Flying Skynyrdのブログ

映画や音楽、本についての雑文

この人の、この1枚  『五つの赤い風船/フォークアルバム第1集』

高校生の頃、当時流行っていた政治集会なるものに参加すると、必ず歌われた歌があります。今でも憶えているのは「We Shall Overcome」、「友よ」、そして「遠い世界に」でした。その「遠い世界に」を歌っていたのが、西岡たかし率いる「五つの赤い風船」(以下、「風船」)です。

「風船」の結成は1967年ですから、関西フォークの奔りです。

結成時のメンバーは

西岡たかし

藤原秀子

中川イサト

有山じゅんじ

喜田年亮

でした。

有山じゅんじはすぐに脱退します。その後に長野隆が加入します。その後中川イサトが脱退し、東祥高が加入します。

そして1972年に解散します。その後再結成したりすていますが、実質は1972年で終わったとみるべきでしょう。

 

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五つの赤い風船フォークアルバム第1集』

Side A

1.恋は風に乗って

2.遠い空の彼方から

3.血まみれの鳩

4.もしも僕の背中に羽根が生えてたら

5.一つの言葉

6.遠い世界に

 

Side B

1.まぼろしのつばさと共に

2.時計

3.母の生まれた街

4.一滴の水

5.おとぎ話を聞きたいの

 

B-4を除き全曲西岡たかしの曲です。B-4は中川イサトの曲です。

「風船」の中では「遠い世界に」ももちろん好きですが、なんといっても「まぼろしのつばさと共に」が一番のお気に入りです。高校生時代に聴いたので、こんな歌詞が歌になるんだ、と純粋に感心しました。まだまだ純真でしたから(ほんとか)。

 「風船」にはいわゆるフォークソングも多いのですが、私はこのようなプロテストソングを好んで聴いて、そして歌っていました。

この「まぼろしのつばさと共に」は学生だった青年が徴兵で戦争に連れていかれる朝に、青年は恋人に別れを告げ戦地へ向かいます。そして戦火にまみれ命を落とします。彼が死んだ翌日に、その恋人は命を絶ちます。作者はこのような世界は二度と見たくないと訴えます。

徴兵制など二度とあるはずが無いと言っていた戦後の政治家たちの言動もここにきて怪しくなってきたのではないでしょうか。この歌のようなことが二度と起こらないことを願うのみです。

 

このアルバムをどのようにして入手したのか記憶がありません。少ない小遣いを叩いて買ったのか、それとも誰かに借りたものがそのままになってしまったか。それでも相当古いものであることは確かでしょう。調べてもこのアルバム自体の存在が確認出来ません。「風船」はURCに所属していましたから、URC設立以降はレコードはURCから出ています。現に「風船」のURCからのデビュー盤は高田渡とのカップリングでした。

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レコードは発売が日本ビクターとなっています。ということはビクター音楽産業の前身ということで、1972年以前のレコードということになります。つまりURC所属前のレコードということになり1969年以前という事でしょうか。どうでもいいことですが、この時代の契約関係というのがどのようになっていたのか興味深いです。

ジャケットの背景は新宿西口でしょう。何故、新宿西口なのか。西口フォークゲリラを意識してか。

中ジャケットと歌詞カードがまた古めかしくて、郷愁を誘います。

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「風船」は1972年、2回にわたる解散コンサートの3枚組ライブアルバム『ゲームは終わり』を発表して解散します。

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このアルバムには岡林信康山本コータロー加藤和彦などのゲストの音源が入っています。実際はもっとたくさんのアーティストが参加していたのですが。

この前年、1971年には岡林信康が日比谷野音のコンサートと全日本フォークジャンボリーへの出演を最後に田舎に引っ込み、高石友也はすでに田舎での隠遁生活、そして「風船」の解散。関西フォーク、プロテストソングの旗手としてフォーク界を牽引してきたリーダーたちが次々と社会情勢の変化と共にその現場をリタイヤすることで、一つの時代の終焉が来たことを痛切に感じさせられました。本人たちは、社会変革の旗手として祭り上げられることに疲弊してしまったのでしょう。

