prior,vo,banjo,perc)のフォーク・デュオとテリー・ウッズ(Terry Woods,vo,g,mandolin)ゲイ・ウッズ(Gay Woods,vo,harp)の夫妻と共にスティーライ・スパンを結成しました。

ファーストアルバムは1970年にリリースされました。『Hark! The Village Wait』です。

トラッド色を薄めたフェアポート・コンベンションに嫌気がさして脱退し、結成した新バンドにトラッド色を求めるのは当然のことで、このアルバムもトラッド色の強いアルバムになりました。全曲トラッドです。アシュリーの要望でドラマーをメンバーに入れずに作られたアルバムですが、フェアポートのデイブ・マタックスがゲスト参加しています。

ファーストアルバムのリリース後ウッズ夫妻がバンドを脱退します。

代わりにマーティン・カーシー(Martin Carthy,vo,g,banjo,organ)ピーター・ナイト(Peter NIght,vo,banjo,mandolin,violin)を迎え、セカンドアルバム『Please to See the King』をリリースします。1971年です。

傑作アルバムの出来上がりです。これも1曲をのぞいてトラディショナルです。そして今回はドラムが完全にありません。しかし重厚感は増しています。やはりマーティン・カーシーの加入は大きかったようです。このアルバムははじめて全英チャート45位とチャートインを果たします。

 

続いて翌年の1972年に『Ten Man Mop, or Mr. Reservoir Butler Rides Again』をリリースします。

このアルバムも前作の延長線上で、この初期の3作はスティーライ・スパンのエレクトリック・トラッドフォークの代表3部作と言ってもいいでしょう。

 

このアルバムを最後にアシュリー・ハッチングスとマーティン・カーシーが脱退してしまいます。

 

この後リック・ケンプ(Rick Kemp,vo,b)ボブ・ジョンソン(Bob Johnson,vo,g)がメンバーに加わります。リック・ケンプは後にマディ・プライア―と結婚します。

 

そして1972年に4枚目のアルバム『Below the Salt』をリリースします。

新生スティーライ・スパンの出発です。しかしここでも全曲トラッドとあくまでも初心を貫く姿勢が見られます。トラフィックでも有名な「ジョン・バイレコーン」も取り上げています。全く違った曲に聞こえますが。このアルバムからマディ・プライア―の存在感が増してきます。マディーは透き通った声の持ち主で、トラッドフォークを歌うのにはもってこいの声です。また曲作りも出来ます。

 

1973年に5枚目のアルバム『Parcel of Rogues』をリリースします。

相変わらずドラムレス、1曲を除きトラッドの アレンジと初心を貫きます。しかし若干ロック色が強まったような気もします。

 

しかしこの後、ついにドラマーを加入させます。ナイジェル・ピーグラム(Nigel Pegrum,ds)です。

そして1974年に6枚目のアルバム『Now We Are Six』をリリースします。

プロデューサーになんとジェスロ・タルイアン・アンダーソンを迎え、ゲストにはサックスにデヴィッド・ボウイが参加しています。アルバムの方はドラムが入った影響もあってよりロック色が強くなりました。トラッドのアレンジは相変わらずですが、この辺のロック色はイアン・アンダーソンの影響でしょう。

 

翌1975年には7作目『Commoners Crown』をリリースします。

ここでも9曲中8曲をトラッドが占めています。 前作でややポップ・ロック色が強まった感がありましたが、この作品では再びトラッド色の強いものに戻ったようです。

 

そして同年『All Around My Hat』をリリースします。

 

このアルバムはスティーライ・スパン最大のヒットアルバムとなりました。全英7位、タイトルシングルは5位を飾りました。

 

翌年は9作目の『Rocket Cottage』をリリースします。

 

このあと、ボブ・ジョンソンとピーター・ナイトが脱退します。代わりにジョン・カークパトリック(John Kirkpatorick,vo,acord)が加入し、マーティン・カーシーが戻ってきます。

そして10作目『Storm Force Ten』をリリースします。

前作でもロック色を強めていましたが、この作品もかなりロック寄りになっています。ただし曲はトラディショナルがほとんどです。この辺は一貫して守り通しています。

 

そしてこの後バンドは一旦解散します。

 

メンバーのマディ・プライア―はスティーライ・スパンでの活動中に1976年、ジューン・テイバー(June Tabor)とのすばらしいデュエットアルバム『Silly Sisters 』を発表します。

 

さらに、スティーライ・スパン解散後はイアン・アンダーソンのプロデュースの元、アルバム『Woman in the Wingsをリリースします。

 レコーディングメンバーにはジェスロ・タルの面々が参加しています。スティーライ・スパンとは違って全曲オリジナルでポップ色も強くなっていますが、マディの声質がトラッドを歌うべく生まれてきたようなものですから、イギリスの牧歌的な雰囲気が漂う仕上がりになっています。

 

同じ年に『Changing Windsをリリースします。

こちらには夫であるリック・ケンプが参加しています。

フェアポートのサンディ―・デニーとはまた違った魅力の持ち主です。

 

