デュアンのいたオールマン・ブラザーズ・バンド
今日は「サザンロックの台頭」ということで、1970年前後からスタートしてみたいと思います。
サザンロックという言葉はおそらくオールマン・ブラザーズ・バンド(以後、ABB)の出現からではないでしょうか。それまではロックといえばウェストコースト、イーストコーストが中心で南部はブルース、リズムアンドブルース、カントリーミュージック、ジャズが中心でいわゆるロック・ミュージックはあまりなじみがありませんでした。
そうしたなか、1960年後半デュアンとグレッグの兄弟はThe Hour Glassというバンドに参加しますが2枚のレコードを出して二人ともグループを離れます。思い描くような音楽が出来ないというの後その理由のようですが、どちらかというとR&Bやソウル系の音楽でその後のABBとは違っていました。
その後デュアンはディッキー・ベッツ(Dickey Betts,g,vo)、ブッチ・トラックス(Butch Tracks,ds)、ベリー・オークリー(Berry Oakley,b)、ジェイモー(J.J.Johanson,ds)と知り合い、そしてグレッグを呼び寄せグループを結成します。ABBの誕生です。
ファーストアルバムは『オールマン・ブラザーズ・バンド(Allman Brothers Band)』です。1969年です。
そして翌年『アイドルワイルド・サウス(Idlewild South)』を発表します。
どちらも文句なしの素晴らしいアルバムでしたが売れ行きはいまひとつでした。
そしてその翌年に遂にあの『フィルモア・イースト・ライブ(At Fillmore East)』が発表されます。(見開きジャケットとCDボックス。カラーになっています)
この2枚組ライブ(レコードでは2枚)はABBを不動の人気バンドに押し上げました。日本でも一気に人気が上がりました。オープニングの「Statesboro Blues」から「Stormy Monday」などブルースナンバー、デュアンのスライドギター、インストナンバー、23分にも及ぶラストの「Wipping Post」まで息もつかせぬ演奏は20世紀最高といっても過言ではないでしょう。敏腕プロデューサーのトム・ダウドの力も大きいのでしょう。
デュアンはこの前にクラプトンの『Layla And Other Assorted Love Songs/Derek & The Dominos』のレコーディングに参加していて、ドミノスのメンバーにクレジットされていましたが正式なメンバー入りを勧められていましたがそれを断っていました。
(見開きジャケットで)
しかし、その後悲劇が襲います。デュアンがオートバイ事故で亡くなります。そして翌年ベリー・オークリーも同じくオートバイ事故で亡くなります。
1972年レコーディング途中だった『イート・ア・ピーチ(Eat A peach)』をディッキーが中心になって完成させました。
(見開きジャケットで。汚れが目立ちます。中も面白いので。)
これは言ってみればデュアンの追悼盤のような感じになりました。前作のライブの残りとスタジオ録音とで成り立っています。レコードでいうと第1面はスタジオ録音でデュアンはいません。2面と4面がドノバンのヒット曲「霧のマウンテン」を下敷きにしたナンバーで両面で33分に及ぶインストナンバーです。これはライブでデュアン参加です。3面はライブとスタジオが混じっています。おなじみの「Oneway Out」や「Trouble No More」はライブでその他はスタジオでこのスタジオにはデュアンが参加しています。
このライナーノートを読んでいるとまだサザンロックという呼び方ではありませんでした。「スワンプ」です。そういえばそうでした。いつごろからサザンロックと呼ぶようになったのでしょう。
こうしてデュアン在籍時のABBは終わります。代わってディッキーが主導権を握り次作『ブラザー&シスター(Brothers & Sisters)』
この中の「ランブリンマン(Ramblin' Man)』が大ヒットします。ブルースからカントリーへとやや路線が変更されました。これ以降のことについては、先日の「グレッグ・オールマン逝く」に少し書きましたのでご参照ください。
なお、デュアンの功績については『アンソロジー』『アンソロジーⅡ』で堪能できます。
ここまでデュアン在籍時のABBについてみてきました。このあとのサザンロックについてはまた次の機会に書きます。
それでは今日はこの辺で。