 

Amazonで調べたら、最近この『ゲームは終わり』の完全盤がCDで発売されています。

風船ゲームは終わり(解散記念実況盤)[完全版]』です。

なんとCD6枚組です。とても高くて買えません。

 

「遠い世界に」オリジナル音源がありません。当時をしのばせる実況録音で。


遠い世界に_五つの赤い風船(Liveバージョン1969年)

 

オリジナルバージョンの映像がありません。


まぼろしの翼と共に 五つの赤い風船

 

岡林バージョン


岡林信康 まぼろしのつばさと共に

3日続けてフォークアルバムになってしまいました。次々と思い浮かんできてしまいます。明日はどうなることやら。

 

それでは今日はこの辺で。

この人の、この1枚 『高石友也フォークアルバム第2集/高石友也』

フォーク・クルセダーズの「帰ってきたヨッパライ」と高石友也の「受験生のブルース」を聴いた時の衝撃は忘れられません。高石は立教大学の学生でした。

まだ中学生だったと思いますが、深夜放送で聴いた時は、翌朝学校で評判になっていました。その後次々と当時アングラソングと呼ばれるものが流行り出しました。「ケメ子の唄」とか「わたしがケメ子よ」なんて言う歌も流行りました。

その後、高石友也が歌った「坊や大きくならないで」がヒットしました。最初何のことを言っているのかわかりませんでしたが、やはりどこにでも詳しい人間がいるもので、友人に「これは戦争反対の歌だよ」と教えられ納得しました。この歌はマイケルズの方がヒットしたようですが。

そんなこんなで、フォークソングというものに少し興味を持ち始めました。高校生にもなると、いっぱしに社会の矛盾に目覚め、権力がどうの、体制がどうの、社会主義がどうのなどという議論が学校中で盛り上がるようになり、私の関心もそちらのほうに移っていくようになりました。そうした中、深夜放送ではフォークソングが流行っていました。特に関西フォークと呼ばれる、反体制的な歌で学生運動の集会でも必ずフォークソングが歌われるようになりました。その先頭を走っていたのが高石友也でした。

高度成長を遂げる一方で様々なひずみや矛盾が露呈してきた時代に、学生を中心とする反体制運動が活発化してきて、呼応するよかのようにアングラフォークというものが流行ってきたのです。

高校生当時はもっぱらフォークはラジオで聴き、せっせとお金を貯めて洋楽のレコードを買い、そして映画を観るので精いっぱいで、とてもフォークのレコードまで手が回りませんでしたが、しばらくしてからようやく、岡林信康五つの赤い風船などのレコードを買うことが出来るようになりました。その中に高石友也のレコードもありました。

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なんでこのレコードだったのかは憶えていませんが、たぶん「坊や大きくならないで」と「明日なき世界」が入っていたからだと思います。

 

Side A

1.坊や大きくならないで

2.小さな箱

3.ランブリング・ボーイ

4.学校で何を習ったの

5.労務者とは云え

6.お捨てメリンダ

7.もしも平和になったら

 

Side B

1.明日なき世界

2.生き残り

3.ときは流れる

4.血まみれの鳩

5.一人の手

6.チューインガム一つ

7.俺らの空は鉄板だ

 

A-1はベトナム戦争の当事者のベトナム人が作曲した歌。息子よ大きくならないで、大きくなったら戦争に行かねばならぬ、ということですが、高石友也の歌詞は直接的にそのようには歌っていません。マイケルズの歌詞でははっきりそう歌っていますが。

 

坊や、おやすみなさい

草も木も緑も 街も村も燃えてゆく

坊やおおきくならないで

そっとおやすみ 静かに

赤い煙がのぼる

昨日も今日も 明日も続くの

坊やおやすみ

 

