1960年代から70年代にかけて、シスコサウンドを牽引してきた『Sons Of Champlin』ですが、地元西海岸を除いては意外と知られていませんでした。
ただし、地元サンフランシスコではグレイトフル・デッドやジェファーソン・エアプレーン、クイックシルバー・メッセンジャー・サーヴィス、カントリー・ジョー&ザ・フィッシュらと並んで絶大なる人気を誇るバンドでした。
サンズ・オブ・チャンプリンはビル・チャンプリン(Bill Camplin,g,key,vo)がハイスクール時代の1960年代前半に、友人のテリー・ハガティ(Terry Hagetty,g)と結成したOpposite Sixというのが前身になります。
その後、バンド名をサンズ・オブ・チャンプリンに変えます。ただしこの時点では正式なメンバーの名前は判りません。というのはサードアルバムまでメンバーの名前は一切記載されなかったのです。もう一人ジェフリー・パーマー(Geoffrey Palmar.key)は当初からいたようです。
1965年には大学のキャンパスやクラブで演奏をしていたようです。そして1966年の7月にはフィルモア・ウェストに登場しています。ですからグレイトフル・デッドやジェファーソン・エアプレイン、クイックシルバー・メッセンジャー・サーヴィスなどとは同期ということになります。
彼らの名前が知られなかったのは、一つにはレコード・デビューの遅さというものが有ります。当時のサンフランシスコのバンドたちは商業主義を嫌い、レコードを出すのを渋っていました。グレイトフル・デッドとジェファーソン・エアプレインは異例でした。クイックシルバー・メッセンジャー・サーヴィスもデビューアルバムが発表されたのは1968年でした。サンズ・オブ・チャンプリンのレコード・デビューはそれよりも遅く、1969年でした。クイックシルバー、スティーヴ・ミラー・バンドと同じくキャピトルと契約しました。
そしてファーストアルバム『Loosen Up Naturally』がリリースされました。
デビューアルバムからいきなり2枚組でした。いかにも西海岸のバンドらしく、フリーな感じです。ホーンセクションもふんだんに入り、ブラスロックの先駆けだったように思います。ビル・チャンプリンの声もボズ・スキャッグスの声をさらに太くしたような、響きのある迫力を感じます。ソウルフルでファンキーなR&Bやサイケデリックな感じは当時の雰囲気を表しています。さらにはジャズの感覚も取り入れています。
先述したようにメンバーのクレジットはありません。このアルバムジャケットが猥雑だと非難され、レコードの売り上げもパットしませんでした。
その年にもう1枚のアルバムを発表します。『The Sons』です。
このアルバムから何故かバンド名が『The Sons』に変更されました。おそらくビル・チャンプリンの名前を外したかったのでしょう。それは本人がそう思ったのかメンバーがそう思ったのかは分かりませんが。後にバンドが分裂することになることを思うと、この頃から色々とあったのかもしれません。
このアルバムにもメンバーの名前はありません。裏ジャケットを見ると7人写っていますが、先の3人以外は不明です。
前作も長尺曲が多かったのですが、このアルバムも10分を超える曲が2曲もあり、当時のライブ感覚をレコードに取り込もうという意思が感じられます。
そして1971年に同じバンド名でサードアルバム『Follow Your Heart』がリリースされます。
このアルバムではホーンがなくなりました。ギター、キーボード中心のサウンドに変化しています。曲も全体的に短くなっています。
そして分裂は起こりました。ビル・チャンプリンがバンドを離れモビー・グレイプのジェリー・ミラーなどとリズム・デュークスなるバンドを組みますがすぐに別れ、今度は『ヨギ・フレム(Yogi Phlegm)』なるバンドを結成します。ただこれは実質サンズ・オブ・チャンプリンでした。
フィルモアの最後のコンサートにも参加しますが、ビル・グラハムがこの『ヨギ・フレム』という名前を嫌ったためサンズ・オブ・チャンプリンの名前でクレジットされました。
1972年には自主制作盤『Minus Seeds & Stems』を制作します。
そして1973年には前作の『Follow Your Heart』が割と評判がよく、ヨーロッパでも人気になり、これに目を付けたCBSコロムビアが契約話を持込、契約に至りました。