スティーライ・スパンはこの後1980年に再結成し、メンバーの入れ替えなどもありますが現在も活動中です。

 

マディ・プライア―はスティーライ・スパンに復帰したり離れたりしながらも、70歳の現在も活躍中です。ソロアルバムも相当数出しています。

 

ブリティッシュ・フォークロックといえばフェアポート・コンベンションペンタングルリンディスファーン、アルビオン・バンド等の名前がすぐ上がってきますが、スティーライ・スパンの存在も決して忘れてはなりません。

lynyrdburitto.hatenablog.com

 

 

まとまりがない記事になってしまいました。なにしろこれらのバンドは歴史が長くて、どうしても冗長な記事になってしまいます。これでも70年代に絞ってみたのですがうまくまとまりませんでした。文章力の無さを嘆きます。

 

マディーの声を堪能してください。


Steeleye Span - Lovely on the Water

 


Steeleye Span - All Around My Hat (Original Promo Video)

 

それでは今日はこの辺で。

ミホノブルボンVSライスシャワー、そして結末は

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1992年の牡馬クラシック戦線は短距離血統の格安馬ミホノブルボンの快進撃で始まりました。前年の朝日杯3歳ステークスを単勝1.5倍の超人気で勝ち3連勝で最優秀3歳牡馬に選出されました。

明けて4歳になって4カ月の休養を挟んで皐月賞トライアル、フジテレビ賞スプリングステークスの出走してきました。朝日杯の勝ち方が危うかったことから距離に対する不安説が流れていたためノーザンコンダクトに1番人気を譲る形になりました。

調教師の戸山為夫はスパルタ教育でミホノブルボンを鍛えました。当時出来たばかりの栗東の坂路コースで何本もトレーニングを繰り返し、距離に対する耐性を作り上げてきました。そしてトライアルでは果敢に逃げ2着に7馬身の大差をつけ優勝しました。こうして距離に対する不安説を払拭したのです。

 

一方リアルシャダイマルゼンスキーという格別の長距離血統馬のライスシャワー新馬戦は勝ったものの、次走の新潟3歳ステークスは11着の惨敗、オープン特別を勝って皐月賞トライアルに出走してきましたが、ミホノブルボンに9馬身の差をつけられ4着に敗れました。それでも皐月賞に出走を決めました。「距離が伸びれば必ず走る」という陣営の固い信念がありました。

 

迎えた皐月賞ミホノブルボンは断トツの1番人気。単勝1.4倍でした。2番人気に弥生賞を勝ったアサカリジェント、3番人気はトライアルのオープン特別若葉ステークスを勝ったセキテイリューオーでした。ライスシャワーは11番人気となっていました。

レースはミホノブルボンが一度も先頭を譲らずゴールイン。2着ナリタタイセイに2馬身半差をつけ優勝。3着にスタントマン、アサカリジェントは4着。ライスシャワーは8着でした。ミホノブルボンは圧倒的強さを見せつけ5連勝を飾りました。


1992 皐月賞

 

そしていよいよ日本ダービーです。当然ながらミホノブルボンは1番人気に支持されましたが、やはり距離延長が危惧され単勝は2.3倍となりました。2番人気は皐月賞2着でトライアルのNHK杯を勝ったナリタタイセイ、3番人気はNHK杯3着のサクラセカイオーでした。ライスシャワーはなんと16番人気まで人気を落としました。前走のNHK杯の8着という結果を考えれば致し方ないところです。ミホノブルボンライスシャワーは同じ7枠に入りました。

レースは例によってミホノブルボンの逃げで始まります。ライスシャワーが果敢に2,3番手追走。直線に入ってミホノブルボンが後続馬を引き離しにかかり、グングン差を広げ4馬身差の圧勝でした。2着にはハナ差粘ったライスシャワーが入りました。3着はマヤノペトリュースナリタタイセイは7着に敗れました。結局いったいったの競馬になりました。馬連29,580円の大荒れでした。ライスシャワーから買っていた私は美味しい馬券をゲットしました。

ライスシャワーは長距離馬の片鱗を見せました。


1992 日本ダービー

 

秋に入ってミホノブルボン菊花賞トライアル京都新聞杯からスタートし、単勝1.2倍の圧倒的1番人気になりました。

一方ライスシャワーの秋初戦はセントライト記念でした。レガシーワールドの2着して京都新聞杯に向かいます。そしてミホノブルボンとの4度目の対決になりました。結果はミホノブルボンが2着ライスシャワーに1馬身半差をつけて逃げ切り勝ちを収めました。

そして菊花賞です。ミホノブルボン単勝1.5倍の1番人気、大きく引き離されてライスシャワーが2番人気でした。3番人気はダービー4着のマチカネタンホイザでした。しかし距離は3000メートル。鞍上の的場均は密かに狙っていました。こんどもまた両馬は4枠で同居しました。これも何かの因縁でしょうか。