坊や、おやすみなさい

お父さんはもう 戻っては来ないの

坊や大きくならないで

そっとおやすみ 静かに

お前が大きくなると

煙のむこうに 消えてゆくの

坊やおやすみ

 

A面は全曲外国の歌です。トム・パクストンが2曲。ボブ・ディランその他。訳詞が高石友也片桐ユズル中山容など。高石友也の訳詞は実にうまいです。

ちなみに「受験生ブルース」も原曲はボブ・ディランでそれに中川五郎が詩をつけて、高石友也が付け加えたという作品です。「おいで皆さん聞いとくれ」はボブ・ディランの「NORTH COUNTRY BLUES」の出だし「Come gahter 'round friend」の訳です。

「ランブリング・ボーイ」はトム・パクストンの歌で岡林信康もカヴァーしており、この当時は定番の合唱ソングでした。

労務者とは云え」はボブ・ディランの知られざる曲「Only a Hobo」で、片桐ユズル高石友也が詩をつけた曲です。こんな歌に目をつけるところが凄い。

「明日なき世界」は悲劇的なソングライター、P.F.スローンの曲でバリー・マクガイアが歌ってヒットしました。反ベトナム戦争反核の歌ですが、高石友也の訳詞が素晴らしい。

「生きのこり」はやさぐれ男のはぐれ唄ですが、これが何とも聞かせます。作曲者不詳。岡林もカバーしています。

「血まみれの鳩」は「五つの赤い風船」の歌。

「一人の手」はピート・シーガーの曲。確か日本でも本田路津子が歌ってヒットしていたと思いますが、歌詞が違います。

「チューインガム一つ」はチューインガムを盗んでしまった女の子がお母さんにこっぴどく叱られ、そのお母さんが悲しい顔して泣いているのを見て、なんであんなことをしてしまったんだろうと、子供ながらに悩む歌。

 

今聴いても十分通用する歌ばかりです。高石友也はその後ナターシャセブンというバンドを結成して活躍後、ソロ活動で現在も活躍中です。近年はマラソントライアスロンでも活躍しました。現在75歳。まだまだ元気そうです。

 


受験生ブルース/高石 ともや 詩 中川五郎

 


明日なき世界 / 高石ともや&ジャックス

 

懐かしい青春の1ページでした。

 

それでは今日はこの辺で。

 

この人の、この1枚  『高田渡/ごあいさつ』

高田渡を初めて聴いたのは確か「自衛隊に入ろう」という曲でした。1960年代も後半、学生運動華やかなりし頃、高校生だった私は、高石友也岡林信康五つの赤い風船などの反戦歌、いわゆるプロテストソングをよく聴いていましたが、この高田渡の「自衛隊に入ろう」には正直驚かされました。こういう逆説的なプロテストの仕方があるんだな、と感心しました。

やがて70年安保闘争が挫折し、学生運動セクト主義、過激化へと向かいます。

そんな中、高田渡の単独アルバムとしては2枚目の『ごあいさつ』が発売されました。

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Side A

1.ごあいさつ

2.失業手当

3.年齢・歯車

4.鮪に鰯

5.結婚

6.アイスクリーム

7.自転車にのって

8.ブルース

9.おなじみの短い手紙

 

Side B

1.コーヒーブルース

2.値上げ

3.夕焼け

4.銭がなけりゃ

5.日曜日

6.しらみの旅

7.生活の柄

 

この頃になると、高田渡はほとんどプロテストソングは書いていません。もっぱら日常生活を描いた歌です。彼は日常生活を歌うことが最もプロテストだと思っていたようです。A-9の「おなじみの短い手紙」は『赤紙』を題材にした明らかに反戦歌ですが、直接的な言い回しはしていません。本人曰く「反権力という点で根っこは同じでも、主義主張を正面からぶつけるのではなく、遠回しに表現するタイプのものが多かった。あたりさわりのないことを歌いながら、皮肉や批判や揶揄などの香辛料をパラパラとふりかけるやり方が好きだったのだ。」(著書「バーボン・ストリート・ブルース」より)ということのようです。B-2の「値上げ」などはその典型です。

