Flying Skynyrdのブログ

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思い出のテレビ プロ野球 セ・リーグ編 600記事達成!

早いもので今日でこのブログも600記事になりました。326日連続で書いています。日課になってしまいました。良いのか悪いのかわかりませんが、日常に組み込まれています。丸2年を目標にもう少し頑張って、それからまた考えます。

 

記念の記事は思い出のテレビ『プロ野球』でいこうと思います。なにしろ私の子供の頃のスポーツ番組と言えば、相撲、プロレス、野球でした。ちょうど巨人の長嶋が人気絶頂の頃でした。当然私も長嶋ファンになりました。その頃は漫画雑誌、ベーゴマ、メンコ、ブロマイド、なんでも長嶋人気で賑わっていました。

というわけでその時代の思い出の選手たちを並べてみたいと思います。昭和30年代から40年代に限らせてもらいます。それでも相当な人数になってしまうような気がしますのでここは思い切って1球団3人に絞ります。これは難しい。まずはセ・リーグから行きましょう。

 

ちなみに私は長嶋が引退するまでは巨人ファンでした。それ以降はヤクルトファンです。ということで当時のファンだった巨人軍から行きます。

 

読売ジャイアンツ(巨人軍)

 

長嶋 茂雄

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もう何も言う必要もありません。昭和33年入団、昭和49年引退。生涯成績 打率 .305 安打2471 本塁打444本 打点1522点 首位打者6回 打点王5回 本塁打王2回 最多安打10回 MVP5回 監督として優勝5回 日本一2回

記録よりも記憶に残る偉大な選手でした。何よりもプロ野球の人気を一気に高めました。国民栄誉賞受賞。

 

柴田 勲

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法政二高のピッチャーで甲子園出場して優勝。昭和37年入団、昭和56年引退。ピッチャーとしては使い物にならず野手転向。スイッチヒッターとして成功。俊足を生かして盗塁王6回。2000本安打達成。赤い手袋が有名。セ・リーグでは柴田、パ・リーグでは南海の広瀬が俊足で争っていました。

 

堀内 恒夫

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1965年代1回目のドラフトで巨人に1位指名されました。甲府商業出身。初登板から13連勝で、新人の年に16勝。通算203勝。「悪太郎」と呼ばれ若い頃は生意気でした。快速球とカーブが決め球でした。ノーヒット・ノーラン達成。引退後は監督を務めますが、優勝できず。その後政界入り。

 

国鉄スワローズ(サンケイ・アトムズ~ヤクルト)

 

金田 正一

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私はどちらかというと巨人時代の方が覚えています。前人未到の400勝投手。私の田舎町にオープン戦で巨人対国鉄の試合がありその時金田を間近に見た記憶があります。剛速球ということですが、超スローカーブの印象が強いです。腕も達者ですが口も達者です。今も時々テレビで見かけます。ロッテの監督で日本一になりました。完全試合ノーヒット・ノーランの両方を達成。見てはいませんが、長嶋との初対決で4打席4三振は有名。それでも金田は「長嶋は凄い選手になる」と予言したそうです。通算勝利数と奪三振4490はおそらく破られないでしょう。またピンチヒッターに出されるくらいバッティングの大したものでした。

 

若松 勉

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入団時は1970年でヤクルト・アトムズ時代。生涯打率.319は歴代2位。首位打者2回。若松自身は北海高校卒業後社会人野球に進み、プロ野球にスカウトされますが、体が小さかったためプロでは通用しないと思い断っていました。当時のバッティングコーチの中西太に説得され入団。小柄ながらもよく打ちました。引退後は監督就任。日本一1回。

 

松岡 弘

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入団は1968年、サンケイ・アトムズ時代です。倉敷商業から社会人野球を経てプロ入り。高校の1年先輩には星野仙一がいました。夏の甲子園は岡山大会の準決勝で平松政次の岡山東に負けて出場できませんでした。プロ入り後は4年目ごろから頭角を現しました。通算勝利191勝、あと9勝で200勝達成でしたが、潔く引退。

若松と松岡がいたせいでヤクルトファンになったのかもしれません。

 

阪神タイガース

 