レースはキョウエイボーガンがハナを奪い、ミホノブルボンは逃げられず2番手。ライスシャワーは4,5番手追走。4コナー手前でようやく先頭に立ったミホノブルボンが直線で逃切りを図ります。そこにライスシャワーマチカネタンホイザが内と外から追い込みます。ゴール前3頭の競り合いの中から、ライスシャワーが抜けだし1馬身4分の1の差で優勝、しかもレコード勝ちでした。ミホノブルボンが2着、3着に頭差でマチカネタンホイザでした。ライスシャワーは5度目の対決でようやく宿敵ミホノブルボンに勝つことが出来ました。やはり3000メートルという長距離が決め手となりました。


1992年菊花賞 - ライスシャワー

 

その後ミホノブルボン脚部不安を発症し、ジャパンカップ有馬記念を回避しますが年度代表馬に選出されました。

明けて5歳になっても症状は回復せず、4月には骨折が判明し、結局そのまま引退となりました。調教師戸山為夫も5月にミホノブルボンの復帰を見ることなく逝去しました。

 

一方のライスシャワーはその年の有馬記念に出走するもメジロパーマーの大逃げの前に8着と敗れ、明け5歳になって東京の目黒記念からスタートします。これをマチカネタンホイザの2着して、続く日経賞を快勝。春の天皇賞を目指して西下します。

そして圧倒的人気の武豊騎乗のメジロマックイーンと対決します。マックイーンが1.5倍の超人気、ライスシャワーは5.2倍の2番人気、マチカネタンホイザが8.6倍の3番人気、以下メジロパーマータケノベルベットと続きます。

 

レースは例のごとくメジロパーマーの逃げで始まります。マックイーンは4,5番手追走。それをマークするようにライスシャワーマチカネタンホイザがその後を進みます。直線に入って一旦マックイーンが先頭に躍り出ます。そこにライスシャワーが忍び寄り並びかけます。メジロパーマーも内で懸命に粘ります。直線半ばでライスシャワーがマックイーンを交わし先頭でゴールイン。2馬身半差でメジロマックイーン、さらに4分の3馬身差でメジロパーマーが入りました。

ライスシャワーはまるで刺客のようにマックイーンをぴったりとマークしきっちりと差し切りました。菊花賞でのミホノブルボンを差し切ったのを再現したかのようです。刺客ライスシャワーの呼び名がぴったりです。

メジロパーマーの強さが本物であることも証明されました。人気薄での有馬記念宝塚記念の優勝でしたがやはり長距離では父親のメジロイーグルを思い起こさせます。

 


1993 天皇賞(春)

 

しかしこの後ライスシャワーは低迷します。秋初戦のオールカマーを3着の後、秋の天皇賞は1番人気ながら6着、ジャパンカップは14着、有馬記念8着と惨敗が続きます。

明けて6歳。春の天皇賞を目指し、2月の京都記念から始動します。京都記念5着、日経賞2着とやや復活の兆しを見せますが、このあと故障発生、天皇賞を断念。暮れの有馬記念に間に合い出走。その年の3冠馬ナリタブライアン、女傑ヒシアマゾンに次いで3着に入りました。

明けて6歳、京都記念日経賞に出走。いずれも1番人気に支持されますが共に6着と敗退。斤量も59キロ、60キロと小さな体には響いたのかもしれません。そして2年ぶりに春の天皇賞出走を果たします。

前年の3冠馬ナリタブライアンが回避したことで混戦模様になりました。1番人気は長距離得意のエアダブリンステイヤーズステークス(3600M)、ダイヤモンドステークス(3200M)と長いところを勝ってきた実績が買われました。菊花賞も3着に来ています。2番人気は日経賞を勝ったインターライナー、3番人気は目黒記念を勝ったハギノリアルキングライスシャワーはその後の4番人気でした。

レースはエアダブリンインターライナーが先頭集団を形成、ライスシャワーもその中にいます。3コーナーでライスシャワーが果敢に先頭に立ち、そのまま直線へ。直線でも後続を引き離し、楽勝かと思われましたが、ゴール前大外からステージチャンプハギノリアルキングが猛烈に追い込みます。しかし、ステージチャンプをハナ差かわしライスシャワーが粘りま優勝しました。場内は大歓声でした。馬連4,090円の高配当、美味しい馬券でした。やはり長距離ではめっぽう強いところを見せてくれました。


[競馬] 1995/04/23 天皇賞(春) ライスシャワー

 

そして運命の宝塚記念です。天皇賞の後、疲れから休養を考えていましたが、ファン投票1位ということもあり出走に踏み切りました。またこの年阪神競馬場が大震災の影響で使用できず得意の京都競馬場に変更になったのも出走を後押ししたようです。当日は距離の短縮もあり3番人気になりました。

レースはいつもと違って後方につけたライスシャワー。鞍上の的場均はどうも様子がおかしいと感じたようです。そして悲劇は3コーナーで起こりました。ライスシャワーがつまずいて転倒落馬。左第一指関節開放脱臼、粉砕骨折予後不良。その場で安楽死処分が行われました。何ともショッキングな出来事でレースどころではなくなりました。


