Flying Skynyrdのブログ

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聴き比べ カップスとブルージーンズ『長い髪の少女』

今日の「聴き比べ」は『長い髪の少女』です。

この曲はザ・ゴールデン・カップスの最大のヒット曲です。グループサウンズ全盛時代の1967年『いとしのジザベル』でレコードデビューします。

当時のメンバーにはデイブ・平尾、マモル・マヌー、エディ・潘、ミッキー吉野、ケネス伊東、ルイズルイス加部など今思うと豪華メンバーが顔を揃えていました。後には柳ジョージアイ高野も加わります。

ゴールデン・カップスはいわゆる歌謡曲志向のグループサウンズとは違って、テレビ以外では海外のロック・バンドのカバーを演奏していました。

今ではデイブ平尾もケネス伊東もアイ高野柳ジョージも亡くなりました。

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長い髪の少女

作詞:橋本 淳

作曲:鈴木邦彦

 

長い髪の少女 孤独な瞳

後ろ姿悲し 恋の終わり

どうぞ僕だけに 心を打ち明けて

どうぞ聞かせてね 愛の物語

 

雨によごれた町で 貴方は一人

亡くした恋なのに 影をさがす

きっとあの人は 忘れたいのさ

甘い口づけと やさしい言葉

 

長い髪の少女 涙にぬれた

たそがれの中で 誰をさがす

つらい恋だから 貴方は祈る

つらい恋だから 愛の物語

 


ザ・ゴールデン・カップスThe Golden Cups/長い髪の少女 Nagaikami No Shojo (1968年) 視聴No.6

 

この曲をカバーしている人はいないだろうと思っていたら、いました。エレキの神様、寺内タケシとブルージーンズです。

寺内タケシ先生がいなかったら日本ではあれほどのエレキブームは来なかったのではないかと思わせるくらいのエレキ・ブームの立役者でした。彼がブルージーンズを結成したのは1962年といいますから、グループサウンズ・ブームのずっと前のことです。寺内先生はミッキー・カーチスやジミー時田のハワイアンバンドに所属していました。ジミー時田は寺内に新しいロカビリーバンドを作らせました。それがブルージーンズの始まりでした。初期の頃はワイルドワンズ加瀬邦彦も所属していました。

1964年にはベンチャーズとアストロノウズを前座にしてコンサートを開催、エレキブームの到来を果たしました。寺内はアメリカの音楽雑誌でレス・ポールチェット・アトキンスと並んで世界の「三大ギタリスト」とに選出され、エド・サリバンショー」にも招待されました。しかし、多忙のため出演は果たせませんでした。

1965年には加山雄三「エレキの若大将」蕎麦屋の出前持ちで若大将にエレキを教わる役で出演しました。

1966年のビートルズ来日の際にはブルージーンズが前座を務めましたが、寺内は過労で倒れ演奏は出来ませんでした。

 

療養後はブルージーンズを脱退し。バニーズを結成。「愛のリメンバー」「太陽野郎」などのヒット曲を出しました。

その後再びブルージーンズを結成し、「運命」などのクラシックや「津軽じょんがら節」など民謡にも挑戦しました。

とにかく凄い人でした。今でも活躍しているはずです。

 

前置きが長くなりました。その寺内タケシとブルージーンズが「長い髪の少女」をカバーしていたのです。知りませんでした。1977年とあります。


『長い髪の少女』 寺内タケシとブルージーンズ

 

バニーズの「愛のリメンバー」と「太陽野郎」。黒沢年男の弟、黒沢博も在籍していました。ヒロシ&キーボーの「三年目の浮気」がヒットしました。


寺内タケシとバニーズThe Bunnys/愛のリメンバーAi No Remember (1967年)


寺内タケシとバニーズTakeshi Terauchi & The Bunnys/太陽野郎Taiyou Yarou (1967年)

 

それでは今日はこの辺で。