本当に久しぶりに『思い出のテレビ』をやってみたいと思います。第3弾になります。
私の小学生時代は、スポーツ番組といえば野球、相撲、そしてプロレスです。今日はそのプロレスについて憶えていることを書いてみたいと思います。
3つのスポーツ番組は家族はもちろん近所中で観ていました。特にプロレス中継は、我が家にまだテレビが入っていない頃から、番組が始まると隣の人が呼びに来て父親共々お邪魔していたくらいでした。小学校の1年生の頃だったと記憶しています。
大学生になって東京へ上京してからは部屋にテレビなど買えなかったので、自然とプロレスからも遠ざかりましたが、それまでは夢中で観ていました。
その頃の内外のレスラーを思い出してみたいと思います。往年のレスラーばかりですので悪しからずお願いします。
ちなみに今のプロレスは全く分かりません。
それでは、いきましょう。
まずはなんといってもこの人をおいてプロレスは語れません。さすがにシャープ兄弟との戦いや、伝説の柔道王・木村政彦との決戦などは生では観ていませんが、1963年にヤクザに刺されたことが原因で亡くなるまで、プロレスは力道山中心に回っていました。私も大の力道山ファンで、テレビを見ながらいつもハラハラドキドキしていました。晩年はいつも劣勢で最後に伝家の宝刀空手チョップで逆転勝ちするというパターンが定着しましたが、それでもハラハラドキドキでした。子供ながらに力道山が負けた日などは悔しくて夜も眠れませんでした。フレッド・ブラッシーやザ・デストロイヤーとの戦いは今でも思い出されます。
しばらく前には力道山の物語に嵌って何冊も読んでしまいました。なぜ関脇までいって相撲を辞めたのか、など子供の頃には知らなかった力道山の知られざる一面を読んで面白くて止められませんでした。また、プロレス業界やテレビ業界、政治の世界さらには戦後の世相まで多くの事が書かれており興味深く読めました。
力道山の死後はプロレス界も生き残りを賭け分裂の時代に入っていきます。
力道山と同じく角界からの転身。最高位は前頭15枚目ですから力道山の関脇とは格が違います。
力道山の生存中は脇役に徹していましたが、力道山の死後は日本プロレスの社長にも就任し、WWA世界ヘビー級王座にもつきました。しかし、数々の横領が発覚し、またジャイアント馬場が頭角を現すと、社長を辞任、日本プロレスを退社します。
そして日本プロレスのアントニオ猪木を誘って東京プロレスを旗揚げします。しかし、経営基盤が弱体で3カ月で消滅します。
その後吉原功の国際プロレスに加入します。ここでサンダー杉山やストロング小林と活躍します。その後引退。1998年、67歳で死去。
得意技は怪力を利用した逆エビ固め。技ではありませんが、腕を交差してカポーン、カポーンと鳴らすのが得意で、外人がそれを嫌がるのが面白かったです。
1957年に力道山にスカウトされ日本プロレスに入団します。学生時代は近畿大学の相撲部で学生横綱でした。
私が記憶している吉村道明は技巧派レスラーで、いつも悪役外人の攻撃を一手に引き受け、顔はいつも流血で真っ赤。しかし最後には逆転の回転エビ固めで勝利するのです。
力道山の死後は豊登、遠藤幸吉、芳の里などと共に日本プロレスを支えますが、豊登の横領などで経営は悪化、看板スターになったジャイアント馬場とアントニオ猪木が相次いで脱退し、日本プロレスも立ち行かなくなりました。これで吉村道明も引退を決意します。引退後は近畿大学の相撲部の顧問として指導に当たりました。2003年没、76歳。
得意技は回転エビ固め、ドロップキック(当時は飛び蹴りと呼んでいました)。あだ名は「闘将」。
この人に関してはあまり記憶がありません。弱かったな、というイメージが残っています。