1995 宝塚記念

フジテレビの中継ではその後のライスシャワーの様子を中継しています。


1995 宝塚記念 ダンツシアトル

 

小さな体で闘志をむき出しにして狙った獲物を仕留める、まさに刺客のような馬でした。

ライバル、ミホノブルボンとの壮絶な戦いが今でも鮮明に蘇ります。馬券的には裏切られたことも多かったですが、最終的にいい思いをさせてもらいました。記憶に残る馬でした。

 

ミホノブルボンの戦績 8戦7勝(朝日杯3歳ステークス、皐月賞日本ダービー

ライスシャワーの戦績 25戦6勝(菊花賞天皇賞(春)2回)

 

それでは今日はこの辺で。

その後のスティーヴ・ミラー(Steve Miller)

もう随分前になりますが、ティーヴ・ミラー(Steve Miller)のブルース・ロック時代の記事を若干書きましたが、それ以後についてはまだ書けていませんでした。

lynyrdburitto.hatenablog.com

ティーヴ・ミラーは新譜が発売になるたびに購入する私のフェヴァリット・アーティストの一人です。

 

1960年代のデビュー当時はサンフランシスコで絶大なる人気を誇りました。

しかし、レコード売上はセカンドアルバム『セイラー』がヒットしましたが、それ以外はアルバム自体は悪くはありませんでしたが、売れ行きは今一つパッとしませんでした。

 

ファーストアルバム『未来の子供達(Children of the Future)』

セカンドアルバム『セイラー(Sailor)』

1st、2ndまではボズ・スキャッグス(Boz Scaggs,g)が在籍。

 

サードアルバム『Brave New World』

ポール・マッカートニーニッキー・ホプキンスがゲスト参加。ベン・シドラン(Ben Sidran,key)がメンバー参加。

 

4枚目のアルバム 『Your Saving Grace』

ニッキー・ホプキンス(Nicky Hopkins,key)が正式メンバーに。

 

5枚目のアルバム『Number 5』

ジミー・ミラー、チャーリー・マッコイが参加。

 

6枚目のアルバム『Rock Love』

 

7枚目のアルバム『エデンからの旅(Recall The Beginning ... A Journey From Eden)』

このアルバムからジェラルド・ジョンソン(Gerald Johnson,b)が参加。

 

そして通算8枚目のアルバム『ジョーカー(Joker)』が大ヒットし、シングルの「ジョーカー」は全米1位を記録しました。

フライング・バリットのスヌーキー・ピートがゲスト参加。

 

続く『鷲の爪(Fly Like An Eagle)』も全米で2位になり全盛期を迎えます。

ジェイムス・コットン、レス・デューデックがゲスト参加。

 

ここまでは以前に記事で書きました。

 

それ以後についてちょっと書きたいと思います。

続く1977年の10作目の『ペガサスの祈り(Book of Dreams)』も大ヒットとなりました。「ジェット・エアライナー」や「ジャングル・ラブ」などのヒットも生まれました。

前作の『鷲の爪』がロック・ミュージックの新境地を開いた大傑作でしたから、次の作品は期待と不安が織り交ざった心境でしたが、不安の方は杞憂に終わりました。前作の延長線上で、さらに音楽性の幅が広がった感じです。レス・デューデックがメンバー参加。

 

暫く音信が途絶えて、4年程経った1981年にようやく11枚目のアルバム『愛の神話(Circle of Love)』がリリースされました。

この時のメンバーはジェラルド・ジョンソン (Gerald Johnson,b)ゲイリー・マラバー (Gary Mallaber.ds)バイロン・オールレッド (Byron Allred,key)でした。

スティーヴ・ミラー・バンドはバンドと名乗っていますがメンバーの変遷は激しく、固定されたメンバーはそれほどいません。かつてはロニー・ターナーボズ・スキャッグス、ベン・シドラン、ニッキ―・ホプキンス、レス・デューデックなども名を連ねましたが、いずれも短い期間でした。あくまでもスティーヴ・ミラー(guitar)のワンマンバンドです。

このアルバムは16分に及ぶ曲が含まれている影響で全曲で5曲、33分というちょっと寂しい構成になりました。

 

続く1982年にアブラカダブラ(Abracadabra)をリリースします。

シングル「Abracadabra」が大ヒットとなりました。私も大好きな曲です。この頃のスティーヴ・ミラーはポップで聴きやすくなっています。

このアルバムではロニー・ターナーも一部復帰し、ギターにはジョン・マサロ(John Massaro,g)が加わっています。

 

続く1983年には初の全面ライブアルバムSteve Miller Band Live! 』をリリースします。

ティーヴ・ミラーのヒットパレード的アルバムです。ノートンバッファローのハープが聴けます。

 

1984年には14枚目のアルバム『Italian X Rays』がリリースされます。

これはエレクトロ・ポップ。コメントなしです。

 

1986年には『Living in the 20th Century』をリリースします。

バンド結成20年を記念した作品です。

前作の延長線のエレポップとジミー・リードやウィリー・ディクソンのブルースをアレンジした作品が混ざっています。

 