それと、この頃から作詞をあまりしなくなりました。このアルバムでも本人の純粋な作詞は4曲です。A-7、B-1、B-4、B-5です。

これも前述の著書によると「好きで現代詩をいろいろ読んでいた中で、日常の風景を語りながらも静かに問題提起をしているという詩におおく出会ったからだ。」そういう詩を読むたびに僕は思った。『そうなんだよ。力んでワーワー言えばいいというもんじゃないんだよ』と。」、そして「彼らが書いたものに比べると、僕の詩なんて及びもつかないと思った。だったら彼らの詩に曲をつけたほうがよっぽどいいだろうということで、現代詩を採用するようになったのだ。」ということらしいです。その詩人に、山之内貘、金子光晴谷川俊太郎永山則夫草野心平吉野弘、有馬敲、菅原克己細田幸平、黒田三郎三木卓石原吉郎木山捷平などの名を挙げています。このアルバムの中では、山之内貘の詩がA-4、A-5、B-7、有馬敲の詩がB-2、その二人の共作がA-2となっています。特に山之内貘への傾倒は凄く、後に「貘」というCDまで作ってしまいました。

自作の詩、「コーヒーブルース」は当時の高田渡の生活ぶりを思わせる名作です。

アルバムの参加メンバーは「はっぴいえんど」のメンバー、「五つの赤い風船」の中川イサト、「ジャックス」の木田高介、それに三バカトリオの加川良と岩井宏、あと遠藤賢司などです。ブルース、カントリー、フォーク満載です。

高田渡岐阜県の生まれで、父親は詩人で共産党員。幼い頃母親を病気で亡くし、それを機会に東京へ移住。印刷所で文選工として働きながら、夜間高校へ。その頃から詩と音楽に興味を持ち自作の曲を作るようになります。ピート・シーガーやウディ・ガスリーに惹かれ、特にピート・シーガーにはあこがれたようです。当時のフォークシンガーではボブ・ディランではなくピート・シーガーというのは珍しいですが、アルバムを聴けばよくわかります。

そして1968年、関西の「第3回関西フォークキャンプ」に冷やかし半分で、小室等の「六文銭」や遠藤賢司、南正人らと出かけ、「自衛隊に入ろう」を歌ったところ、大うけで秦政明社長率いる高石事務所に声をかけられ、所属することになります。当時高石事務所が設立を画策していた会員制のレコード会社URC(アングラ・レコード・クラブ)というのがありましたが、その第1回の配布レコードに高田渡が選ばれたのです。「五つの赤い風船」とのカップリングでしたが、画期的でした。

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URCには高石友也フォーク・クルセダーズ岡林信康中川五郎五つの赤い風船、ジャックス、遠藤賢司高田渡加川良はっぴいえんど三上寛友部正人、斎藤哲夫などを擁する関西フォークの一大拠点に成長します。

1960年代末から1970年代初頭まで関西を拠点に、事務所のメンバーと共に全国の労音(勤労者音楽協議会)周りや、伝説の「全日本フォークジャンボリー」に1回目から3回目まで出演したりして、70年初頭に東京・吉祥寺に戻り「武蔵野タンポポ団」編成し、新たな音楽活動を始めます。

この頃には学生運動や反体制活動も下火になり、関西フォークの持ち味であるメッセージ性に対する要求も影を潜めるようになりました。同時にURCレコードも経営的に苦しくなり、1977年にその幕を閉じます。時代は吉田拓郎井上陽水泉谷しげるかぐや姫へと流れていきました。そしてユーミンへと。フォークからニューミュージックでした。

著作「バーボン・ストリート・ブルース」


高田渡 自衛隊に入ろう 1969フォークキャンプ

 

