1977年(昭和52年)、この年の牡馬4歳馬(現在の3歳馬)の牡馬3冠レースは、皐月賞がハードバージ、日本ダービーがラッキールーラ、菊花賞がプレストウコウでした。
しかし、これらの馬の評価が今一つ上がらないのは、この3冠レースに出走できなかった、超怪物がいたからです。イギリスの3冠馬、ニジンスキーの持込み馬、マルゼンスキーです。持込馬とは母馬が国外で種付けされ、国内で出産した馬のことで、当時は外国産馬と同等の扱いで、クラシックレースはおろか大半の重賞レースには出走できませんでした。出走できる八大競争は有馬記念位のものでした。
マルゼンスキーは3歳時の10月の新馬戦を大差勝ちすると、続くいちょう特別を9馬身差で圧勝。続いて府中3歳ステークスに出走して、北海道3歳ステークスを勝ったヒシスピードとの接戦を制しました。この時のレースを騎手の中野渡も調教師の本郷も油断だったと述懐しています。
そして3歳馬のチャンピョンを決める朝日杯3歳ステークスに駒を勧めます。ここで前走のヒシスピードと再戦しますが、今度は圧倒的な強さで13馬身差の大差勝ちをします。後ろの馬がテレビに映らないほどでした。
明けて4歳になり、正月のオープン戦を再び大差勝ちして、ファンは3冠レースの出走を希望しますが、それは規定上無理でした。騎手も調教師も「ほかの馬の邪魔をしないように大外枠でいいから出してもらいたい。賞金もいらない。」と本音をこぼします。ダービー前のオープン戦も7馬身差で楽勝します。
ダービーはラッキールーラが制しますが、ファンの心理「はマルゼンスキーが出ていれば」というものでした。
ダービー後の6月、当時「残念ダービー」と呼ばれたレースの「日本短波賞」に出走します。この年は中山競馬場での開催でした。満員に膨れ上がった中山競馬場。NHK杯を勝ったプレストウコウも出走してきました。マルゼンスキーの単勝オッズは1.0倍。レースはプレストウコウに7馬身差の1着。後にプレストウコウが菊花賞を制するのを見てもマルゼンスキーの強さがわかります。このレースでは4コーナーで一旦後続馬に並びかけられるという危ない場面がありましたが、直線に入ると一気に突き放しました。馬が遊んでしまったようです。
7月の夏競馬。札幌のダート戦。短距離ステークスに出走を決めます。このレースには1歳上のトウショウボーイが出走を予定しているとの噂もあり盛り上がりましたが、結局トウショウボーイは出走せず、またまたヒシスピードを相手に10馬身の大差をつけて優勝します。
この後マルゼンスキーは脚部不安になり、直行で有馬記念を目指すことになりました。有馬記念にはトウショウボーイ、テンポイント、グリーングラスのT.T.Gが待ち受けています。ファン投票ではこの3頭に続く4位で出走資格を得ていました。しかし、直前にななってやはり脚部を痛がる様子が見られ、結局出走を回避しました。
その後、マルゼンスキーには出走できるレースが宝塚記念か有馬記念ぐらいしかないということからそのまま引退することになりました。
1978年の1月に中山競馬場で引退式が行われました。そして種牡馬生活に入りました。全成績8戦8勝。
種牡馬としても、ダービー馬サクラチヨのオー、菊花賞馬ホリスキー、レオダーバン、宝塚記念馬スズカコバンなど多くの重賞ウィナーを輩出しました。ブルードメアサイアー(母の父)としても多くのG1馬を輩出しています。
競馬がブラッドスポーツと言われる所以です。ニジンスキーの代表産駒であることは間違いないでしょう。
マルゼンスキーとトウショウボーイ、テンポイントの勝負、観てみたかったな、と今でも思います。
それでは今日はこの辺で。