村山 実

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熱血漢、村山。長嶋の永遠のライバル。長嶋入団の翌年、関西大学から当時の大阪タイガースに入団。巨人も狙っていましたが、村山は契約金4分の1のタイガースに入団。入団後は初先発でいきなり完封勝利。長嶋との対決は天覧試合が有名です。見てはいませんが、村山は最後まで「あれはファール」と言っていました。1500、2000の記念奪三振もいずれも長嶋を狙って記録しました。1970年には監督兼選手で200勝達成、14勝をあげて防御率0点台、チームを2位に導きました。通算勝利222勝。長嶋の通算ホームラン数444本と因縁めいたものがありますね。通算防御率2.09はセリーグ記録。1998年61歳で死去。

 

江夏 豊

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1967年大阪学院大学高校からドラフト1位指名で入団。入団の年に12勝、翌年は25勝で奪三振が401という驚異的な成績を残しました。その後も目を見張る成績を残しましたが1973年の24勝を最後に成績は下降気味になりました。心臓疾患等体力面の不安があり、また吉田監督との不和もあり南海に放出されました。南海の野村克也監督との出会いで抑えに転向し成功しました。その後も多くの球団を渡り歩きました。通算206勝、193セーブ、防御率2.49、奪三振2987、という凄い成績を残しました。

 

ジーン・バッキー

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外人で初めて沢村賞を受賞した投手です。1962年に来日入団。入団の年は勝星なし。翌年8勝、その翌年に29勝9敗、防御率1.89という凄い成績を残しました。おそらくこの時の印象が強かったのだと思います。この年阪神は優勝、日本シリーズで南海の外人スタンカと投げ合いますが負けました。その後ノーヒット・ノーランも達成、二桁勝利を重ね阪神在籍7年間で通算100勝をあげました。当時とにかく凄い外人だという印象が強かった。

 

中日ドラゴンズ

 

権藤 博

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権藤、権藤、雨、権藤雨、雨、権藤、雨、権藤」と言われるくらい、昭和36年~37年の登板数は凄いものが有りました。昭和36年、社会人野球から中日に入団して、その年130試合で69試合登板、先発は44試合で35勝19敗、防御率1.70、当然ながら新人賞、沢村賞。翌年も61試合に登板、先発39試合、30勝17敗、防御率2.33で2年連続最多勝。当然ながら肩を痛め、翌年は10勝、次の年は6勝となり野手転向。さほどの成績を残せず、杉下監督の元、再びマウンドに上がるも肩の調子はひどく、引退を決意。僅か9年間の現役生活でした。その後多球団のコーチ、監督を歴任。1998年には横浜の監督として就任1年目でチームを38年ぶりの優勝に導きました。自分の経験から投手の方を大事にし投手分業制を確立したのも権藤でした。

 

江藤 慎一

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王貞治3冠王を2回も阻んだ男、江藤慎一。熊本商業から社会人野球を経て昭和34年入団。元は捕手でしたが、正捕手がいたため1塁手を希望。2年目頃から外野手としてバッティングで頭角を現してきました。昭和38年には本塁打25本、70打点でベストナインに選ばれました。そして昭和39年、40年と2年連続首位打者を獲得しました。この年は王がホームランと打点ではトップでしたが、江藤は何としても打率だけはと頑張り、戦後初の3冠王を阻みました。昭和44年、水原茂監督に反抗してロッテにトレードに出されます。ロッテでも首位打者を獲得し、初の両リーグ首位打者となりました。その後も大洋、太平洋、ロッテと移り昭和51年に引退。2057安打達成。とにかく気が荒く、しょっちゅう退場させられていたような記憶があります。

 

星野 仙一

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倉敷商業から明治大学を経て、昭和44年入団。入団の年は8勝、昭和48年には16勝、翌年15勝でリーグ優勝。この年から抑えも兼任で10セーブをあげます。現役時代から熱血漢で、特に王・長嶋には闘志むき出しで向かっていきました。特に長嶋には強かった。昭和57年に14年の現役生活を終えました。短い現役生活でした。その後はご承知の通り、中日、阪神楽天の監督を歴任。3度のリーグ優勝と1度の日本一を達成しました。70歳で亡くなった記憶はまだ新しいです。

 

 

大洋ホエールズ(横浜)

 

桑田 武

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昭和34年、中央大学から入団。入団1年目で本塁打31本で本塁打王と新人王を獲得。昭和36年には打点王を獲得し長嶋の3冠王を阻止しました。その後も大洋の中軸として活躍しますが昭和43年に極端な打撃不振に陥り、44年に巨人にトレードに出されるもヒット1本も打てず、戦力外通告、ヤクルト・アトムズへ。しかしここでも全く打てず、しかもオートレース八百長で逮捕され引退。喫茶店経営などをしたようですが、1991年54歳で死去。長嶋の3冠王を阻んだ男ということで印象に残っていました。