フォークジャンボリーの様子


「銭がなけりゃ」 高田渡

 

年を取った高田渡


高田渡 生活の柄 1999年

 

愛すべき高田渡はもういません。

 

それでは今日はこの辺で。

映画『ドリーム』を観る

今日のキネ旬シアターは『ドリーム』でした。

監督:セオドア・メルフィ

主演:タラジ・P・ヘンソン、オクタヴィア・L・スペンサー、ジャネール・モネイケビン・コスナー

制作:アメリカ、2017年公開

 

この映画は東西冷戦の中、宇宙開発競争で米ソがしのぎを削っていた1961年頃のNASAラングレー研究所での3人の黒人女性の活躍を描いた実話です。

マーゴット・リー・シェッタリーのノンフィクション小説『Hidden Figures』を原作としています。

 

キャサリン・ジョンソンは幼少のころから数学には天才的な才能を見せ、推薦飛び級で高校、大学、そして黒人女性として初めて大学院まで卒業し、NASAのラングレー研究所で計算手として働いています。夫に先立たれ幼い子3人を育てています。

ドロシー・ヴォーンは計算手グループのリーダー的役割です。

メアリー・ジャクソンはエンジニア希望の女性でやはり計算手として働いています。軍人の夫と子供1人の3人暮らしです。

 

ちなみにこの時点ではコンピュータはまだなく、複雑な計算もすべて手計算でした。映画の中では途中からようやくIBMのバカでかいコンピュータが導入されます。

 

3人は大の仲良しで、愚痴も言い合い助け合っています。

ドロシーは特別な役職が無いにもかかわらず、リーダー的な役割を押し付けられ、不満を抱き昇進を願い出ますが、上司に黒人女性にそんな前例は無いと一蹴されます。

メアリーは技術部へ転属になり念願のエンジニアを目指しますが、黒人では無理とこれまた一蹴されます。

キャサリンはその図抜けた計算能力と数学能力を買われ、ハリソン本部長の宇宙特別研究本部に初めての黒人女性として召集されます。ハリソンはソ連に一歩先を越されて焦っており、優秀な数学者を探していました。しかし赴任してみると、周りの目は冷たく、黒人用のトイレもありません。トイレに行くにも800メートル先の黒人用のトイレに行く有様です。しかも走ってトイレに行き、トイレの中でも計算をするという始末です。

しかし、その類まれなる数学の能力はハリソンに認められ、有人宇宙飛行計画(マーキュリー計画)の有力メンバーに抜擢されます。

 

ドロシーは新たに導入されたIBMのコンピューターが上手く稼働しないのを知って、独学でプログラミングを勉強し動かせるようにし、やがてコンピューター室の室長に命じられ、NASA初のプログラマーとなります。

 

メアリーは何としてもエンジニアになりたくて、裁判所に請願し、黒人には門戸を開いていない白人専用の技術者養成学校に、その熱意を訴えかけ入学が認められ、エンジニアとしての道を歩き始めます。

 

こうして、3人の活躍もあって宇宙飛行士ジョン・グレンを乗せた初の有人宇宙飛行は紆余曲折を経ながら成功します。

私もさすがにこの頃の宇宙開発のことはよくわかりませんが、ガガーリンなどという人の名前が出てくると、あ~そうかなどと思い出したりしました。それと1960年代初頭にIBMのこんなコンピュータが既にあったということに驚かされました。そのコンピュータの計算結果をキャサリンが検算し、そのキャサリンの検算結果の方を飛行士のジョン・グレンは信用したというのもさらなる驚きです。

 

 

3人の黒人女性は多くの障害を夢を持つことで克服してゆきます。キャサリン・ジョンソンはNASAでの長年の功績が認められ、2015年にオバマ大統領から大統領自由勲章を贈られています。現在99歳です。

 

