今日の聴き比べは『戦争は知らない』です。
この曲の作詞者はあの寺山修司です。幼い頃、戦争で父親を亡くした経験を詩にした、寺山の最初の作品です。作曲はグループサウンズのリンド&リンダースの加藤ヒロシです。リンド&リンダースはそこそこ売れたバンドでした。この曲を最初に歌ったのは坂本スミ子でした。しかしこれはさっぱり売れませんでした。
この曲を「帰って来たヨッパライ」が大ヒットしたザ・フォーク・クルセダーズが歌いました。ザ・フォーククルセダーズ(以下、フォークル)はご存じの通り、1967年に「帰って来たヨッパライ」でレコードデビューした3人組(加藤和彦、北山修、はしだのりひこ)です。レコードデビュー前は5人組で加藤と北山がオリジナルメンバーでした。レコードデビューする際に加藤は反対したのですが北山が説得し1年だけという約束でデビューしました。その時にはしだのりひこが加わって3人組になりました。
デビューアルバムは自主制作盤の『ハレンチ』でした。そして「帰って来たヨッパライ」が爆発的なヒットとなり、東芝と契約し正式アルバム『紀元弐阡年』をリリースしました。
そして1年後、約束通り、解散しました。
この「戦争は知らない」は「帰って来たヨッパライ」のヒットを受けて出された「さすらいのヨッパライ」のB面に収録されました。
戦争は知らない
作詞:寺山修司
作曲:加藤ヒロシ
野に咲く花の名前は知らない
だけども野に咲く花が好き
ぼうしにいっぱいつみゆけば
なぜか涙が 涙が出るの
戦争の日を何も知らない
だけど私に父はいない
父を想えば あヽ荒野に
赤い夕陽が夕陽が沈む
いくさで死んだ悲しい父さん
私はあなたの娘です
二十年後のこの故郷で
明日お嫁にお嫁に行くの
見ていて下さいはるかな父さん
いわし雲とぶ空の下
いくさ知らずに二十才になって
嫁いで母に母になるの
ザ・フォーク・クルセダーズ 『戦争は知らない』 (LIVE音源) 1968年
当時はコミックソングを歌うグループのように世間では思われていた彼らですが、関西ではアングラ・フォークが流行り出し、フォークルはその先駆者的存在でした。この後関西フォークは全盛期を迎えます。
この「戦争は知らない」以外にも「何のために」や発売中止になった「イムジン河」など反戦歌も歌っていました。
またザ・ズートルビーの名で「水虫の唄」をヒットさせました。
解散後は北山と加藤はデュエットでの「あの素晴らしい愛をもう一度」で大ヒットを飛ばしました。
その後北山先生は精神科医になり、加藤先生はサディスティック・ミカ・バンドを結成、ロックに転向しました。その後も音楽界の第一線で活躍しました。しかし、残念ながら2009年に62歳で亡くなりました。まさに天才という言葉がふさわしいミュージシャンでした。
一方、はしだのりひこ先生は杉田二郎と「シューベルツ」を結成。「風」が大ヒットします。その後も「クライマックス」で「花嫁」、そして「エンドレス」結成。その後はソロ活動と妻の看病のため主夫専念。そして2017年にパーキンソン病で亡くなりました。72歳でした。
フォークルも北山修先生だけになりました。時折テレビで見かけます。元気なようです。
そして、この曲を寺山修司の劇団『天井桟敷』に入団していたカルメン・マキが彼女のファーストアルバムでカバーしました。カルメン・マキは同じく寺山修司の作詞した『時には母のない子のように』でデビューしていました。この曲がヒットしてアルバム『真夜中詩集 - ろうそくの消えるまで - 』もリリースすることになりました。
オリジナル音源ではありませんが。
反戦歌が世に受け入れられていた時代です。
それでは今日はこの辺で。