1988年には『Born 2 B Blue』をリリースします。

キャピトル時代最後の作品。これはスティーヴ・ミラー名義のジャズ・アルバムです。ゲストにミルト・ジャクソンフィル・ウッズベン・シドランを迎えています。スティーヴはこういうものがやりたかったんだろうなというのがにじみ出てくるようなアルバムになっています。

 

しばらくの沈黙が続き、1993年にWide Riverがリリースされます。

久しぶりのアルバムです。かつてのスティーヴ・ミラーが帰ってきました。しっかりブルースロックもやっています。しかし、このアルバムはほとんど話題にも上りませんでした。隠れた名作かもしれません。

 

この後は長い沈黙が続きます。その間、かつてのライヴ音源がたくさん発売されました。

なかでもよかったのがKing Biscuit Flower Hour Presentsです。

2枚組のライブで録音時期は1973年~1976年あたりらしいです。その他にも怪しいライブアルバムがたくさん出ました。タイトルは違っていても中身は一緒とかいうものもたくさんあります。気を付けないといけません。

 

そしてなんと17年ぶりにアルバムビンゴ! (BINGO!)がリリースされます。

全曲ブルースナンバーのカバーです。とはいってもスティーヴ風アレンジでスティーヴ流ブルースになっています。それでもやはり嬉しいものです。ノートンバッファローもハープで参加しています。ノートンバッファローはこのアルバムがリリースされる前年に亡くなっています。

 

翌年、2011年にはLet Your Hair Downがリリースされます。

これも前作同様ブルースのカバーです。ノートンバッファローのクレジットがあるところを見ると前作と同時期の録音のようです。前作以上の出来を感じます。

これ以後は今のところアルバムのリリースはありません。

 

2016年には『ロックの殿堂』入りを果たしました。アメリカンロックの進化に果たした役割は大きかったと思います。現在74歳、もう1枚くらいいかがでしょう、ミラー様。

 


Steve Miller Band - Abracadabra (élő - 1982)


Steve Miller Band Live From Chicago Serenade


Steve Miller Band "Jet Airliner"


Steve Miller Band - Evil - 1/5/1974 - Winterland (Official)

 

それでは今日はこの辺で。

親子2代の三冠制覇はなったのか?

「トウカイテイオー 写真」の画像検索結果

 

1991年の牡馬クラシック戦線は前年の朝日杯3歳ステークスを勝って最優秀3歳牡馬に輝いたリンドシェーバーが、同じく阪神3歳ステークスを勝って最優秀3歳牡馬の座を争ったイブキマイカグラ弥生賞で敗れ、なおかつ骨折が判明しそのまま引退となってしまいました。クラシック戦線は一気に混戦模様を呈してきました。

正月の京成杯ダイナマイトダディシンザン記念ミルフォードスルー共同通信杯イイデセゾンきさらぎ賞シンホリスキー弥生賞イブキマイカグラ毎日杯イイデサターン、トライアルのスプリングステークスシンホリスキーと重賞勝ち馬が目まぐるしく変わりました。

そしてそこに現れたのが3冠馬シンボリルドルフの仔トウカイテイオーです。この年から皐月賞の指定オープンに定められた若葉ステークス単勝1.2倍の圧倒的人気で4連勝を飾りました。そして重賞未出走ながら皐月賞に駒を進めました。主戦騎手の安田隆行はそれまでローカルが主戦場のあまり目立たない騎手でしたがトウカイテイオーに騎乗して一躍有名騎手の仲間入りを果たしました。

 

そして迎えた皐月賞トウカイテイオーは当然の1番人気。イブキマイカグラが2番人気、シンホリスキーが3番人気で続きました。トウカイテイオーイブキマイカグラと共に単枠に指定されました。

レースは終始先頭集団の外を回ったトウカイテイオーが直線あっさり抜け出し、人気薄のシャコ―グレードの追い込みを交わし優勝しました。3着にはイイデセゾンイブキマイカグラは4着でした。


1991年皐月賞 - トウカイテイオー

 

続くダービーに向けてNHK杯ではイブキマイカグラが圧倒的人気で快勝も、レース後骨折が判明し、ダービーを断念。代わって指定オープンの青葉賞を勝ったレオダーバンが出走し、人気を集めました。1番人気は当然トウカイテイオー単勝1.6倍と圧倒的人気でした。2番人気にレオダーバン、3番人気に皐月賞で穴をあけたシャコ―グレードが入りました。当然ながらトウカイテイオー皐月賞と同じく大外8枠での単枠指定です。

レースは終始好位の外を回ったトウカイテイオーが直線力強く伸び、レオダーバンに3馬身の差をつける圧勝でした。3着にイイデセゾンが入りました。人気通りの決着でした。それにしても強い勝ち方でした。これで一気に親子2代の3冠も夢が現実化してきました。ダービーは8枠は勝てないというジンクスがありましたが、そんなものは関係ないとばかりの勝ち方でした。


