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2年連続3冠馬 シンボリルドルフとミスターシービーの対決

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1984年(昭和59年)、中央競馬会はこの年から重賞にグレード制を導入しました。八大競争をはじめ宝塚記念ジャパンカップエリザベス女王杯、それにマイル戦の安田記念、マイルチャンピョンシップ、それと3歳馬の朝日杯3歳ステークスと阪神3歳ステークス全15レースをGⅠとしました。その下にGⅡ、GⅢと重賞を3つのクラスに分けました。

その前年の新潟でデビューした1頭の馬が初のGⅠウィナーになることになります。

その馬の名はシンボリルドルフです。パーソロンとスイートルナの子で野平祐二厩舎、主戦騎手は岡部幸雄でした。

続く2戦目も勝って、3戦目のオープンも勝ち3歳(今でいう2歳)を終えました。

明けて4歳になり、弥生賞(GⅢ)に出走します。このレースではそれまで重賞勝ちを含む4連勝中で岡部が乗っていたビゼンニシキに1番人気を譲ったもののレースは圧勝し、皐月賞に向かいます。

皐月賞ビゼンニシキとの一騎打ちの格好になりましたが、難なくかわし優勝。まずは1冠目。2頭とも単枠指定となっていました。

続くダービーも人気の上ではビゼンニシキとの一騎打ちでしたが、数字の上では単勝1.3倍の圧倒的1番人気でした。ここでも2頭が単枠指定されました。シンボリルドルフの強さに圧倒されて出走を断念する馬が続出し、ダービーとしては戦後最少頭数の21頭でした(この当時はフルゲート28頭)。レースはスズマッハが逃げ、直線でルドルフが前を行く馬たちを難なく交わし優勝、2着には20番人気のスズマッハが入りました。シンボリルドルフのレースは前年のミスターシービーのように追い込み一手ではなく、常に先頭集団にいて抜け出すという横綱相撲で見ていて安心できるレース運びです。言ってみれば優等生で、難なく勝っているというイメージです。

海外遠征の計画もありましたが、脚部に不安が出て断念し、夏場を休養し秋初戦にセンタライト記念(GⅢ)を選びレコードタイムで楽勝し、西下します。

菊花賞も当然1番人気です。当然単枠指定となりました。2番人気にニシノライデン、3番人気がフジノフウウンになりました。

レースは中団につけたシンボリルドルフが直線で先頭に立ちそのまま追い込んできたゴールドウェイを押さえて逃げ切りました。これで見事に史上初の無敗での3冠達成です。まさに強い馬です。

 

シンボリルドルフはこのあと中1週の強行軍でジャパンカップに出走します。前年の3冠馬ミスターシービーが出走してきます。シービーとルドルフの初対決です。

 

ミスターシービーは明け5歳になり春の天皇賞を目指しますが、蹄に不安が出て結局春は全休、秋を目指します。秋初戦の毎日王冠(GⅡ)を2着して天皇賞に進みます。この年から秋の天皇賞は2000メートルに変更になり、1度勝っても出走できるようになりました。圧倒的1番人気に押されたミスターシービーは例によって最後方から進み、徐々に進出し全馬をごぼう抜きしてのレコード勝ち。胸のすくような勝ち方でした。4冠目達成でした。

ここういうハラハラさせながらも、スカッとする様な勝ち方がこの馬の最大の魅力でした。シンボリルドルフとは対照的な競馬です。これは騎手の乗り方にもよるところが大きかったのではないかと思います。吉永正人は逃げるか、追い込むかと極端なレースが多かったのです。岡部は冷静に常に好位でレースを進める特徴がありました。

 

いよいよシービーとルドルフの対決です。ジャパンカップではシービーが1番人気、ルドルフは4歳馬ということもあり、ローテーションのきつさもあって4番人気でした。

2,3番人気は外国馬でした。レースは伏兵のカツラギエースが逃げそのまま逃げ切ってしまいました。カツラギエースは5歳でシービーと同期。それまで宝塚記念を含む重賞を5勝している馬で弱い馬ではありませんが、この強豪ぞろいでは伏兵の1頭にすぎませんでした。予想外の逃げにもノーマークでした。シンボリルドルフは3着、ミスターシービーはいいところなく10着に敗れました。

 

続く対決はその年の有馬記念です。1番人気はシンボリルドルフミスターシービーが2番人気、3番人気にジャパンカップを勝ったカツラギエースがなりました。3頭が史上初の3頭単枠指定になりました。

レースは前走のようにカツラギエースが逃げ、今度は逃がさないとばかりにシンボリルドルフがしっかりマークし、最後の直線で交わし優勝。ミスターシービーは追い込んできたものの前がふさがり、カツラギエースにも及ばずの3着に終わりました。シンボリルドルフも4冠目達成でした。

 

こうしてシービーとルドルフの闘いはルドルフの2勝でこの年を終えました。

翌年、ルドルフは日経賞(GⅡ)から始動し優勝。ミスターシービーはサンケイ大阪杯(GⅡ)から始動して2着。共に春の天皇賞に出走してきました。

シンボリルドルフが1番人気、ミスターシービーが2番人気。まさに一騎打ちムードでした。

レースはミスターシービーが後方から、3コーナーでまくり、菊花賞と同じように4コーナーで先頭に立ちますが、そこで力尽き直線であっさりとシンボリルドルフに抜かれ5着と沈みました。シンボリルドルフの5冠達成の瞬間です。

ミスターシービーはその後脚部不安で休養に入るも、骨膜炎を発症して復帰を断念、引退を決意しました。

 

一方、シンボリルドルフ天皇賞の後海外遠征の計画が持ち上がります。そして宝塚記念に出走を決めます。しかし、前日に脚部不安が出て、出走取消。海外遠征も断念します。

秋の天皇賞にぶっつけで臨みます。当然1番に押されレースもほぼ勝ったと思ったところに、ゴール寸前大外から伏兵のギャロップダイナに交わされ2着に敗れました。

 

その後、ルドルフはジャパンカップを1番人気で勝ち、続く有馬記念は2冠馬ミホシンザンに4馬身差の圧勝で連覇し史上初の7冠馬になりました。

 

6歳になって再び海外遠征の話が出て、実際にアメリカのサンタアニタ競馬場のGⅠレースに出走しましたが、故障を発症し6着に敗れ、帰国します。そして再び海外遠征の話がありましたが結局引退を決めました。

 

2頭の3冠馬の闘いはシンボリルドルフの完勝に終わりました。この2頭は野球でいうと、ちょうど「長嶋」と「王」のような関係で、「記憶に残る長嶋」と「記録に残る王」のようなイメージでした。ミスターシービーの破天荒でやんちゃ坊主のような競馬、シンボリルドルフ横綱相撲の優等生のような対称的な競馬。それぞれが特徴的で今でも鮮明に思い出します。

 

ミスターシービー15戦8勝、2着3回、3着1回 クラシック3冠、天皇賞(秋)

シンボリルドルフ 17戦13勝、2着1回、3着1回、取消1回、クラシック3冠

         天皇賞(春)ジャパンカップ有馬記念2回

 

ミスターシービー種牡馬として数頭の重賞ウィナー輩出。

シンボリルドルフ種牡馬としてトウカイテイオー(4冠馬)を出しています。

 

競馬はやっぱりドラマです。

 

それでは今日はこの辺で。