Flying Skynyrdのブログ

映画や音楽、本についての雑文

ライブハウスの殿堂 『フィルモア(Fillmore)』の歴史

1960年代後半からのロック・ミュージックの隆盛にフィルモア(Fillmore)』というライブハウスが大きく貢献したのは疑う余地のないところでしょう。

その『フィルモア』を開店したのはビル・グラハムという男でした。ビルは1931年、ドイツ生まれのユダヤ人でした。ドイツでナチスが台頭するとユダヤ人迫害から逃れるため、ビルが10歳の時に母親は単身でビルをアメリカに移住させました。

アメリカに渡ったビルは除隊後、サンフランシスコで前衛演劇集団マイム・トゥループの裏方の仕事を始めます。このマイム・トゥループは当時の若者の政治的意見や芸術感などを代弁して、後に西海岸から全米、全世界へと広がるフラワームーヴメントの発端となった劇団でした。

ビルはここで下働きから学び、あらゆる裏方の仕事を請負、プロモーターとしての手腕を磨きました。そしてマイム・トゥループの活動資金を稼ぐために当時若者の間で流行り出した音楽を聴かせるコンサートを開催する企画をし、その会場を探しました。そして1965年11月に「フィルモア・ボールルーム」というダンスホールでコンサートを開催しました。これが『フィルモア』の出発点となります。そしてこの会場をフィルモア・オーディトリアム』と名付けて、1968年7月までここが常設のライブハウスになりました。

1968年、ビルはニューヨークにも同じようなライブハウスを作る計画をし、実際にフィルモア・イーストと名付けてオープンしました。同時にサンフランシスコの『フィルモア・オーディトリアム』を移転してフィルモア・ウエスト』として新たにオープンしました。

両会場とも1968年から1971年までロックのみならずジャズのミュージシャンも数多く出演して大盛況を誇りました。ジェファーソン・エアプレイングレイトフル・デッドクイックシルバースティーヴ・ミラーカントリー・ジョー&ザ・フィッシュなどの西海岸のミュージシャンのみならずサンタナ、オールマン・ブラザースなども出演、さらにジャズ界からはマイルス・デイヴィスなども出演しています。またクリームハンブル・パイなどイギリスのミュージシャンも数多く呼びました。数え上げたらキリがないほどです。

ビルの巧みなのはその出演者の組み合わせの妙にありました。ロックとジャズミュージシャンの組合せなど、それまでは常識では考えられなかったことをやって、しかも成功させたのです。さらにサイケデリックなポスターとステージのライトショーも大変な人気を呼び、ヒッピームーヴメントの先駆けとなっていきました。

「ビル・グラハム フィルモア」の画像検索結果

 

しかし、やがてロックビジネスはもっと大きな会場で多くの観客を呼んでのコンサートにシフトしていくようになりました。ミュージシャンの方もそれに味をしめるようになっていきます。そうした流れのなかでビルはあっさりと両会場の閉鎖を決定してしまいます。こうして『フィルモア』はその歴史を閉じることになりました。1971年のことでした。凄く中身の濃い6年間でした。

ビル・グラハムは『モンタレー・ポップフェスティバル』ウッドストック・フェスティバル』などの巨大フェスティバルの開催には反対でしたが、その手腕を買われ関係者の強い依頼で裏方を務めました。モンタレーは成功でしたがウッドストックは表向きは散々騒がれ話題になりましたが、その裏では悲惨な状況が続いていたようです。

「モントレーポップフェスティバル 画像」の画像検索結果 「ウッドストックフェスティバル 画像」の画像検索結果

 

 

ビルはその後も巨大フェスティバルには反対でしたが、その杞憂が現実になったのがローリング・ストーンズのオルタモントでのフリー・ライブコンサートでした。これに当時の暴走族ヘルスエンジェルスが参加し、遂に死者が出ました。ヘルスエンジェルスが黒人青年を殺害したのです。その他にも死者が3人出ています。後に「オルタモントの悲劇」と呼ばれる出来事です。このコンサートの模様は翌年映画『ギミー・シェルター』で見られました。

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この事件の後、ビルはしばらく音楽業界から離れますが、やはりその魅力に誘われ再び戻ってきます。そして今度は巨大イベントのプロモートに積極的に取り組んでいきます。『SNACK BENEFIT CONCERT』ザ・バンド『ラスト・ワルツ』、さらに「ウィー・アー・ザ・ワールド」でおなじみのライブ・エイドのプロモートなど数多くのコンサートを手がけました。

「ラストワルツ 映画画像」の画像検索結果

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その間も薬物中毒になり、再起不能などと言われた時期もありましたが、不屈の精神で立ち直って再びプロモート活動を開始します。

ところが1991年10月25日に自身が乗ったヘリコプターの墜落事故で突然亡くなってしまいました。59歳でした。

たった一人、10歳で見知らぬ地へ来て、歴史に残る大きな仕事を成し遂げ、最後は非業の死を遂げるという波乱万丈の人生でした。そして『フィルモア』が果たした歴史的役割は計り知れないものがありました。

その年の11月3日にはサンフランシスコのゴールデン・ゲイト・パークで『ラフター、ラブ&ミュージック』という追悼コンサートが開催されました。親交のあった多くのミュージシャンが参加し、観客は約50万人が集まったとされています。多くの人が彼の死を悼みました。

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凄いメンバーが参加しています。

ニール・ヤングとジェリー・ガルシア。歌はボブ・ディランの「FOREVER YOUNG」


Grateful Dead w/ Neil Young - Forever Young - 11/03/91 - Golden Gate Park (OFFICIAL)

 

ジャーニー


Journey - Faithfully - 11/3/1991 - Golden Gate Park (Official)

 

ジョー・サトリアーニ


Joe Satriani - The Crush Of Love - 11/3/1991 - Golden Gate Park (Official)

 

CSNY


Crosby, Stills, Nash & Young - Ohio - 11/3/1991 - Golden Gate Park (Official)


Crosby, Stills, Nash & Young - Long Time Gone - 11/3/1991 - Golden Gate Park (Official)

 

ここまで書いてきて、なんなんですが、実はこういう事を書くつもりは全くなかったのです。ただ『フィルモア』でのライブレコーディングのアルバムを紹介しようと思っていただけなのですが、ビル・グラハムのことを書き始めたら止まらなくなってしまいました。

よって、アルバム紹介は次回に回します。大変失礼しました。

 

それでは今日はこの辺で。