しかし、略歴を見ると、柔道出身でコウ東郷と名乗り、大山倍達(マス東郷)、グレート東郷と東郷3兄弟として、アメリカ遠征で活躍。その後日本プロレスに参加し、力道山とのタッグで太平洋タッグ王座を獲得しています。これらは1950年代の話で、私はさすがに知りません。憶えているのは晩年の弱い遠藤幸吉でした。引退後は日本プロレスの経営に携わります。
得意技はドロップキックだったと思います。
この人も角界からの転身組。最高位は前頭12枚目。
彼についても弱かったイメージしかありません。下駄を履いてリングに登場し、カッコは強そうなのですが、すぐにやられます。最後は下駄で相手を殴り、ダウンしたところで抑え込み勝利というパターンでした。
力道山の死後は豊登に続き3代目の日本プロレスの社長に就任。倒産。1999年、70歳で死去。
得意技は下駄叩き
大木金太郎(キム・イル)
ジャイアント馬場、アントニオ猪木より一歩先に日本プロレスに入門しました。1959年です。力道山に憧れ密入国し逮捕されるも、力道山が自民党副総裁の大野伴睦に依頼し釈放され、日本プロレスに入門します。
力道山の死後は韓国に帰国し韓国プロレスで活躍します。しかし、豊登が東京プロレスを旗揚げし、アントニオ猪木がそれに追随したため、日本プロレスはその穴埋めに大木金太郎を呼び戻しました。しかし、すぐにアントニオ猪木は日本プロレスに復帰したために大木金太郎は馬場と猪木に次いでの第3の男になってしまいました。
日本プロレス消滅後は各団体に参戦し、猪木や馬場ともシングルで戦ったりして人気を博しました。2006年、77歳で死去。
得意技は頭突き。ボボ・ブラジルとの頭突き合戦は有名です。
野球界からの転身。読売巨人軍のピッチャーでした。怪我で野球を断念。2メートル9センチの長身。1965年には第3代のインターナショナル・ヘビー級王座に就きました。あの体でドロップキックは驚きました。猪木とのタッグは最強でした。
日本プロレス消滅後は全日本プロレスを立ち上げます。その後のジャイアント馬場についてはあまりにも有名なので割愛します。1999年、61歳で死去。
得意技、16文キック、32文ロケット砲、ココナッツクラッシュ、股裂き、脳天唐竹割りなど多数。
巨人軍で投げている姿を見て見たかったですね。
1960年、ブラジル興行中の力道山にスカウトされ日本プロレスに入門。当初は本名の猪木寛至として出場していましたが、「ブラジル帰りの日系ブラジル人」として売り出そうとのことでリングネームをアントニオ・猪木としました。
当時の漫画雑誌『少年サンデー』や『少年マガジン』にはプロレスの記事がたくさん載っておりそういった情報は逐次入って来たのです。
その後のジャイアント馬場との活躍や新日本プロレスの立ち上げ、異種格闘技など大活躍です。国会議員にまでなってしまいました。モハメド・アリとの決戦は手に汗握りましたが、肩透かしでした。
コブラツイストや卍固めは学校でも友達などとやってみたりしましたが、そんなに痛いものでもなかったので、あれでギブアップが取れるのかと不思議でした。
その後の坂口征二やジャンボ鶴田、天龍源一郎などは比較的最近まで活躍していたので割愛します。
その他、上田馬之助、ラッシャー木村、ストロング小林、グレート小鹿、大熊元司、山本小鉄、などが続々と思い出されますがきりが無いのでこの辺にしておきます。
変わったところではミスター珍、グレート東郷などユニークなレスラーがいました。
レフリーではいつもシャツをびりびりに破かれる沖識名とユセフ・トルコでした。
また、たまに小人プロレスという番組を放送していました。小人たちのプロレスですがこれが実に面白かったことを憶えています。その後人権問題などが発生して、今ではどうなっているのか分かりません。
次は外国人レスラーにスポットを当ててみます。
それでは今日はこの辺で。