Flying Skynyrdのブログ

映画や音楽、本についての雑文

『クリス・デュアーテ(Chris Duarte)』を聴く

今日は『Chris Duarte/Vantage Point 』です。

 彼のCD購入は6枚目です。比較的安価で見つけたので購入しました。この作品は彼にとっても6枚目です。今までに13枚出していますのでようやく半分です。

彼も先日のコリン・ジェイムスと同じく90年以降のブルースロック・ギタリストとして安心して聴ける一人です。それでももう54歳なんですね。早いもんです。彼の尊敬するミュージシャンはスティーヴィー・レイヴォーンとジョン・コルトレーンだそうです。スティーヴィーはわかりますが、コルトレーンは意外でした。そういえばジャズっぽい曲もやっていました。このアルバムもブルースはもちろんですが、ロックンロール、ジャズやフュージョンと様々な要素を取り入れています。とにかく気持ちいいぐらいギターを弾きまくっています。

2008年のアルバムですが、写真を見るとだいぶおっさんになっています。

これまでに購入したアルバムは次の通りです。

   

やはりファーストの印象は強烈でした。あれから20年ほど経ってしまいました。

新しいのを見つけたらまた買います。

最近ブルースロックに偏ってしまっているので、ちょっとまた別なジャンルを聴いてみたくなってきています。

 

『セッション』を観る

今日は久しぶりにキネ旬シアターに行ってきました。

映画は『セッション』です。

監督・脚本:デミアン・チャゼル

出演   :マイルズ・テラー、J・K・シモンズ

 

いやー、凄い映画でした。ジャズ・ドラマーを目指す青年とその教師の物語です。が、内容はそんな甘い世界ではありませんでした。

ストーリーはジャズ・ドラマーを目指しアメリカで最高の音楽学校に入学し勉強に励む19歳の青年・ニーマン(マイルズ・テラー)はある日、学校で最高の教師・フレッチャー(J・K・シモンズ)と知り合います。フレッチャーはニーマンの練習風景をみて自分のバンドに誘います。そのバンドの練習に参加したニーマンはフレッチャーの指導に厳しさに驚きます。まるで人格を無視したような罵詈雑言の連続、わずかな音程のズレを指摘され退場させられる者、練習の場は緊張感であふれていました。ニーマンも練習の最中にテンポのズレを指摘され散々悪態をつかれ、椅子を投げつけられ、ビンタをされ自信を無くしてしまいます。しかし、彼は必死に練習に励みます。指から血が出るほどの練習を重ねていきます。それでも補欠のドラマーの地位は変わりません。あるコンサートの時、正ドラマーが譜面をなくしてしまい、自分は暗譜をしていないのでステージには立てないと言い出し、フレッチャーは「自分は暗譜をしている」と申し出たニーマンをステージに立たせることにしました。演奏は上出来で、以降フレッチャーはニーマンを正ドラマーとして起用するようになりました。ニーマンは有頂天になり、それまで映画館の受付をしている女性に今まで心に秘めていた気持ちを打ち明け、付き合うようになりました。ところがある日、フレッチャーは新しいドラマーの候補を連れてきました。それはかつてニーマンと同じバンドにいた同級生でした。そしてフレッチャーはかつての正ドラマーと3人に正ドラマーの座を競わせました。ニーマンはますます練習に没頭せざるを得ず、恋人と付き合っている暇もないということで彼女とも別れてしまいます。そんなある日、フレッチャーはかつての優秀な教え子が交通事故で亡くなったとメンバーの前で話しながら涙を流しました。フレッチャーの意外な一面を見てニーマンは驚きましたが、その後の練習は壮絶を極めました。3人の争いは最終的にニーマンが勝ち取り、コンテストへの正ドラマーとして参加することが認められました。ところが当日、事故でバスが遅れ、会場に間に合わない事態が起き、到着した時には、ドラマーは同級生が務めると決定してしまっていました。激怒したニーマンはフレッチャーに食って掛かりましたが、スティックを忘れたことを指摘され、すぐに取ってくるから待ってほしいとなんとか説得してスティックを取りにレンタカーで戻りました。しかしスティックを持って戻る途中で交通事故にあってしまいます。それでも彼は血だらけになりながらも、なんとか会場に到着しドラム席に着き、そして演奏が開始されました。しかし怪我をした彼の腕は言う事を利かず、演奏は中断されます。そしてフレッチャーに無能呼ばわりされ、思わず飛び掛かってしまいます。それがもとで彼は退学処分となり学校を去り、別な大学へと移ります。