この映画、NASAの宇宙開発の歴史の中で隠れた存在だった黒人の活躍にスポットを当てたという側面ともう一つ人種差別、女性差別について言及した映画でした。

 

特に映画の舞台となったヴァージニア州は人種差別が法律で認められているという州で、トイレ、図書館、レストランなどなどすべてにおいて白人と有色人種は分けられていました。また、仕事の面でも女性はあくまでも補助作業という点ははっきりしていました。

映画の中でも公民権運動が盛んな時代でキング牧師の演説などが挟み込まれ、自由な国と謳われていたアメリカでもこれほどの差別があったのだと、あらためて痛感させられました。

映画の中で、トイレのために度々席を外し、なかなか戻らないキャサリンに対し、ハリソン本部長(ケビン・コスナー)が「どこへ行っていたんだ!」と全員の前で叱責する場面があります。キャサリンは「トイレです。ここには私のトイレがありません。トイレに行くのに20分かかります。コーヒーメーカーも私のものには誰も手を触れません。休憩をお許しください」と言って出ていきます。ハリソンは意味が分かりません。

場面が変わって、ハリソンが「白人専用トイレ」の看板を壊し、「これでもう誰が入ってもいい。おしっこの色に違いはないからな」といいます。泣けてきました。

 

アメリカでは映画『ラ・ラ・ランド』を超える興行収入だったようです。久しぶりのハリウッド映画、十分堪能できました。この3人は凄く魅力的で、特にドロシー役の女優オクタヴィア・L・スペンサーの演技には癒されました。

 


映画『ドリーム』予告A

 

それでは今日はこの辺で。

映画『野生のエルザ』を観る

関連画像

 

昨日の自宅シアターは『野生のエルザ』でした。またまた懐かしい映画で恐縮です。これも高校生の頃、当然ロードショウではなく2番館で観たと思われる映画で、若干記憶に残っています。当時、動物映画をわざわざ観に行くはずもなく、何かとの同時上映だったと思われます。この度CS放送で放映していたので懐かしくなり、つい観てしまいました。

 

 

監督:ジェームズ・ヒル

主演:ヴァージニア・マッケンナ、ビル・トラヴァース

制作:アメリカ 1966年公開

 

ケニア北部で狩猟監視官をしているジョージ・アダムソンはある日、人を喰う雄ライオンを射殺した際に襲ってきた雌ライオンも射殺しました。そして母親を亡くした3頭の子供ライオンを連れ帰りました。

 

ジョージの妻ジョイはこのライオンたちを大層かわいがり、人工保育で育てます。特に一番小さいエルザと名付けたライオンをかわいがりました。このライオンたちとの楽しい生活も、ライオンたちが大きくなるにつれ、結局は檻の中に入れるしかなくなり、野生に返すわけにもいかず動物園に預ける決断をしました。

 

ジョイは別れが悲しく、見送りも出来ません。それを察したジョージはエルザだけを連れ帰ってきました。ジョイは大喜びです。エルザもことのほかジョイに懐いています。

 

エルザもすくすく育ちます。ある日、エルザが象の群れをからかって遊んでいると、象が興奮して暴れまわり、部落に大損害を与えてしまいました。行政からはもうこれ以上ここで飼育するのは無理だ、動物園に送ってくれと依頼されます。ジョージは渋々了承しますが、ジョイは絶対反対だと言って聞きません。そして3カ月だけ待って欲しい、その間に野生に帰れるように教育するというのです。

 

何としてもエルザを檻の中ではなく自由にしてあげたい、エルザの尊厳を守りたいと主張します。周りはとても無理な話だと一蹴しますが、ジョイは頑として首を縦に振りません。とうとうジョージも根負けし協力することになりました。

 

そして野生に帰す教育が始まりました。家から遠く離れた場所に連れていき、餌獲りが出来るようにするために一日中草原に放します。しかし、エルザはイボイノシシを捕まえますが、逆にイボイノシシに逆襲され逃げてしまう始末です。また、雄ライオンのところに連れていき放しますが、すぐに帰ってきてしまいます。

