高田渡を初めて聴いたのは確か「自衛隊に入ろう」という曲でした。1960年代も後半、学生運動華やかなりし頃、高校生だった私は、高石友也、岡林信康、五つの赤い風船などの反戦歌、いわゆるプロテストソングをよく聴いていましたが、この高田渡の「自衛隊に入ろう」には正直驚かされました。こういう逆説的なプロテストの仕方があるんだな、と感心しました。
やがて70年安保闘争が挫折し、学生運動はセクト主義、過激化へと向かいます。
そんな中、高田渡の単独アルバムとしては2枚目の『ごあいさつ』が発売されました。
Side A
1.ごあいさつ
2.失業手当
3.年齢・歯車
4.鮪に鰯
5.結婚
6.アイスクリーム
7.自転車にのって
8.ブルース
9.おなじみの短い手紙
Side B
1.コーヒーブルース
2.値上げ
3.夕焼け
4.銭がなけりゃ
5.日曜日
6.しらみの旅
7.生活の柄
この頃になると、高田渡はほとんどプロテストソングは書いていません。もっぱら日常生活を描いた歌です。彼は日常生活を歌うことが最もプロテストだと思っていたようです。A-9の「おなじみの短い手紙」は『赤紙』を題材にした明らかに反戦歌ですが、直接的な言い回しはしていません。本人曰く「反権力という点で根っこは同じでも、主義主張を正面からぶつけるのではなく、遠回しに表現するタイプのものが多かった。あたりさわりのないことを歌いながら、皮肉や批判や揶揄などの香辛料をパラパラとふりかけるやり方が好きだったのだ。」(著書「バーボン・ストリート・ブルース」より)ということのようです。B-2の「値上げ」などはその典型です。
それと、この頃から作詞をあまりしなくなりました。このアルバムでも本人の純粋な作詞は4曲です。A-7、B-1、B-4、B-5です。
これも前述の著書によると「好きで現代詩をいろいろ読んでいた中で、日常の風景を語りながらも静かに問題提起をしているという詩におおく出会ったからだ。」そういう詩を読むたびに僕は思った。『そうなんだよ。力んでワーワー言えばいいというもんじゃないんだよ』と。」、そして「彼らが書いたものに比べると、僕の詩なんて及びもつかないと思った。だったら彼らの詩に曲をつけたほうがよっぽどいいだろうということで、現代詩を採用するようになったのだ。」ということらしいです。その詩人に、山之内貘、金子光晴、谷川俊太郎、永山則夫、草野心平、吉野弘、有馬敲、菅原克己、細田幸平、黒田三郎、三木卓、石原吉郎、木山捷平などの名を挙げています。このアルバムの中では、山之内貘の詩がA-4、A-5、B-7、有馬敲の詩がB-2、その二人の共作がA-2となっています。特に山之内貘への傾倒は凄く、後に「貘」というCDまで作ってしまいました。
自作の詩、「コーヒーブルース」は当時の高田渡の生活ぶりを思わせる名作です。
アルバムの参加メンバーは「はっぴいえんど」のメンバー、「五つの赤い風船」の中川イサト、「ジャックス」の木田高介、それに三バカトリオの加川良と岩井宏、あと遠藤賢司などです。ブルース、カントリー、フォーク満載です。
高田渡は岐阜県の生まれで、父親は詩人で共産党員。幼い頃母親を病気で亡くし、それを機会に東京へ移住。印刷所で文選工として働きながら、夜間高校へ。その頃から詩と音楽に興味を持ち自作の曲を作るようになります。ピート・シーガーやウディ・ガスリーに惹かれ、特にピート・シーガーにはあこがれたようです。当時のフォークシンガーではボブ・ディランではなくピート・シーガーというのは珍しいですが、アルバムを聴けばよくわかります。
そして1968年、関西の「第3回関西フォークキャンプ」に冷やかし半分で、小室等の「六文銭」や遠藤賢司、南正人らと出かけ、「自衛隊に入ろう」を歌ったところ、大うけで秦政明社長率いる高石事務所に声をかけられ、所属することになります。当時高石事務所が設立を画策していた会員制のレコード会社URC(アングラ・レコード・クラブ)というのがありましたが、その第1回の配布レコードに高田渡が選ばれたのです。「五つの赤い風船」とのカップリングでしたが、画期的でした。
URCには高石友也、フォーク・クルセダーズ、岡林信康、中川五郎、五つの赤い風船、ジャックス、遠藤賢司、高田渡、加川良、はっぴいえんど、三上寛、友部正人、斎藤哲夫などを擁する関西フォークの一大拠点に成長します。
1960年代末から1970年代初頭まで関西を拠点に、事務所のメンバーと共に全国の労音(勤労者音楽協議会)周りや、伝説の「全日本フォークジャンボリー」に1回目から3回目まで出演したりして、70年初頭に東京・吉祥寺に戻り「武蔵野タンポポ団」編成し、新たな音楽活動を始めます。
この頃には学生運動や反体制活動も下火になり、関西フォークの持ち味であるメッセージ性に対する要求も影を潜めるようになりました。同時にURCレコードも経営的に苦しくなり、1977年にその幕を閉じます。時代は吉田拓郎、井上陽水、泉谷しげる、かぐや姫へと流れていきました。そしてユーミンへと。フォークからニューミュージックでした。
著作「バーボン・ストリート・ブルース」
フォークジャンボリーの様子
年を取った高田渡
愛すべき高田渡はもういません。
それでは今日はこの辺で。