フレッチャーのかつての教え子が亡くなった件で弁護士がニーマンに接触してきます。教え子は交通事故ではなく自殺だったのです。フレッチャーの指導の行き過ぎで精神を病んで自殺した、だからニーマンにも訴えを起こしてほしいという事でした。ニーマンは迷った挙句、匿名でという条件で応じました。

ある日、街を歩いているとジャズ・ライブにフレッチャーが特別出演しているのを見かけ、店に入り彼のピアノ演奏を聴きます。フレッチャーと目が合って、帰ろうとしたとき呼び止められ、ニーマンはフレッチャーと話しあうことになりました。フレッチャーから誰かの訴えで学校を辞めざるを得なくなったと聞かされました。そして今はジャズバンドの指揮をやっている、よかったら正ドラマーとして参加して、近々行われるフェスティバルに出てくれないかと頼まれます。ニーマンは再びスティックを握ることを決意します。そしてかつての恋人にフェスティバルに来てほしいと頼みますが、彼女には既に新しい恋人がいて、断られてしまいます。

そしていよいよフェスティバル当日、ドラム席に着いて演奏が始まる寸前、フレッチャーが寄ってきて、「密告したのはお前だろう、俺をなめるなよ」と言い放します。そして紹介された演奏曲目はニーマンが知らされていたものとは全く別な曲でした。ニーマンには譜面もありません。フレッチャーは復讐をしたのです。全く演奏になりませんでした。これでニーマンのジャズマンとしての生命は終わり、失意のもとに舞台から降りました。父親に迎えられよく頑張ったと慰められましたが、彼は再び舞台に上がりました。そしてドラム席に着くと、指揮者フレッチャーを無視してドラムをたたき始めました。『キャラバン』です。やがて他のメンバーもドラムに併せて演奏を始めました。フレッチャーは止めろと言いますが、ニーマンは止めません。演奏はどんどん白熱していき、そして長いドラムソロに入ります。やがてフレッチャーもそのドラムソロに魅入られ、そして今度は逆に彼を励まし、最後のエンディングへと向かいます。途中まで救われない映画だと思っていましたが、最後の最後に救われました。

監督のデミアン・チャゼルは昨年『ラ・ラ・ランド』で史上最年少のアカデミー賞の最優秀監督賞を受賞した人です。この『セッション』もアカデミー賞の3部門を受賞したようです。本人もジャズドラマー志望だった時期もあり、交通事故の経験もありと、この映画製作には事故の体験が大いに役立っていたそうです。

また、ニーマンが尊敬するドラマーがバディ・リッチだったり、チャーリー・パーカーの逸話が入ったりとなかなか興味深かったです。ニーマン役のマイルズ・テラーはドラムの猛特訓をし全て本人が演奏していたようです。フレッチャー役のJ・K・シモンズの演技は迫力ありました。この映画でアカデミー賞助演男優賞をもらったそうです。

とにかく息もつかせぬ映画でした。

私はビッグバンドジャズはあまり聴かないので、バディ・リッチもレコードで2枚ほどしか持っていませんが、プロのドラマーが目指す先にいる存在なんだろうなということは理解できました。それとチャーリー・パーカー(アルト・サックス)がフィリー・ジョー・ジョーンズに演奏が下手だとシンバルを投げつけられ、その悔しさをバネにして「モダン・ジャズの父」と呼ばれるまでになったという話は、本当かどうかはわかりませんがいい話でした。

コリン・ジェイムス(Colin James)を聴く

今日はコリン・ジェイムスの4枚目のアルバムを入手しましたので、これについてちょっと書いてみます。

Colin James/Bad Habits』 1995年

 私にとっても彼のCDは4枚目になります。彼はこれまでに16枚ほど出していますのでとてもファンとは呼べませんが、90年以降のブルースロックギタリストとしては好きなミュージシャンの1人です。