そして5枚目のアルバム『Welcome To The Dance』がリリースされます。
このアルバムで初めてメンバーが明らかになりました。
ビル・チャンプリン(Bill Champlin,vo,g,key,sax)
テリー・ハガティ(Terry Hagetty,g,vo)
ジェフリー・パーマー(Geoffrey Palmar.key,sax,tablas,vibes,b,vo)
ジェイムス・プレストン(James Preston.perc)
デヴィッド・シャーロック(David Schallock,b,vo)
セルフプロデュースです。
『ヨギ・フレム』のときにいたであろうドラムスのビル・ヴィットはいません。
洗練されたR&B、ダンスミュージック、後のAORに通じるような音楽がこのあたりから芽生えてきました。
1975年になると、今度は自主レーベル「Gold Mine」を立ち上げ、アルバム『The Sons Of Champlin』を制作し発売しました。これはプロデュースから、ミックス、レコード・プレス、パッケージング、販売まですべて自分たちでやり遂げるという画期的なものでした。
そしてこのレーベルは後にメジャーレーベルのアリオラ・アメリカの傘下に入る形で、このアルバムもメジャーから発売されることになりました。こうして日本でも初めてサンズ・オブ・チャンプリンのレコードが発売されることになりました。
邦題が『シスコ魂』だから笑っちゃいます。
フィル・ウッド(Phil Wood,brass,key,vo)
マーク・アイシャム(Mark Isham,brass, synthesizer, key)
マイケル・アンドリアス(Michael Andreas,woodwind)
が追加加入しました。
バンド名にも「ザ(The)」が付きました。理由は判りません。
そして翌1976年には『A Circle Filled With Love』をリリースします。
メンバーは前作で加入した3人が抜けて、代わりにスティーヴ・フレディアーニ(Steve Frediani,sax flute)が加わりました。
プロデュースはフリートウッド・マックやフォーリナー、ホワイトスネイクその他多くのプロデュースを手掛けるキース・オルセン(Keith Olsen)です。明らかにフリートウッド・マックやボズ・スキャッグス路線を狙ったものと思われます。ブルーアイドソウル、ファンク、そしてAORです。
そして1977年にラストアルバムとなる『Loving Is Why』がリリースされます。
このアルバムではデヴィッド・シャーロックが抜けます。
代わりに
ロブ・モイトザ(Rob Moitoza,b,harp,vo)
デヴィッド・ファレイ(David Farey,trumpet,flugelhorn)
が加わります。
プロデュースはクリストファー・ボンド(Christopher Bond)です。
完全にAORの域に達しましたが、ボズ・スキャッグスほどの成功はかないませんでした。
このアルバムも日本では発売されなかったと思います。最後まで日本では無視されたまま終わりました。
こうしてサンフランシスコを代表するバンドは消滅しました。私は映画『フィルモア最后のコンサート』で初めて彼らを知り、それからの付合いでしたが、シスコの他のバンドとは一風変わったソウルとジャズをミックスしたような音楽に惹かれました。あの時の興奮は今でも蘇ります。何といってもビル・チャンプリンのヴォーカルが渋くて好きでした。
ビル・チャンプリンはその後1981年にはあの『シカゴ(Chicago』に参加します。さらにソロアルバムも多く発表し、数々のヒット曲を飛ばし、グラミー賞も複数獲得しました。
サンズ・オブ・チャンプリンのほとんどの曲は彼が作詞・作曲しています。その類まれなる高い能力はその後も引き続き、皮肉なことにバンドを解散してから花開いたのです。
個人的にはやはり初期の頃のサンズ・オブ・チャンプリンが好きです。
現在70歳。まだまだやる気ですね。
The Sons of Champlin - For A While - 10/4/1975 - Winterland (Official)
The Sons of Champlin - Get High - 11/9/1974 - Winterland (Official)
Sons Of Champlin - For A While (1976)
それでは今日はこの辺で。