生前よりも死後に圧倒的に評価が高まったシンガー・ソングライター、ニック・ドレイク(Nick Drake)です。僅か26歳でこの世を去りました。うつ病に悩まされての抗うつ剤の過剰摂取ですが、自殺と判断されました。
ニック・ドレイクは1948年、当時のビルマ生まれのイギリス人です。小さい頃からピアノを習い、高校生の頃は短距離選手でした。やがて音楽に興味を持ち友人たちとバンドを組んだりしていました。ボブ・ディラン、ドノヴァン、ヴァン・モリソンなどに影響を受けるようになりました。ケンブリッジ大学在学中にロンドン郊外のクラブハウスなどで演奏しているところをフェアポート・コンヴェンションのアシュレイ・ハッチングスに見いだされアイランド・レコードと契約しました。
アイランド・レコードのプロデューサー、ジョー・ボイド(Joe Boyd)は早速レコーディングに取り掛かりました。そして1969年、ファーストアルバム『Five Leaves Left』がリリースされました。
フェアポート・コンヴェンションのギタリスト、リチャード・トンプソン(Richard Thompson,g)とペンタングルのダニー・トンプソン(Danny Thompson,b)が参加しました。フォーク時代のボブ・ディランやドノヴァンに似た雰囲気を持ったアルバムですが、それらよりももっと暗いイメージが漂います。この頃から、うつ病に悩み薬物に手を出していたようです。アルバムはたいした話題にもなりませんでした。
翌年にセカンドアルバム『Bryter Layter』をリリースします。
このアルバムもジョー・ボイドによってプロデュースされました。フェアポート・コンヴェンションのデイヴ・マタックス(Dave Mattacks,ds)、デイヴ・ペグ(Dave Pegg,b)、リチャード・トンプソン(Richard Thompson,g)が参加しました。さらにヴェルヴェット・アンダーグラウンドのジョン・ケイル(John Cale,organ,p)も参加しています。
このアルバムでは前作と打って変わって、ジャズフィーリングを取り入れた、明るめのポップなアルバムになっています。
しかし、期待された売り上げも伸びませんでした。ニックのうつ病はますますひどくなり、入院を勧められました。これは断りましたが、抗うつ剤を処方されました。この頃は大麻の量も相当なものになり、抗うつ剤との副作用が心配で服用しませんでした。ライヴ活動も拒否するようになり、病状は悪化の一途をたどりました。
そんな中でも、ようやくサードアルバムの制作に取り掛かりました。1972年にアルバム『Pink Moon』がリリースされました。
このアルバムはニック・ドレイクがピアノ、アコースティック・ギター、ヴォーカルをすべて一人でこなしました。プロデュースはジョー・ボイドです。
11曲収録ですが、僅か28分です。この頃には会話も成り立たないような状況でした。うつ病の症状は最悪でした。アルバムは暗いの一言です。飾りは何もありません。ただニックのヴォーカルとギターとピアノが短い曲を奏でるだけです。後から考えれば死を目前にした叫びのように聞こえます。
この後、数曲をレコーディングしますが、それらはしばらくの間公表されませんでした。ようやく1986年に『Time Of No Reply』として発表されました。
14曲入りのレアトラック集です。
1974年11月25日、自宅で亡くなっているのが母親によって発見されました。自殺との判断がなされましたが、遺書があったわけではなく真相はわかりません。抗うつ剤の過剰摂取が原因ということでした。
1980年代になると様々なミュージシャンがニック・ドレイクを話題にするようになり、彼の評価が見直されるようになりました。
私がニック・ドレイクを初めて聴いたのも彼の死後です。CD時代になって1986年に彼のアルバムがボックスセットで売り出されました。飛びつきました。『Fruit Tree』です。
僅か3枚の正規アルバムを残しただけで、しかも生前はほとんど認知されること無くこの世を去ったニック・ドレイク。80年代以降のブレイクぶりを天国からどのように眺めているのでしょうか。
それでは今日はこの辺で。