1991年 第58回日本ダービー トウカイテイオー.mp4

 

しかし、このレース後骨折が判明。年内休養が必要との診断、3冠の夢は断たれました。と同時に親子2代の三冠制覇なりませんでした。

この年の菊花賞レオダーバンが制しました。

 

明け5歳になって、トウカイテイオーは4月のサンケイ大阪杯から始動します。約1年ぶりにレースです。8頭立てでしたが圧倒的1番人気で快勝しました。そして春の天皇賞に向かいます。このレースから鞍上は岡部幸雄に替わりました。

このレースには前年の春の天皇賞を勝ち、さらに秋の天皇賞では大差でゴールインも斜行による失格となりましたがその強さを見せつけたメジロマックイーン春の天皇賞2連覇を目指し出走してきました。人気の方はトウカイテイオー単勝1.5倍の圧倒的1番人気、メジロマックイーンは2.2倍の2番人気。この2頭が人気を集め3番人気のイブキマイカグラはなんと18.2倍でした。

レースはメジロマックイーが先頭集団、それをマークするようにトウカイテイオーが後方から。3コーナー手前で早くもメジロマックイーンが先頭に立ちます。それに並びかけるようにトウカイテイオーも上がってきます。そして直線へ入り、メジロマックイーンの末脚が冴え、後続馬を引き離します。トウカイテイオーは直線全く伸びず、5着に沈みます。メジロマックイーンの圧勝、2着にはカミノクレッセが入りました。イブキマイカグラが3着です。


1992 天皇賞(春) メジロマックイーン

レース後トウカイテイオーは骨折が判明、春は休養となりました。

 

そして秋の天皇賞。ぶっつけながらトウカイテイオーは1番人気に支持されました。2番人気にナイスネイチャ、3番人気はダイタクヘリオスでした。

レースは3コーナー手前から上がっていったトウカイテイオーですが直線に入っても伸びず7着と惨敗しました。勝ったのはあっと驚くレッツゴーターキンでした。それまでローカル重賞を2勝していましたが全くの人気薄でした。2着には5番人気のムービースターが入り、馬連17、220円の万馬券となりました。美味しい馬券でした。


1992 天皇賞(秋)

 

続いてトウカイテイオージャパンカップに出走してきました。さすがに人気を落とし5番人気でした。1番人気はイギリスのユーザーフレンドリー、2番人気はニュージーランドナチュラリズム、3番人気は同じくオーストラリアのレッツイロープ と外国馬が独占しました。

レースはトウカイテイオーが持ったまま直線半ばから抜け出し、ナチュラリズムとの接戦を制し優勝しました。3着にディアドクターが入りました。馬連4890円の高配当となりました。

トウカイテイオーは初めて1番人気を外しましたが、見事な優勝で場内は大歓声でした。

 

そして暮れの有馬記念へと向かいます。当然ながら再び1番人気に返り咲きます。騎乗停止中の岡部に替わり田原成貴が手綱をとります。

2番人気はこの年の菊花賞を勝ったライスシャワー、3番人気はジャパンカップ5着に健闘したヒシマサルでした。

レースは例によってメジロパーマーダイタクヘリオスが大逃げを打ち、トウカイテイオーは後方からの競馬になりました。直線に入ってもメジロパーマーの脚色は衰えず、最後レガシーワールドは際どく追い込んでハナ差の2着、ナイスネイチャが3着。トウカイテイオーは全く伸びず11着の大敗でした。ライスシャワーは8着でした。

メジロパーマーは15番人気、宝塚記念の再現になりました。レガシーワールド5番人気で、馬連31、550円の大波乱になりました。

 

このあとトウカイテイオーは故障発生、さらに骨折が判明し約1年間の休養を余儀なくされ、復帰戦は再び有馬記念になりました。ちょうど1年のブランクです。騎手は同じく田原成貴。岡部はこの年の菊花賞ビワハヤヒデに決まっており、武豊もベガ騎乗が決まっていました。

1番人気はビワハヤヒデ、2番人気は昨年の2着馬でこの年ジャパンカップを勝ったレガシーワールド、3番人気はこの年のダービー馬ウイニングチケットトウカイテイオーは4番人気でした。

レースは前年と同じくメジロパーマーの逃げで始まり、レガシーワールドが追走。ビワハヤヒデが早め4番手、トウカイテイオーは中団追走。3~4コーナーでビワハヤヒデが先頭に並びかけ、トウカイテイオーも上がって直線へ。ビワハヤヒデが抜けだしたところに、トウカイテイオーが懸命に追い込みます。壮絶な叩き合いの末半馬身交わしてトウカイテイオーが奇跡の優勝を飾りました。まさに奇跡でした。これまでに1年の休養後にG1を勝った馬などいなかったと思います。


1993 【第38回有馬記念】 トウカイテイオー

 

翌年は春の天皇賞を目指し調整に入りましたが、再び骨折。結局そのまま引退となりました。まさに波乱万丈の競争生活でした。

種牡馬になってからは2頭のGⅠ馬(トウカイポイントヤマニンシュクル)を輩出しましたが、その他は目立った活躍場は出ませんでした。

 

