Flying Skynyrdのブログ

映画や音楽、本についての雑文

映画『鏡の中にある如く』を観る

今日のキネ旬シアターは『鏡の中にある如く』でした。

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監督:イングマール・ベルイマン

主演:ハリエット・アンデルセン、グンナール・ビョルンストランド、マックス・フォン・シドー、ラーシュ・パッスコード

制作:1961年 スウェーデン 日本公開1964年

 

今年はイングマール・ベルイマンの生誕100年ということで、企画が組まれたようです。キネマ旬報シアターでもその一部を上映するようです。今日はその中の『鏡の中にある如く』です。

1961年のアカデミー賞外国映画賞受賞作品です。

 

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ベルイマン監督作品は学生時代に夢中になって観た時期がありましたが、意外と記憶に残っていません。ということでこの作品も、約45年ぶりの鑑賞になりました。

この映画はベルイマンの「神の沈黙3部作」の中の1本です。他の2本は『沈黙』『冬の光』です。3部作と言ってもストーリーは無関係です。

 

内容の方は、ある一家の別荘での出来事を描いた映画です。

作家である父親のダビッド、17歳の息子ミーヌス、その姉のカーリン、その夫で医師のマッティンの4人です。登場人物はこの4人だけです。

 

海水浴から上がった4人のうち、ダビッドとマッティンは海に網打ちに出かけます。そこでダビッドはマッティンからカーリンの病状が芳しくないことを聞かされます。この度は退院したが、彼女の精神分裂症は悲観的なものだということです。再発の可能性は十分にあるとのことでした。ダビッドは作家であることから、娘の症状には心痛めるものの、好奇心からその症状を日記につけて次の作品のヒントにしようとも思っていました。ここのところ筆も進まずにいました。

 

夜になってマッティンが寝てしまうとカーリンは起き出し、ある音に引き込まれ2階の空き部屋に入ります。壁に耳をつけると何か声が聞こえます。そして身悶えします。それから父親の部屋を訪ねます。父親はカーリンを自分のベッドに寝かせ、仕掛けた網を引き揚げるため部屋を出ます。カーリンは起き出し、机の中の日記を読んでしまいます。それを読んでカーリンは自分の症状を知り、また父親が自分の病気をネタに小説を書こうとしていることを知り完全に乱れてしまいます。

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翌朝、ダビッドとマッティンはボートで沖に出かけます。その留守中にカリンは弟のミーヌスの勉強を見たりしていましたが、ミーヌスを例の2階の空き部屋に連れていきます。そして「この部屋に神が現れる」と言いますがミーヌスは信じられない表情。再び海岸に行くとカーリンは突然嵐が来ると言って走り出します。ミーヌスが探し求めると、彼女は老朽船の中にいました。彼女を心配したミーヌスはカーリンを毛布で包んであげますが、カーリンはミーヌスを誘惑して抱いてしまいます。

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カーリンはその罪の意識でまたも乱れてしまいます。弟との出来事を父親に告白します。そして再び入院することにします。入院のの準備をしている時に、カーリンがいなくなってしまいます。ダビッドとマッティンが探すと2階のあの空き部屋でカーリンが誰かに話しかけています。そして「もうすぐあのお方が来る」と言い、マッティンに一緒に祈ってちょうだいと言います。マッティンは誰も来やしないと言います。

 

するとドアがひとりでに開き、カーリンの顔に笑みが浮かびます。が、次の瞬間、カーリンは恐怖におびえます。そして狂ったように暴れ出します。マッティンが鎮静剤を打ってようやく収まります。するとカーリンは「神が来たの」と言います。「蜘蛛の姿をした神だ。私の顔の中を通って壁の中に消えた」と言います。そしてヘリコプターが到着し、カーリンとマッティンは病院へと向かいます。

 

残されたミーヌスはダビッドに、「怖い、姉さんと抱き合った時に、現実が壊れた、絶望した、もう生きられない」と言います。ダビッドは「すがるものが有れば生きられる」と答えます。「何にすがるの?」とミーヌス。「私はこの世に愛が存在するという確信だ」とダビッド。「どんな愛?」「崇高な愛、卑俗な愛、バカげた愛、美しい愛,全てだよ」とダビッドは答えます。そして「愛が神なんだ」と言います。「もっと話して」とミーヌス。「空虚が満たされ、絶望が生に変わる」とダビッド。「それじゃみんなに愛されている姉さんは幸せだね」とミーヌス。「一時間後に食事にしよう」とダビッド。「パパが話をしてくれた」とミーヌス。ここで突然のエンディング。

 

この映画、45年前に観た時には何やら釈然としないものが有りました。それは「神」という問題です。このあたりはどうしても理解できないものが有ります。「神の存在」ということになってくると、どうしても外国の文学や映画に対し入り込めない壁みたいなものを感じてしまう部分があります。それは45年経った今でもあまり変わってはいません。

 

今回この映画を観て感じたことは、その「神」の問題はさておいて、面白いと思ったのはダビッドとミーヌスの父子関係です。ミーヌスは思春期です。ヌード写真などを隠れて見ています。父親に憧れて、自分も戯曲や詩を書いています。それらをほめてもらいたいのですが、父親は忙しく外国を飛び回り、ゆっくり話をする暇がありません。今回の休暇も父親はまたすぐに外国へ旅立つと言います。ミーヌスはがっかりします。母親はすでに亡くなっており、父親は再婚しましたが、その後妻を姉弟は嫌っています。

 

しかし、今回の事件では最後に父親と話が出来ました。父親も娘の病気に足りなかったものは自分の愛情ではなかったかと気がついたのではないでしょうか。何しろ娘は父親には何でも話せるのですが、父親はどこか客観的に見るところがあります。小説家という仕事がそうさせているのかもしれませんが、子供たちにとっては物足りないのだろうと思います。

 

そして今回のことで父親も自分の父親としての子供達への接し方に問題があったことに気がついたのではないでしょうか。そして自戒を込めた息子への言葉で息子が救われる。この親子関係の問題という視点で見ることによってこの映画も新しい面が見えてきたような気がしました。無論勝手な解釈です。ベルイマンは難解な監督としても知られていますが、勝手な解釈も許されるでしょう。


 

イングマール・ベルイマンと牧師である彼の父親との不仲は有名な話ですが、その父親との確執が「神」の問題や「父子」問題が映画に反映されるのだろうと思います。

 

 白黒映像の美しさと構図には息を飲むものがあります。


 

 

それでは今日はこの辺で。