 

秋山 登

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山東高校から明治大学を経て、キャッチャーの土井淳と共に昭和31年入団。入団の年にいきなり25勝。その後も6度の20勝以上を記録し、大洋のエースとして君臨しました。しかし、チームの弱さもあって負けも多かったのです。通算193勝171敗。防御率2.60は立派です。秋山のアンダースローは南海の杉浦と並んで美しささえ感じました。

 

平松 政次

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カミソリシュートの異名を持つ平松政次。岡山東高校時代に春の選抜甲子園で39イニング無失点の記録を作って優勝しました。その後社会人野球を経て大洋ホエールズに入団。初年度は3勝と振るいませんでしたが、3年目からシュートを投げ始め頭角を現しました。4年目の昭和45年には25勝をあげ最多勝沢村賞を獲得しました。特に巨人キラーとして51勝をあげました。金田の65勝に次ぐものです。長嶋は平松や星野を苦手としていましたが、それは長嶋も全盛期を過ぎていたことも一つにはあると思います。通算201勝。当時の弱い大洋ホエールズの中で光っていました。但し優勝は経験できませんでした。

 

広島カープ広島東洋カープ

 

安仁屋 宗八

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沖縄出身の安仁屋は沖縄高校で沖縄県から初めて甲子園に出場しました。社会人野球を経て昭和39年広島カープに入団します。沖縄出身のプロ第1号でした。先発2戦目で初完投・初勝利。沖縄では大騒ぎだったそうです。この年は3勝でしたが、翌年からは先発の一角を担いました。昭和43年には23勝で防御率2.07で、広島カープ初めてのAクラス入りに貢献しました。なお、この年から球団名に「東洋」の名前が入りました。しかし、翌年は10勝、次の年も10勝、その後は一桁勝利と振るわず、昭和50年に阪神にトレードされました。巨人キラーとしても名を馳せました。

 

外木場 義郎

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完全試合男、外木場 義郎。2リーグ制以降ノーヒット・ノーランを3回(完全試合1試合)もやった男はこの人だけです。昭和40年、社会人野球から入団。入団の年の10月に2度目の先発で初勝利がいきなりノーヒット・ノーランでした。僅か1四球でした。しかしこの年は2勝。翌年は勝ち星なし。その翌年も2勝と振るいませんでした。しかし昭和43年に21勝、防御率1.94と好成績を上げ安仁屋と並んで広島カープの初のAクラス入りに貢献しました。この年に完全試合達成。昭和48年には3回目のノーヒット・ノーランを巨人相手に達成。3回のノーヒット・ノーランは沢村英治以来で、2リーグ制以降初めてのことでした。昭和50年には20勝を挙げチーム初優勝に貢献しました。翌年肩を故障して初の日本一を機に引退しました。豪速球が持ち味でした。

 

山本 浩二

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法政大学の3羽烏と呼ばれ、昭和43年ドラフトで広島カープに入団。開幕戦からスタメン登場。この年には4番を務めるなど中軸打者として活躍しました。しかし成績は特に目を見張るものはありませんでした。ようやく数字があがってきたのは昭和49年からでした。この年にそれまでの「山本浩司」を「山本浩二」に姓名判断に基づき替えました。その後の活躍は「ミスター赤ヘル」と呼ばれ衣笠と共に広島カープの全盛期を築きました。

 

 

以上、1球団3人の原則を守って書いてきましたが、やはり3人はきついですね。漏れてしまった選手が多数出てしまいました。

小・中学校の頃の贔屓チームだった巨人では名手広岡、熱投城之内、独特投法の堀本、8時半の男宮田、左の国松、坂崎、速球の藤田元司、V9の黒江、土井、高田。そしてもちろん世界の王貞治

国鉄では根来、武上四郎西鉄から来た豊田、徳武など。

阪神では吉田義男、大毎から来た山内、遠井、鎌田など。

中日では1番バッターの中、高木守道、マーシャルなど。

大洋では近藤和彦近藤昭仁島田源太郎など。

広島では古葉、衣笠、興津、大和田など。

この頃の関東のテレビ放送は巨人オンリーだったので、憶えている選手も巨人が多かったのも致し方ありません。

でも、これ以上だと字数が増えすぎてしまいますので止めておきましょう。

明日はパ・リーグです。

 

それでは今日はこの辺で。