トウカイテイオーは父シンボリルドルフが憎らしいほど強かったため、人気面ではその前年の3冠馬ミスターシービーに及びませんでしたが、子供のトウカイテイオーは弱さを併せ持っていたせいか、いつまでも心に残る人気馬として語り継がれました。

 

これまでに親子2代の3冠馬ディープインパクトジェンティルドンナの親子だけです。牡馬ではまだいません。

シンボリルドルフトウカイテイオートウカイポイントジェンティルドンナは親子3代GⅠ制覇の偉業を達成しました。

 

トウカイテイオーの主な戦績 12戦9勝(皐月賞日本ダービージャパンカップ有馬記念

 

それでは今日はこの辺で。

映画『早春(Deep End)』を観る

昨日のキネ旬シアターは『早春』でした。『早春』といっても小津安二郎監督作品ではありません。

ポスター画像

 

監督:イエジー・スコリモフスキ

主演:ジョン・モルダー=ブラウンジェーン・アッシャー

制作:イギリス、西ドイツ合作 1970年公開(日本公開は1972年)

 

この古い映画が今頃再上映とは驚きました。今までDVDの発売も無しで、今回デジタルリマスターで46年ぶりの再上映とは一体どういうことなのでしょうか。

 

映画のストーリーを簡単に書くと、15歳の少年が学校を辞め、ロンドンの公衆浴場に就職するところから始まります。

少年マイクは、先輩従業員のスーザンに指導されながら、徐々に彼女に好意を持ち始めます。しかし彼女は奔放な生活ぶりで、婚約者がいながら、他の男性とも付き合っています。

マイクは気持ちが抑えきれなくなっていき、次第に今で言うストーカーまがいの行動に出るようになります。そしてついには・・・・

 

という、思春期男子の苦悩と危うさを描いた青春映画です。今の男の子はこんな気持ちを理解できるのでしょうか。

 

監督のイエジー・スコリモフスキポーランド出身です。

ポーランドの映画監督というと私たちの世代では、すぐにアンジェイ・ワイダ、イエジー・カワレロウィッチやロマン・ポランスキーの名前が浮かびますが、このイエジー・スコリモフスキアンジェイ・ワイダの1960年の作品『夜の終わりに』やロマン・ポランスキーのデビュー作『水の中のナイフ』の脚本を書いています。

 

ポーランド映画で印象深いのは、古いところではやはりワイダ監督の『灰とダイヤモンド』『地下水道』、カワレロウィッチ監督の『夜行列車』、ポランスキー監督の『反撥』『吸血鬼』『ローズマリーの赤ちゃん』などが鮮烈に記憶に残ります。

最近では(最近でもないか)『カティンの森』(ワイダ)や『赤い航路』『戦場のピアニスト』(ポランスキー)などが思い出されます。

 

今回の『早春』はこういった傾向からはちょっと違う、青春の無軌道さと性に対する羨望を描いたような作品です。私の勝手な思い込みで、今まで観てきたポーランドとはずいぶん趣が違ったなという感想でした。

それも当然で、舞台はロンドン、おそらく1960年代末あたりでしょうか。スウィンンギング・ロンドン時代のファッションに彩られています。

女優のジェーン・アッシャーはまさに当時の女性のファッションを思い起こさせてくれました。マイク役のジョン・モルダー=ブラウンは大昔のマーク・レスター小さな恋のメロディ)のようなイケメン坊やで、こういう二人だから映画が引き立つのでしょう。

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1970年代にこの映画を観ていたら、おそらく今とは全く違う感想を抱いたでしょう。

 

ラストのプールのシーンの映像の鮮やかさには感動します。これはデジタルリマスターの効果もあるのでしょうが、この色使いには驚きます。

 

音楽はイギリスのシンガー・ソングライターのキャット・スティーヴンスとドイツのプログレバンド、カン(CAN)です。

キャット・スティーヴンスは当時日本でも「雨にぬれた朝」のヒットで人気がありました。来日公演も行いましたが、70年代後半に活動中止。その後2000年代に音楽界に復帰しました。

またカンはジャンルでいうとプログレに括られていましたが、実際はジャズから現代音楽、実験音楽とジャンル分け出来ないバンドでした。映画の中でも効果的に使われていました。1979年に解散。

 

イエジー・スコリモフスキ監督は1967年の『出発』でベルリン国際映画祭金熊賞を受賞しています。この作品にはヌーベルヴァーグ映画でおなじみのジャン=ピエール・レオが出演しています。最近では2008年に17年ぶりの監督作品『アンナと過ごした4日間』が公開されています。その後も『エッセンシャル・キリング』『イレブン・ミニッツ』が公開されています。2016年にはヴェネツィア国際映画祭で生涯功労金獅子賞を受賞しています。また俳優としても活躍しています。

 

なんとなく懐かしさに浸れた1日でしたが、この作品が今になって上映された謎は解けませんでした。

 