 

困った夫妻は強硬手段にでます。1週間草原に置き去りにすることにしました。1週間経って来てみると、エルザはヨタヨタと近づいてきました。見ると体は傷だらけ、食事をしていないようで、瀕死の状態でした。それでも介護のおかげでなんとか立ち直りました。ライオンが我が子を崖からつき落とすとの例えをそのまま実行しているようで胸が痛みます

 

この時からエルザに変化が現れました。再び草原に放すと、今度はイボイノシシを捕まえ殺しました。驚いた夫妻は、今度はエルザの発情期に雄ライオンのところに行って放してみました。すると雄ライオンのそばにいた雌ライオンとの激しい戦闘の末、勝利し雄ライオンの元へ向かいました。そしてエルザは夫妻に別れを告げるように、振り返り去って行きました。

 

夫妻はイギリスに帰国し、1年後に休暇をもらいケニアにやってきました。そしてエルザと別れた場所に行ってエルザを探しました。しかし、エルザは現れません。休暇も今日で終わり、帰らなくてはなりません。その時、ライオンの鳴き声が聞こえました。エルザです。こちらに向かってやってきます。その後ろには3頭の子供がいます。

 

エルザは夫妻に思いっきり甘えました。忘れていなかったのです。長い時間を一緒に過ごしました。すると雄ライオンが迎えに来ました。エルザは別れを告げ去って行きました。ジョイは子供を抱き上げたかったのですが、手を出しませんでした。ライオンは野生で生きるのが一番いいのだと思ったからでした。

 

 

これは実話でベストセラーのノンフィクション作品でテレビ化もされました。

この映画で驚かされるのは、調教したとはいえライオンがここまで人に馴れるのだ、ということです。とにかくライオンの演技が素晴らしい。

それと野生動物に対する人間の接し方とはいかにあるべきか。この映画で最後にジョイが言っているように、野生動物は野生で生きるのが一番の幸せなんだという事に尽きると思います。

NHKの「ダーウィンが来た!」などを観ていると、つくづく自然界には手を出すなと言いたくなります。地球の主役は人間だけではないはずです。貴重な動物が絶滅していくのは見たくありません。

また、今のペットブームがいつまで続くか分かりませんが、もしブームが去って、繁殖されたペットが溢れたり、高齢化でペットとして飼われていた動物があふれ出したらどうなるのでしょう。

 

感動的な映画なのでしょうが、ひねくれものの私はふとそんなことを考えてしまいました。それにしてもエルザはかわいかった。

 

音楽はジョン・バリーで主題歌はマット・モンローが歌っています。この映画音楽、いいですよ。

 


Born Free / 野生のエルザ 1966

 

それでは今日はこの辺で。

アメリカン・メロハー 『コート・イン・ジ・アクト(Caught In The Act)~ギルド・オブ・エイジス(Guild Of Ages)』 そして『アックス(Axe)』

アメリカでは珍しいメロハー・バンド、『コート・イン・ジ・アクト』です。オルタナグランジブームがまだまだ健在だったころにデビューし、日本やヨーロッパでも結構な人気を得たバンドです。

メンバーは

ダニー・マルティネズ(Danny Martinez,g,vo)

アンツ・トゥルヒロ(Antz Trujillo,g,key,vo)

ジョー・マローン(Joe Marone,b,vo)

トロイ・ベンソン(Troy Benson.ds,vo)

です。

バンドの結成は1987年と意外と古いです。

ファーストアルバム『Relapse Of Reason』がリリースされたのが1995年でした。

プロデュースがアックス(Axe)ボビー・バース(Bobby Barth)です。ボビー・バースはアックスのリーダーとして1970年代末から1980年代前半にかけて、4枚のアルバムを出しています。5枚目のアルバムを制作中にメンバーのマイケル・オズボーンと一緒に乗った車で交通事故を起こし、マイケル・オズボーンは死亡してしまいました。そしてバンドも解散します。