このアルバムは彼にとっては初期の部類に入りますが、私がこれまでに買った彼のCDもほとんど初期のばかりなのでそんなに変わり映えはありませんが、堅実にブルースロックをやっています。エルモア・ジェイムスやロバート・ジョンソンのカバーもあって安心して聴けます。タイトル曲のような正統派スローブルースもやっていていいです。こういう曲を聴くとホッとするというか、安らぎます。最後はギターインストでしっとりと締めくくります。

最近の彼のアルバムもなんとか探し出して購入したいと思います。

なお、このアルバムにはあのワディ・ワクテル(Waddy Wachtel)がリズムギターでクレジットされています。ワディ・ワクテルと言えば様々なアーティストのレコードにスタジオミュージシャンとして参加しています。ウォーレン・ジヴォンリンダ・ロンシュタットジェイムス・テイラージャクソン・ブラウン、J.Dサウザーランディ・ニューマンなどなど、数え出したらきりがありません。

そういえば去年観たジミ・ヘンドリックスの映画『JIMI : 栄光への軌跡』で主役のアンドレ・ベンジャミンの代わりにギターを弾いていたのもワディ・ワクテルでした。ちなみにその時のベースはワディに勝るとも劣らないキャリアのリーランド・スカラーでした。

 

今私の持っているコリン・ジェイムスのCDは今のところ次の通りです。

Colin James』 1988年

Sudden Stop』 1990年

Colin James And The Little Big Band Ⅱ』1998年

 

  

ブルースロックの名手たち 60年~70年代編 ④ ロリー・ギャラガー

 

1970年代のロリー・ギャラガー(Rory Gallagher)

 

今日はブルースロック・ギタリストとしてのロリー・ギャラガーを取り上げてみたいと思います。といっても、1970年代に限定したいと思います。なぜなら、タイトルが60年~70年となっていることもありますが、ロリーのキャリアが長いため最後まで書いていると長くなりすぎるか、あるいは散漫になってしまう恐れがありますので、ある程度時期を限定して書いてみようと思いました。

ロリーのソロデビューは1971年です。当時私は高校生で、洋楽に興味を持ち始めましたが金銭的にそんなにレコードを買えるような状況ではありませんでした。雑誌を立ち読みしたり、レコード屋でレコードジャケットを眺めたりしていました。そんな時、レコード屋からレコード会社の広告パンフレットのようなものをもらって帰ってみていると、それがポリドールのもので、そこにロリー・ギャラガーのデビューアルバムの宣伝が大きく取り上げられていました。それには当然いいことばかり書いてありますから、たまらなく聴いてみたくなりました。しかしながらラジオでもかからないし、これは何としても買わなければならないと思ってしまいました。なんとか小遣いを貯めてようやく手に入れました。その名も『Rory Gallagher(ロリー・ギャラガー)』です。

いいアルバムでした。「I Fall Apart」や「For The Last Time」など大好きです。想像していたより渋い声で、濃厚なブルースという感じではなく、やはりロックです。でも根っこはブルースだということは充分伝わってきました。そして彼が以前に"Taste(テイスト)"という3人編成のバンドを組んでいて、こちらも結構な人気を博していたこともわかりました。

立て続けに2枚目のアルバム『Deuce(デュース)』を発表します。

 基本的にロリーのアルバムに駄作は1枚もないのでどれも安心して聴けるので、当然このアルバムもいいです。(1971年)

そして次はライブアルバム『Live! In Europe(ライヴ・イン・ヨーロッパ)』です。

 カッコいいの一言です。ライヴになるとブルースロッカーの面目躍如です。とにかくしびれます。オープニングの定番「Messin' With The Kid」から始まって「Laund Romat」「Pistol Slapper Blues」など最高です。弾き語りブルースなどもやっていて本当にブルース好きなんだなと思わせます。このころのメンバーはジェリー・マッカヴォイ (Gerry McAvoy  b)とウィルガー・キャンベル(Wilger Cambell  ds)の3人組でした。(1972年)

