先日、雑誌か新聞か忘れましたが、カルメン・マキについての書かれているのを読みました。懐かしさが込み上げました。
彼女の姿をテレビで初めて観た時は衝撃的でした。1969年だったと思います。長い髪にジーンズ、そして何といっても裸足の姿です。そして歌うは「時には母のない子のように」。その何とも言えぬ、物悲しいメロディーと詩、そして寂しげな声。あっという間に引き込まれました。
その後も「山羊にひかれて」「戦争は知らない」などのヒット曲を飛ばしました。この年には紅白歌合戦にまで出場しました。
カルメン・マキは1951年、アメリカ人の父親と日本人の母親の間に生まれました。1968年、たまたま、寺山修司の劇団『天井桟敷』の演劇を観て感動し、高校を中退し、すぐに入団します。初舞台は同年「書を捨てよ町に出よう」でした。
初めてテレビで観た時はまだ17歳ぐらいだったのでしょう。しかし、とても大人っぽく見えたし、エキゾチックな感じがして、それまでの歌番組の中では異色でした。楽曲は田中未知と寺山修司のコンビです。このころまではどちらかというとフォーク路線でした。
しかし、1970年、彼女はロックへの転向を宣言します。きっかけはジャニス・ジョプリンでした。たまたまもらったレコードを聴いて衝撃を受けたのでした。
当時はまだ『ブルース・クリエイション』と名乗っていた、竹田和夫のクリエイションとコラボアルバム『カルメン・マキ&ブルース・クリエイション』をリリースし、女性ロックシンガーへと変身します。
そして1972年に自身のバンド、『カルメン・マキ&OZ』を結成します。しかしなかなか売れませんでした。
それでも、ようやく1975年にファーストアルバム『カルメン・マキ&OZ』を発表します。
これがヒットします。なかでも組曲風な「私は風」が注目されました。
まだまだ日本語のロックが十分根付いているとは言えない時代でしたから、このアルバムのヒットは日本のロックにとって大きな一歩でした。
1976年にはアメリカにてセカンドアルバム『閉ざされた町』を録音しました。
より、ハードにそしてメロディアスになったセカンドです。「火の鳥」や「閉ざされた町」などの長尺曲が含まれます。
そして翌年、1977年に解散します。ラストアルバムは『Ⅲ』でした。
前2作と比べるとポップになった感じがします。
この後、このアルバムがリリースされる前に行われた解散コンサートの模様がレコード化されました。
その後は再びソロになってアルバムをリリース。これはプロデュースをあのカーマイン・アピスに依頼し、ロサンゼルスで録音しました。
その後は再び自身のバンド『カルメン・マキ&LAFF』を結成。しかしこれ以降パッとせず、次第に名前が聞かれなくなりました。
そして次に名前を耳にしたのは薬物事件でした。それによって活動停止に追い込まれました。
『週刊プレーボーイ』にヌード写真が出て久しぶりに少し話題になりました。それも遠い昔のことです。
何年か前にNHK-BSで久しぶりに歌う姿を観ました。昔の歌を歌っていました。やはり心に沁みます。懐かしさが時代風景と共にこみ上げます。
「時には母のない子のように」
作詞:寺山修司
作曲:田中未知
時には母のない子のように
だまって海をみつめていたい
時には母のない子のように
ひとりで旅に出てみたい
だけど心はすぐかわる
母のない子になったなら
だれにも愛を話せない
時には母のない子のように
長い手紙を書いてみたい
時には母のない子のように
大きな声で叫んでみたい
だけど心はすぐかわる
母のない子になったなら
だれにも愛を話せない
それでは今日はこの辺で。