Flying Skynyrdのブログ

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怪物カブラヤオーと女傑テスコガビー

 

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以前マルゼンスキーの記事を書いていて、カブラヤオーを思い出しました。

1975年のクラシック戦線は牡馬はカブラヤオー牝馬テスコガビー、騎手は菅原泰夫で沸きました。

カブラヤオーは3歳(今の2歳)のデビュー戦こそ2着に敗れますが、2戦目以降3連勝で東京4歳ステークス(重賞)へと駒を進めます。

一方の牝馬テスコガビーも初戦から重賞2連勝を含む4連勝で東京4歳ステークスに向かいます。両馬とも主戦騎手は菅原泰夫でしたがこの時は、菅原はカブラヤオーが自分の厩舎である茂木厩舎の馬だったため、弟弟子の菅野澄男に譲り、自分はテスコガビーに跨りました。レースはカブラヤオーが逃げテスコガビーを首差押さえて勝利しました。

カブラヤオーはこの後弥生賞を勝って皐月賞へと向かいます。騎手は菅原泰夫に戻ります。

皐月賞カブラヤオーが1番人気、2番人気にトライアル・スプリングステークスを制したロングホークが入りました。

レースはカブラヤオーが逃げられずレイクスプリンターが逃げ、ようやく3コーナーで交わすと4コーナーではロングホークなど後続が迫ります。直線に入ってカブラヤオーは二の足を使い、後続を引き離し優勝しました。2着にロングホーク、3着にその後天皇賞を逃げ切る気まぐれエリモジョージが入りました。

その後、カブラヤオーはダービートライアルのNHK杯も勝って日本ダービーへと向かいます。ダービーでは当然カブラヤオーが1番人気、ロングホークが2番人気、NHK杯で2着に来たロングファストが3番人気でした。

レースはカブラヤオーが驚異的なペースで逃げ直線に入ってもよれながらも後続馬を引き離し見事優勝しました。2着にロングファスト、3着に人気薄のハーバーヤングが入りました。

 

一方、牝馬テスコガビーカブラヤオーに敗れた後、桜花賞トライアルを勝ち、その勢いで桜花賞を制し、続くオークストライアルは3着に敗れたものの、次走のオークスを勝ち2冠を制しました。ともに全く他馬を寄せ付けない圧倒的な強さでした。こんな馬は見たことありませんでした。

 

菅原泰夫牝馬2冠と牡馬2冠の春のクラシック完全制覇を成し遂げました。史上初の快挙でした。

ところがカブラヤオーは秋の菊花賞前に屈腱炎を発症し、3冠はなりませんでした。

復帰後、明けて5歳、5月のオープンを勝ちますが復帰2戦目のオープンでゲートに頭をぶつけ脳震盪を起こし、11着と最下位になってしまいました。

その後、札幌の短距離ステークスを勝ち、秋の東京のオープンも勝ち、天皇賞を目指しましたが再び屈腱炎を発症し、結局引退となってしまいました。

13戦11勝、2着1回。皐月賞日本ダービー。連勝記録9は今でも破られていません。

 

一方のテスコガビーも秋のビクトリアカップエリザベス女王杯の前身)を目指して調整中に捻挫し、1年の休養を余儀なくされ、復帰後のオープンは6着に敗れ、再び脚部不安となりそのまま引退となりました。そして1977年に心臓麻痺で急死してしまいました。子供は残せませんでした。女傑の名にふさわしい名牝でした。

10戦7勝、2着2回、3着1回 桜花賞オークス

 

この年の春を賑わしてくれた2頭でしたが、競争生活は短命に終わりました。

 

カブラヤオーの産駒ではエリザベス女王杯を勝ったミヤマポピーを輩出しました。全妹に同じくエリザベス女王杯を勝ったミスカブラヤがいます。

 

カブラヤオーは驚異的なスピード馬で、彼にせりかけた馬は悉くつぶされました。「狂気の逃げ馬」などと呼ばれたこともありますが、後に調教師が話したところによると、カブラヤオーは極端に臆病な馬で、他の馬がいると逃げてしまうほどで、本当は追い込み馬にしたかったが、その性格を利用して逃げ馬にしたと語っています。とにかく個性的な馬でした。


1975 皐月賞 カブラヤオー

 


1975年日本ダービー - カブラヤオー


1975 桜花賞 テスコガビー


1975年 第36回オークス テスコガビー

 

それでは今日はこの辺で。