次は『Blue Print(ブルー・プリント)』です。

 これはいい曲が揃っています。「 Walk On Hot Coals」「Daughter Of The Everglades」「Seventh Son Of A Seventh Son」など、ライヴでもよく演奏される曲が入っています。このアルバムからドラムスがロッド・デ・アス(Rod De'Ath)に代わり、キーボードにルー・マーティン(lou Martin)が加わり4人編成になります。ルー・マーティンの加入が音楽性の幅を広げた感じがします。彼のピアノはいいです。(1973年)

次が『Tatoo(タトゥー)』です。

 個人的にはこれがロリーの最高傑作だと思っています。「Tatoo'd Lady」「A Million Miles Away」などは最高の名曲ではないでしょうか。このレコードが日本で発売されたときは速攻で買いました。何度も何度も繰り返し聴いた憶えがあります。このころからややポップな感じが出てきた気がします。(1973年)

次は再びライブアルバム、しかも2枚組です。『Irish Tour(アイリッシュ・ツアー(当時の日本盤タイトルは「ライヴ・イン・アイルランド」です))

 文句のつけようがありません。選曲もいいし、言うことなしです。(1974年)

なお、この時の模様はDVDにもなっています。

さらに、最近このアイリッシュ・ツアーの全貌が発売されました。なんとCD7枚にDVD1枚の8枚組です。買ってしまいました。『Irish Tour '74 Delux Edition

このあと2度目の来日します。早速チケットを購入しました。場所は東京体育館です。何と前から2列目の席がとれたのです。友人達と共に行きました。逆に言うと日本ではそれほどの人気は無かったということなのでしょうか。

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 ロリーを目の前にして大興奮でした。

この2年後、3度目の来日をします(チケットの半券は残っていません)。

その後ロリーはレコード会社も変わり順調にレコードも発売しました。

Against The Grain(アゲインスト・ザ・グレイン)』1975年

Calling Card(コーリング・カード)』1976年

Photo-Finish(フォト・フィニッシュ)』1978年

Top Priority(トップ・プライオリティ)』1979年

Stage Truck(ステージ・トラック)』1980年

 

  

 

 もちろんこれらのすべては水準以上の出来ですが、徐々にロリーの人気は下がり始めます。それはロリーの音楽がどうのこうのではなく、時代が変わってきたといいますか、それまでのブルースロック人気はすでに去り、ニューウェイヴ、パンク、へヴィメタル、AORへと世の中は変わってきていたのです。そして80年代に入るとロリーも試行錯誤の時代になりますが、それはまたということで。

時代が変わろうとも、クラシカルなロックをやり通すという頑なな職人気質は私は大好きでした。早逝は非常に悔やまれます。

ちなみに面白いCDを10年程前に入手しました。初来日時の東京公演の模様の2枚組です。もちろんブートレグですが、音は結構いいです。「A Million Miles Away」の思わせぶりたっぷりのギターが泣かせます。

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なお、テイスト時代のアルバムは2枚のアルバムと2枚のライヴがそれぞれ発表されています。クリームの後継者と言われるだけのことはあります。ロリーも元気いっぱいのプレイをしています。

Taste(テイスト)』1969年

On The Boards(オン・ザ・ボーズ)』1970年

Live Taste(ライヴ・テイスト)』1971年 モントレーでのライヴ

Live At The Isle Of Wight』1972年 ワイト島でのライヴ

  

 

 

 70年代のロリーの映像は比較的DVD化されています。私も5枚程所有しています。常に一所懸命な姿に打たれます。

バッファロー・スプリングフィールド(Buffalo Springfield)とその後

以前、バーズ関連を書きましたので、今日はもう一つ忘れてはならない、フォークロック、カントリーロックの草分けバンド、バッファロー・スプリングフィールドを取り上げてみたいと思います。

バッファロー・スプリングフィールドは1966年に結成されました。

初期メンバーは

ティーヴン・スティルス(Stephen Stills, vo,g)

リッチー・ヒューレイ(Richie Furay, vo,g)

ニール・ヤング(Neil Young, vo,g)

ブルース・パーマー(Bruce Palmer, b)

デューイ・」マーティン(Dewey Martin, ds)

