1990年、オグリキャップの人気に沸く中央競馬界。この年の4歳クラシック戦線もそのオグリキャップ人気にあやかって、盛り上がりました。
その主役は前年の朝日杯3歳ステークスを制し、最優秀3歳牡馬に選ばれたアイネスフウジン。アンバーシャダイの産駒で長距離血統のメジロライアン。さらにハイセイコーの産駒のハクタイセイの3頭です。
アイネスフウジンは朝日杯の後共同通信杯を勝ち、弥生賞は不良馬場に泣き4着でしたが皐月賞に駒を進めてきました。
メジロライアンは弥生賞でアイネスフウジンを破り3連勝を飾り、皐月賞に名乗りを上げました。
ハクタイセイは5連勝できさらぎ賞を勝ち、間隔は開いたものの東上してきました。
人気の方はアイネスフウジンが1番人気、メジロライアンが2番人気、ハクタイセイが3番人気になりました。
レースの方はスタート後ホワイトストーンが内によれ、アイネスフウジンが逃げられず2番手追走となりました。ハクタイセイは中団、メジロライアンは後方待機。
3~4コーナー中間でアイネスフウジンが先頭に立ち、直線へ。後続馬を引き離しにかかりますが、坂を上がってハクタイセイが猛烈に追い込みクビの差でアイネスフウジンを交わし優勝しました。3着にはさらに後方から追い込んだメジロライアンが際どく入りました。上位人気馬3頭で決着しました。
続く日本ダービー東京優駿はメジロライアンが1番人気、ハクタイセイが2番人気、アイネスフウジンは3番人気になりました。これは距離適性が反映された人気だと思います。距離が延びればメジロライアンと戦前から言われていたのでその通りの人気になったのでしょう。アイネスフウジンは先行逃げ脚質が嫌われたのでしょう。東京の2400メートルを逃げ切るのは至難の業です。
レースは予想通りアイネスフウジンの逃げ、それもかなりのハイペースで逃げました。ハクタイセイが早め2番手で追走、メジロライアンは中団追走。アイネスフウジンは直線に入っても脚色は衰えず、逆にハクタイセイは力尽き後退します。そとからメジロライアンが懸命に追い込みますが届きません。結局アイネスフウジンが1馬身4分の1の差をつけて優勝。しかもレースレコードでのゴールインでした。この記録はキングカメハメハに破られるまで続きました。
レース後は20万人近い観衆の「中野コール」で埋め尽くされました。騎乗の中野栄治はそれまで騎乗機会も少なくあまり恵まれない騎手生活を送っていました。しかしアイネスフウジンに巡り合って日の目を見ることになりました。しかしアイネスフウジンの引退後は再び騎乗機会が減り、結局1995年に騎手を引退します。
この日の東京競馬場の入場者数は未だに破られていません。
私もこのレースは1点で仕留めており、連複770円は美味しい馬券でした。普段は穴馬券しか買わないのですが、「ダービーは固く、菊花賞は荒れる」のジンクス通りに勝ったのが正解でした。もっともアイネスフウジンは皐月賞の前からこの馬と心中するつもりでいましたから迷いはありませんでした。
レース後アイネスフウジンは脚部不安を発生し、結局そのまま引退となってしまいました。残念です。菊花賞での姿を見たかった。
菊花賞は直前の条件戦で3000メートルを2着した内田浩一のメジロマックイーンが勝ちました。2着にホワイトストーン、メジロライアンは3着。結局メジロライアンはクラシック3着、2着、3着という結果に終わりました。そしてこの後の有馬記念でも2着と勝ちきれない馬でしたが、翌年の宝塚記念を勝って面目を保ちました。
菊花賞を勝ったメジロマックイーンはその後も春の天皇賞を2度勝ち、宝塚記念も勝って長距離の超一流馬の仲間入りをしました。
アイネスフウジンがダービーを勝って、8年後に悲劇が起こります。1998年の2月に馬主の小林正明が首吊り自殺を図り死亡しました。彼は自動車部品を扱う会社を経営していましたが、資金繰りが付かず、関連企業の社長2人と共に自殺しました。丁度日本経済に陰りがさしてきた頃でした。遺書には「保険金は資金繰りの足しにしてください」とありました。
小林正明は1988年に馬主資格を取ったと言いますから、わずか2年でダービーオーナーになったわけです。これも凄いことですが、その後の悲劇は運命のいたずらとしか言いようがありません。
アイネスフウジンは脚部不安で無念の引退、中野栄治はアイネスフウジン引退後に騎乗機会に恵まれず自身も引退、馬主の小林正明は自死。この人馬たちの人生(馬生)には「人生いろいろなことがある」ということを思い知らされた気がします。
中野栄治は調教師として活躍中です。
それでは今日はこの辺で。