Flying Skynyrdのブログ

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この人の、この1枚 『ボニー・レイット(Bonnie Raitt)/ニック・オブ・タイム(Nick Of Time) 』

ブルース・シンガー兼ギタリストとして1971年にデビューしたボニー・レイット(Bonnie Raitt)』

デビューアルバムの『Bonnie Raytt』は日本では発売されず、2作目の『Give It Up』が日本でのデビュー作となりました。

ファーストアルバムはブルースマンジュニア・ウェルズを迎えるなどブルース色の濃いアルバムとなりました。続くセカンドではウッドストックでの録音でエリック・カズジャクソン・ブラウンの曲なども取り上げ、ウッドストック色の強いアルバムとなりました。この2作とも非常に好きなアルバムです。が、商業的には成功しませんでした。

その後も1986年までに合計9枚のアルバムを発表しましたが、いまいちレコードの売り上げは上がりませんでした。ここでワーナーブラザーズは契約を打ち切りました。

代わってキャピトルと契約を交わします。そしてプロデュースにウォズ・ノット・ウォズのドン・ウォズを迎えて10作目の『ニック・オブ・タイム(Nick Of Time) 』をリリースします。1989年のことでした。

01.Nick of Time

02.Thing Called Love

03.Love Letter

04.Cry on My Shoulder

05.Real Man

06.Nobody's Gir

07.Have a Heart

08.Too Soon to Tell

09.I Will Not Be Denied

10.I Ain't Gonna Let You Break My Heart Again

11.The Road's My Middle Name

 

ゲストにデヴィッド・クロスビーグラハム・ナッシュファビュラス・サンダーバーズウォズのメンバー、ジャズ界からハービー・ハンコックなどを迎えレコーディングされました。

ブルースを基調としながらも幅広いジャンルの音楽が聴けます。そしてより聴きやすくなっています。特異のスライドギターも十分楽しめます。

ちょうどAORが盛んな頃で、そんな流行にも乗ったのでしょう、全米1位を獲得し、3部門でグラミー賞を獲得しました。

ここからボニー・レイットの快進撃が始まります。

1991年にはLuck of the Drawをリリース。

このアルバムも全米2位、グラミー賞も3部門で獲得します。

 

続いて1994年にはLonging in Their Heartsをリリース。

Longing in Their Hearts

このアルバムも全米1位を獲得します。レヴォン・ヘルムリチャード・トンプソンも参加しています。

 

1995年には初のライブRoad Testedをリリースします。しかも2枚組です。

ゲストにブライアン・アダムスジャクソン・ブラウン、大御所ルース・ブラウンブルース・ホーンスビーなどを迎えています。

 

その後も活躍し現在68歳。1980年にはジャクソン・ブラウンが企画・主催した反原発コンサート「ノー・ニュークス」にも参加したり、社会活動にも熱心にかかわっています。

 

それにしてもレコード会社とプロデューサーの変更がここまでアーティストの運命を変えるとは驚きです。

それでも初期の傑作2枚は忘れることはできません。

 

 

 


Bonnie Raitt - Thing Called Love


Bonnie Raitt - Runaway (Live 1977)


Bonnie Raitt - Love Letter (Live at Farm Aid 1990)

 

それでは今日はこの辺で。

芦毛対決は!タマモクロスとオグリキャップ

 

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私が芦毛馬と聞いてすぐ頭に浮かぶのは、シービークロスメジロティターンメジロマックイーンウィナーズサークルクロフネ、最近ではゴールドシップあたりでしょうか。しかし忘れてならないのはやはりタマモクロスオグリキャップでしょう。

 

1988年この両馬の対決が競馬界を沸かせました。

タマモクロスは3~4歳時(当時)は鳴かず飛ばずでクラシックには全然縁がありませんでした。4歳の10月にようやく400万下を勝ち上がり、ここから連勝が始まります。もともとシービークロスの仔で素質は買われていましたが遅咲きでした。

条件戦を連勝すると、4歳暮れの鳴尾記念で重賞初制覇を果たします。明けて5歳、京都の金杯阪神大賞典と重賞3連勝を飾り、春の天皇賞に駒を進めました。当然1番人気で相手は菊花賞有馬記念勝馬メジロデュレン、前年のクラシックを沸かせたゴールドシチー、ダービー馬メリーナイス、前年の2着馬アサヒエンペラーあたりです。