後にブルース・パーマーが麻薬で逮捕され、代わりにジム・メッシーナ(Jim Messina)が加わります。

私は当然この頃のことは知りません。後追い知識です。

1966年に1stアルバム『Buffalo Springfield(バッファロー・スプリングフィールド)』が発表されます。

このアルバムの1曲目「For What It's Worth」はスティルスの曲ですが、これはスティルスの代表曲といってもいいくらいの素晴らしい曲です。全米でも100万枚売れたそうです。ニール・ヤングも曲を書いていますが、このアルバムは完全にスティルスが主導権を握っている感じです。

 

2枚目は『Buffalo Springfield Again(バッファロー・スプリングフィールド・アゲイン)』です。

このアルバムではヤングとスティルスとリッチーが三つ巴のように主導権争いが繰り広げられているような感じがします。しかし内容は素晴らしく、バッファローの中ではこれが一番いいという声が多いです。スティルスの「Bluebird」、ヤングの「Mr.Soul」、リッチーの「A Child's Clame To Fame」など名曲揃いです。

しかしこの頃からスティルスとヤングの対立が表面化してきます。パーマーが抜け、ジム・メッシーナが入ると、ヤングもメンバーとは別行動をとることが多くなり、レコーディングも困難を極めました。そして遂に解散を決断します。レコーディングの方は結局、リッチーとジムとスティルスで何とか仕上げ最後のアルバムとして発表されます。タイトルもその名の通り『Last Time Around(ラスト・タイム・アラウンド)』です。

このジャケット、ニール・ヤングだけよそを向いていて、何か象徴的です。

ヤングの「I Am A Child」やリッチーの名曲「Kind Woman」など佳曲がそろいますがアルバム全体としてはやはりまとまりに欠けます。

こうしてバッファロー・スプリングフィールドは約2年という短い活動期間で幕を閉じます。

 

しかし、この後のメンバーの活動がその後のロック界に大きな影響を与えていくことになります。

ここではリッチー・フューレイとジム・メッシーナ、そしてスティーヴン・スティルスについて書いてみたいと思います。

ニール・ヤングについては別途書いてみたいと思います。なぜかと言いますと、ニール・ヤングは私のフェバリット・アーティストのベスト10には間違いなく入る人なので書き出すときりが無くなりそうなので、改めてということにします。

 

バッファロー解散後、リッチーとジムはカントリーロックバンド"Poco(ポコ)を結成します。メンバーはランディ・マイズナー(Randy Meisner b,vo のちイーグルス)、ラスティ・ヤング(Rusty Young steel,vo)、ジョージ・グランサム(George Grantham ds)でした。しかし、1stアルバム発表前にランディーはイーグルスに参加、代わりにティモシー・シュミット(Timothy B. Schmit)が加わり、アルバム『Pickin' Up The Pieces(ピッキング・アップ・ザ・ピーシーズ)』を発表します。

これはその後のポコのアルバムの中でも1,2を争う出来栄えではないでしょうか。フライング・バリットとはまた違ったカントリーロックで、まさにリッチーのバンドと言ってもいいかもしれません。しかしそのリッチーのワンマン体制にジムが反発しグループを脱退し、ケニー・ロギンスと"Loggins & Messina(ロギンス・アンド・メッシーナ)を結成します。1972年のことでした。以降、1976年までに8枚のアルバムを出し、全米でも大人気になりました。その後ジムはソロ活動実行中です。

一方ポコの方は2nd以降、あまりパットせずジムの後任のポール・コットンを加えて発表した5枚目『Good Feelin' To Know(グッド・フィーリング・トゥ・ノウ)』は期待されましたが今一つの評判に終わりました。私個人的には大好きなアルバムです。

リッチーはここでポコに見切りをつけ、シンガーソングライターのジョン・デヴィッド・サウザーとバーズ、フライング・バリットのクリス・ヒルマンと共に"Souther-Hillman-Furay Band(サウザーヒルマン・ヒューレイ・バンド、SHF)を結成します。

なお、ティモシー・シュミットはランディがイーグルスを脱退すると、その代わりにイーグルスに加入しました。

SHFは2枚のアルバムを発表します。共にいいです。(1974、75年)

 

特にファーストの最終曲「Deep,Dark And Dreamless」は名曲です。

活動期間は約2年余りでした。

リッチーはその後もソロで活躍しています。

 