 


映画「早春 デジタル・リマスター版」予告 2018年1月13日公開

 

それでは今日はこの辺で。

 

悲しい結末 ダービー馬アイネスフウジン

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1990年、オグリキャップの人気に沸く中央競馬界。この年の4歳クラシック戦線もそのオグリキャップ人気にあやかって、盛り上がりました。

その主役は前年の朝日杯3歳ステークスを制し、最優秀3歳牡馬に選ばれたアイネスフウジンアンバーシャダイの産駒で長距離血統のメジロライアン。さらにハイセイコーの産駒のハクタイセイの3頭です。

アイネスフウジンは朝日杯の後共同通信杯を勝ち、弥生賞は不良馬場に泣き4着でしたが皐月賞に駒を進めてきました。

メジロライアン弥生賞アイネスフウジンを破り3連勝を飾り、皐月賞に名乗りを上げました。

ハクタイセイは5連勝できさらぎ賞を勝ち、間隔は開いたものの東上してきました。

人気の方はアイネスフウジンが1番人気、メジロライアンが2番人気、ハクタイセイが3番人気になりました。

レースの方はスタート後ホワイトストーンが内によれ、アイネスフウジンが逃げられず2番手追走となりました。ハクタイセイは中団、メジロライアンは後方待機。

3~4コーナー中間でアイネスフウジンが先頭に立ち、直線へ。後続馬を引き離しにかかりますが、坂を上がってハクタイセイが猛烈に追い込みクビの差でアイネスフウジンを交わし優勝しました。3着にはさらに後方から追い込んだメジロライアンが際どく入りました。上位人気馬3頭で決着しました。


1990 皐月賞

 

続く日本ダービー東京優駿メジロライアンが1番人気、ハクタイセイが2番人気、アイネスフウジンは3番人気になりました。これは距離適性が反映された人気だと思います。距離が延びればメジロライアンと戦前から言われていたのでその通りの人気になったのでしょう。アイネスフウジンは先行逃げ脚質が嫌われたのでしょう。東京の2400メートルを逃げ切るのは至難の業です。

レースは予想通りアイネスフウジンの逃げ、それもかなりのハイペースで逃げました。ハクタイセイが早め2番手で追走、メジロライアンは中団追走。アイネスフウジンは直線に入っても脚色は衰えず、逆にハクタイセイは力尽き後退します。そとからメジロライアンが懸命に追い込みますが届きません。結局アイネスフウジンが1馬身4分の1の差をつけて優勝。しかもレースレコードでのゴールインでした。この記録はキングカメハメハに破られるまで続きました。

レース後は20万人近い観衆の「中野コール」で埋め尽くされました。騎乗の中野栄治はそれまで騎乗機会も少なくあまり恵まれない騎手生活を送っていました。しかしアイネスフウジンに巡り合って日の目を見ることになりました。しかしアイネスフウジンの引退後は再び騎乗機会が減り、結局1995年に騎手を引退します。

この日の東京競馬場の入場者数は未だに破られていません。

私もこのレースは1点で仕留めており、連複770円は美味しい馬券でした。普段は穴馬券しか買わないのですが、「ダービーは固く、菊花賞は荒れる」のジンクス通りに勝ったのが正解でした。もっともアイネスフウジン皐月賞の前からこの馬と心中するつもりでいましたから迷いはありませんでした。


1990 日本ダービー

 

レース後アイネスフウジン脚部不安を発生し、結局そのまま引退となってしまいました。残念です。菊花賞での姿を見たかった。

 

菊花賞は直前の条件戦で3000メートルを2着した内田浩一メジロマックイーンが勝ちました。2着にホワイトストーン、メジロライアンは3着。結局メジロライアンはクラシック3着、2着、3着という結果に終わりました。そしてこの後の有馬記念でも2着と勝ちきれない馬でしたが、翌年の宝塚記念を勝って面目を保ちました。

菊花賞を勝ったメジロマックイーンはその後も春の天皇賞を2度勝ち、宝塚記念も勝って長距離の超一流馬の仲間入りをしました。

 

アイネスフウジンがダービーを勝って、8年後に悲劇が起こります。1998年の2月に馬主の小林正明が首吊り自殺を図り死亡しました。彼は自動車部品を扱う会社を経営していましたが、資金繰りが付かず、関連企業の社長2人と共に自殺しました。丁度日本経済に陰りがさしてきた頃でした。遺書には「保険金は資金繰りの足しにしてください」とありました。

林正明は1988年に馬主資格を取ったと言いますから、わずか2年でダービーオーナーになったわけです。これも凄いことですが、その後の悲劇は運命のいたずらとしか言いようがありません。

 

アイネスフウジン脚部不安で無念の引退、中野栄治アイネスフウジン引退後に騎乗機会に恵まれず自身も引退、馬主の小林正明自死。この人馬たちの人生(馬生)には「人生いろいろなことがある」ということを思い知らされた気がします。

中野栄治は調教師として活躍中です。

 

それでは今日はこの辺で。