ボビーはその後ブラックフット(Blackfoot)に参加します。その後、ソロアルバムも出しています。

そして1995年にコート・イン・ジ・アクトのマネージャー兼プロデューサーとして帰ってきました。アックスも叙情派ハードロックバンドでしたので、ボビーがこのバンドに寄せる期待は大きったのでしょう。現に、このファーストアルバムの中にアックスのサードアルバム『Offering』の中から2曲もカバーされています。「Steal Another Fantasy」と「Silent Soldiers」です。

このコート・イン・ジ・アクトのファーストアルバムはまさに叙情派メロハー曲のオンパレードです。日本でももっともっと人気が出てもよかったのではないかとさえ思います。

 

1996年にはセカンドアルバム『Heat Of Emotion』をリリースします。

ファーストアルバムのリリース前にはジョー・マローンが、そしてファーストアルバムリリース後にはトロイ・ベンソンがグループを去ってしまいます。代わりに、ジェイムス・ローステッター(James Lostetter,b)スティーヴ・スタンツ(Steve Stuntz,ds,vo)が加入してセカンドアルバムを完成させます。

ファーストからさらにパワーアップしメロディアスナンバーも目白押しです。

 

1998年にサードアルバム『One』をリリースします。

このアルバムからバンド名が『ギルド・オブ・エイジス』に変更されます。これはオランダに同名の4人組のヴォーカルグループが存在したためで、紛らわしさを避けるためで、一旦CITAに変更しますが、オランダのグループがCMでこのCITAを使用していたため、再び変更を余儀なくされこのバンド名になりました。

このサードアルバムは、これまでより一層緊張感が漂う曲作りがなされています。よりヨーロッパ的になったというか、アメリカンバンドの面影はありません。

 

なお、このアルバムのリリース前にプロデューサーのボビー・バースがアックスを再結成します。そして1996年に『Five』を発表しています。

メンバーにコート・イン・ジ・アクトのセカンドサードにゲストとしてキーボードとヴォーカルで参加していたボブ・ハリスがヴォーカリストとして加わります。その他にベースのブレイク・エバハート、ドラムにテディ・ミュラー、キーボードにエドガー・ライリー・Jrのラインナップです。

ギルド・オブ・エイジスと遜色ない出来で、メロハー満載です。

 

ギルド・オブ・エイジスの方はその後2枚ほどアルバムを出しています。

 

 

 この2枚、悪くはないのですが、前の3作と比べるとややパワーダウンした感があります。

 

両グループとも現在の活動については不明です。

アメリカにもこのようなバンドがあったのです。

 


Cita (Caught In The Action) - Relapse of Reason

 


Cita (Caught In The Action) - Can't We Make It


Guild of Ages - Into The Night

 

それでは今日はこの辺で。

退院後の3カ月検診

退院してほぼ3カ月。毎月検診していますが、今日は3カ月目の検診日でした。

レントゲン、CTとも全く異常なしとのこと、一安心です。

ただ以前のように歩けなくなっているのが心もとないです。少し歩くと息があがります。

以前、医師に聞いたところ、それは腰が原因ではなく心臓か肺が原因でしょうと言われ、心臓血管外科を受診しました。ところが心臓も肺も異常なしです。

私見では脊椎管狭窄症によって下半身の神経を損傷し、筋肉が衰えたことによるとと考えていますがいかがなものでしょう。

現に左右の足の太さがだいぶ変わっています。見るからに明らかです。それでも素人判断ですから医師には相手にされません。

まあ、気長に回復を待つしかありません。

今日嬉しかったのは、コルセットを外してよいとの許可が出たことです。これで少しは身体の自由が利くというものです。ああ、長かったけど、終わってみると短かったかもしれませんね。

次の検診は3か月後になりました。助かります。

 

それでは今日はこの辺で。