ティーヴン・スティルスはというとバッファロー解散のあと、先日書いたアル・クーパー、マイク・ブルームフィールドとのスーパーセッションに参加の後、バーズのデヴィッド・クロスビーとホリーズ(「バス・ストップ」で有名な)のグラハム・ナッシュとともにクロスビー・スティルス・アンド・ナッシュ(CS&N)を結成します。と、今度はそこにニール・ヤングが加わります。喧嘩別れしたと思ったら、またくっついて、いったいどうなってるんだ、と思ってしまいます。ですがわずかな期間に出した2枚のアルバムは歴史に残る名盤でした。『Deja Vu(デジャ・ヴ)』『4Way Street(4ウェイ・ストリート)』です。

 

前者は今ではすべてがクラシックな名曲と言われているほどの曲で埋め尽くされています。後者はライブアルバムでレコードでは2枚組で1枚目がアコースティック、2枚目がバンド形態です。特に2枚目のヤングの「Suthern Man」でのスティルスとヤングのギターバトルは凄いです。まさに喧嘩しているようです。

映画『ウッドストック』を思い出します。夜のCSN&Yのステージ、よかったですね。

その後CS&NもCSN&Yも何度か再編成します。でもこの時の輝きにははるかに及びませんでした。

ティルスはその後、ソロ活動をし1972年にバーズのクリス・ヒルマンらと"Manassas(マナサス)"を結成し2枚のアルバムを制作します。このグループはブルース、カントリー、フォーク、ロックとなんでもありの面白いグループでした。

 

その後、スティルスはソロ活動をし最近は驚くことにケニー・ウェイン・シェファード(Kenny Wayne Shpherd)、超ベテランのブルースマン、バリー・ゴールドバーグ(Barry Goldberg)と組んで”The Riders(ライダース)"なるブルースバンドを結成しました。驚くべきバイタリティです。これがまたいいんです。

 

こうしてみるとあの頃のミュージシャンは早逝したか、いつまでも元気で頑張っているか、極端になっているような気がします。それでも最近当時のミュージシャンの訃報が多く気が滅入ってしまいます。私より若干年上の人が多いのです。

 

それはさておき、ざっと流して見てきましたが、これだけでも当時のウェストコーストのミュージシャンのグループ間の移動が激しかったことがわかりますが、今まではバーズとバッファローに限って見てきたのでこの程度ですが、その他のグループを交えていくと訳が分からなくなりそうな時がありました。系図を書いて解説されているなんていうレコードもありました。

こうしてアメリカ・ウェストコースとのフォークロック、カントリーロックは全盛を迎えます。この他にも数多のグループが雨後のタケノコのように出現しては消えていきました。バッファローとバーズは正にそのさきがけとなりました。

 

アメリカ・ウェストコースにはまた別な流れがありました。サイケデリック系のジェファーソン・エアプレインやグレイトフル・デッドクイックシルバーメッセンジャー・サービスなどですが、これらを先のバーズやバッファローのロックと明確に区別するのは不可能です。お互いに強く影響し合いながら進化していきます。さらにはドアーズ、カントリー・ジョー・アンド・ザ・フィッシュ、スティーヴ・ミラー、モビー・グレープなどなど数え上げたらきりがありませんが、アメリカンロックを語るうえでは彼らのことに触れない訳にはいきません。それとオールマン・ブラザース・バンド、レーナード・スキナードなどのサザンロック勢を忘れてはいけません。が、これらについてはいずれまたの機会にでもボチボチ書くことにします。いずれまた、が多くなってきてしまっていますが。

 

ニール・ヤング様、今しばらくお待ちくださいませ。

デイヴ・ホール(Dave Hole)を聴く

今日はDave Holeの最新盤『Rough Diamond』を購入したので早速聴いてみました。

実は彼のCDは恥ずかしながら初購入です。アルバムデビューが1992年といいますからすでにそれだけでも25年のキャリアです。現在69歳、オーストラリア人。元気いっぱいです。音楽活動は1970年頃からだといいますから相当なものです。

これまでに10枚のアルバムを出しているようです。どうして今まで手を出さなかったのでしょう。悔やまれます。その位いいです。スライドギターが唸ります。R&B風な軽い曲もあれば、R&Rの軽快な曲もあり、本格ブルース、マイナーブルース有りと、バラエティに富んでいます。飽きません。

最近のスライドギターというと”Sonny Landreth”や"Derek Trucks"が思い浮かびますが、彼らにも引けは取りません。

これだけのブルースマンでも日本ではほとんど話題にも上らないと思います。おそらくCDも1枚も発売されていないのではないでしょうか。詳しくはわかりませんが。実にもったいないことです。

これが最新盤といっても2007年発表なので今はどうなっているのかわかりません。

早速、次のCDを探し出してみます。

 

フリー(Free)~コゾフ(Kossoff)とロジャース(Rodgers)の運命は

今日は「フリー」です。ブルースロック・シリーズで取り上げようか迷いましたが、彼等はやはりハードロックの旗手として捉えたほうがしっくりする様な気がしましたので、単独で取り上げてみたいと思います(どうでもいいことですが)。

フリーはポール・ロジャース(Paul Rodgers ,vo,g)、ポール・コゾフ(Paul Kossoff ,g)、アンディ・フレイザー(Andy Fraser ,b)、サイモン・カーク(Simon Kirke,ds)の4人でイギリスで結成され、1969年にデビューします。

デビューアルバムは『Tons Of Sobs(トンズ・オブ・ソブス)』です。

これは濃厚なブルースロックアルバムです。このアルバムのために初めに書いたようにブルースロック・シリーズに載せようか迷ってしまったのです。実はこのアルバムは私にとってはフリーのアルバムの中では最も好きなアルバムの1枚です。ロジャースのヴォーカルは声の質といいロックを歌うために生まれてきたような、まさに天才ヴォーカリストです。コゾフのギターは泣きのギターで有名ですが、ギターが震えているようです。

次は『Free(フリー)』です。このアルバムではフレーザーの曲(ロジャースとの共作ですが)が全曲を占めるようになります。前作では2人の共作は2曲だけで、あとはロジャース単独の曲が多かったのですが、フレーザーのソングライティング能力が上がってきたのです。(1969年)

そして、いよいよ『Fire And Water(ファイアー・アンド・ウォーター)』の登場です。この中の「オール・ライト・ナウ」が大ヒットしフリーは完全にハードロック界のスターにのし上がりました。このアルバムには他にもタイトル曲や「ミスター・ビッグ」「ヘヴィー・ロード」なども収録されています。(1970年)

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次は『Highway(ハイウェイ)』です。このアルバム発表後にアンディ・フレイザーがバンドを去ります。私個人的には前作よりこちらのほうが好きでした。「ビー・マイ・フレンド」「サニー・デイ」「スティーラー」「ハイウェイ・ソング」など名曲ぞろいですが、静かな曲が多いので賛否が分かれたのでしょう。最後の曲が「スーン・アイル・ビー・ゴーン」というアンディの曲が意味深です。(1970年)

翌年、『Free Live!(フリー ライヴ!)』が発表されます。これは文句なしのライヴアルバムです。いい曲ばかり揃えたという感じです。最初にこのアルバムを聴けば好きになること間違いなしです(大袈裟か)

この後、バンドは解散状態になりましたが、サイモンとコゾフが日本人ベーシスト山内テツとキーボードのジョン・バンドリック(ラビット)を誘い、”Kossoff ,Kirke,Tetsu,Rabbit"というユニットを発足させレコーディングしました(『Kossoff ,Kirke,Tetsu,Rabbit』)。

これがうまくいきサイモンの呼びかけでフリーは再結成されることになりました。

 そして発表されたのが『Free At Last(フリー・アット・ラスト)』です。オリジナルメンバーによる最後のアルバムとなりました。(1972年)

この後、アンディが抜け、テツとラビットが加わり、本当に最後のアルバム『Heartbreaker(ハートブレイカー)』が発表されました。このアルバムではコゾフの参加は数曲だけでした。ロジャースが代わりにギターを弾いています。コゾフはドラッグまみれで、メンバーが何とか彼を立ち直らせようといろいろ努力したようですが、結局はこれで解散ということになりました。

このアルバムは1曲目の「ウィッシング・ウェル」から4曲目の「ハートブレイカー」までの流れが素晴らしく(レコードのA面)、なかでも2曲目の「カムトゲザー・イン・ザ・モーニング」はロジャースの声とコゾフのギターが思い切り泣いて、震えます。アルバムジャケットもカッコいいです。私にとってこのアルバムはひときわ思い入れが激しく、特にタイトルナンバーの「ハートブレイカー」は一生涯忘れることができない曲になりました。理由は言えません。

フリーのアルバムがCD化されたとき面白いものを発見しました。

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背表紙を並べるとそれぞれコゾフとロジャースの顔になります。やってくれましたよ。

フリー解散のあとは、ポール・ロジャースはサイモン・カークと"Bad Company(バッド・カンパニー)"を、ポール・コゾフは1973年にソロ・アルバム『Back Street Crawler(バック・ストリート・クローラー)』を発表します。これにはフリーのメンバーも参加し、私も嬉しくなりました。

そして、このアルバムのタイトル名と同じグループ名で活動を始めます。そして2枚アルバムを制作しますが、1976年、2枚目の制作途中で飛行機の中で亡くなります。ドラッグ中毒です。アルバムは『Band Plays On(バンド・プレイズ・オン)』と『2nd Street(セカンド・ストリート)』でした。わずか25歳でした。ショックでした。後者が遺作となってしまいました。

 

このバンドはその後、Crawlerと名前を変え、2枚ほどアルバムを出して解散します。

 

一方ポール・ロジャースのバッド・カンパニーはサイモン・カークの他にモット・ザ・フープルのギタリスト ミック・ラルフス、キング・クリムゾンのベーシスト ボズ・バレルでスタートします。

デビューアルバムから大ヒットで不動の人気を獲得します。『Bad Company(バッド・カンパニー)』とにかくこのアルバムは凄い。全曲文句なし。ミック・ラルフスのモット・ザ・フープル時代の「レディ・フォー・ラブ」もロジャースのヴォーカルだとまたひと味違って名曲として生まれ変わります。(1974年)

商品の詳細

続いては『Straight Shooter(ストレイト・シューター)』です。この発表の年(1975年)に来日します。もちろん観に行きました。日本武道館です。確か1日だけの公演であまりいい席が獲れなかったように記憶していますが、それでもポール・ロジャースを聴けたことで満足でした。

さらに1976年、77年と続けて『Run With The Pack(ラン・ウィズ・ザ・パック)』、『Burnin' Sky(バーニング・スカイ)』と続けてアルバムを発表します。

  

しかし、このあとしばらく休養に入り、1979年、久々に出されたアルバム『Desolation Angels(ディゾレイション・エンジェルス)』も高評価でしたが、再び長期休養に入ります。

そして、1982年に『Rough Diamonds(ラフ・ダイアモンド)』を発表しますが、かつてのような輝きはみられませんでした。ここでポール・ロジャースはグループを脱退します。

 

脱退後はソロアルバム(『Cut Loose』)を発表したり、ツェッペリンジミー・ペイジとグループを組んだり(The Firm)し、1993年にはマディ・ウォーターズへのトリビュート・アルバム(『Muddy Water Blues』)を制作したりします。そして、1998年にはオリジナルメンバーにより、バッド・カンパニーを再結成します。こうしてポール・ロジャースは今でも活躍しています。

 

 

このように見てくると、同じ志を持った二人の若者が同じように脚光を浴びながら、その後の人生の明暗はどう理解すればよいのでしょうか。片や人知れずぼろぼろになって亡くなり、片や常に音楽界の第一線でいまだに活躍中。この対称的な人生を歩んだ二人ですが、音楽にかける情熱は同じように激しかったのでしょう。どちらが勝ち、負けということはありませんが、この違いはどこから来るのでしょう。改めて人生の不可思議さを思い知らされる二人の生き方でした。あっ、ロジャースはまだ終わっていませんね。失礼しました。ポール・ロジャースの今後の活躍を祈ります。

なお、フリーの全貌は5枚組CD『Songs Of Yesterday』で聴くことが出来ます。

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 それでは今日はこの辺で。