結果は2着に入った人気薄のランニングフリーに3馬身差をつけての圧勝でした。メジロデュレンが3着でした。タマモクロスはこれで重賞4連勝を含む6連勝を飾りました。


第97回天皇賞(春) タマモクロス

続く宝塚記念は前年の天皇賞(秋)からマイル・チャンピョンシップ、安田記念とG13連勝中のニッポーテイオーに1番人気を譲りますが、両馬とも単枠に指定されました。レースは2馬身半差の完勝でした。宝塚記念の2200メートルという微妙な距離がニッポーテイオーに響いたのかもしれません。


1988年 宝塚記念 タマモクロス

 

そしてタマモクロスはこのまま秋の天皇賞へと向かいます。

 

この年の春に地方の笠松競馬場で重賞5勝を含む8連勝を飾り、通算12戦10勝の成績を引っ提げて中央競馬に殴り込んできた馬がいました。それがオグリキャップです。ハイセイコーの再来と騒がれました。

いきなり中央初戦のペガサスステークス(GⅢ)を勝つと、毎日杯、京都4歳特別、ニュージーランドトロフィー4歳ステークスと中央受賞4連勝を果たし、ファンの度肝を抜き怪物に祭り上げられました。しかも前走はレコード勝ちでした。

続く古馬混合の高松宮杯(当時はGⅡ)に出走。前年の勝馬ランドヒリュウを抑え、これまたレコード勝ちです。

そして秋初戦も毎日王冠を圧勝、秋の天皇賞に駒を進めます。

 

そしていよいよタマモクロスオグリキャップ芦毛対決が実現します。芦毛馬は走らないというジンクスなどどこかへ行ってしまったような騒ぎです。人気ではオグリキャップが1番人気に支持されました。それでもこの2頭が抜けていました。離れて3番人気にダイナアクトレスです。共に単枠指定です。

レースはタマモクロスがいつもより前で競馬をし、それをオグリキャップがマークするような形になりました。直線に入ってタマモクロスが抜けだすと、外からオグリキャップが追い込んできます。しかしその差は縮まらずそのまま1馬身4分の1の差でタマモクロスが優勝しました。5歳馬の貫録を見せました。史上初めての天皇賞春秋連覇です。1981年までは天皇賞は勝ち抜け制で、1度勝つと出走できませんでしたが、これが改正されて初めての快挙でした。オグリキャップは中央での初黒星になりました。

懐かしい大川慶次郎の解説です。


タマモクロス 第98回天皇賞(秋)

 

続いて両馬はジャパンカップで再び相まみえます。今度はタマモクロスが1番人気、オグリキャップは3番人気になりました。2番人気には凱旋門賞を勝ったトニービンが入りました。

レースは中団外を回ったタマモクロスが直線で一旦は先頭に立ちますが、アメリカ馬のペイザバトラーにかわされ2着になりました。オグリキャップは直線追い込みますが3着どまりでした。


第8回ジャパンカップ ペイザバトラー

 

そしていよいよ両馬の最終章、有馬記念です。今度も1番人気はタマモクロス、2番人気にオグリキャップ、3番人気には4歳ながらマイルチャンピョンシップを勝ったサッカーボーイ、4番人気がこの年の菊花賞を勝ったスーパークリークでした。

2戦連続でタマモクロスに後塵を拝したオグリキャップ陣営はそれまでの騎手を河内洋から岡部幸雄に変更しました。岡部はテン乗りになります。これまでもオグリキャップは地方時代は主に安藤勝己、中央では河内洋が乗っていましたが1度だけタマモクロスの南井克己が騎乗したことがありました。降ろされた河内洋サッカーボーイに騎乗しました。このレースはタマモクロスオグリキャップサッカーボーイの3頭が単枠に指定されました。

レースは例によってレジエンドテイオーの逃げで始まり、オグリキャップは中団、タマモクロスサッカーボーイが最後方という展開で進みます。最後の直線でオグリキャップが抜けだし、タマモクロスサッカーボーイが追い込みますが届かず、オグリキャップが念願のGⅠ制覇を果たしました。2着にオグリキャップ、追い込んだスーパークリークが3着入線もサッカーボーイの進路を妨害したことで失格、サッカーボーイが繰り上がりの3着になりました。

 

こうして1988年は4歳クラシックが今一つ盛り上がりに欠けましたが、芦毛対決に沸き上がり幕を下ろしました。

 

タマモクロスはこのまま引退しました。

 

オグリキャップ古馬になってからも活躍しましたが、5歳時はマイルチャンピョンシップは勝ちましたが、とうとう天皇賞ジャパンカップには手が届かず2着どまりでした。

 

そして6歳になると安田記念は勝ったものの、宝塚記念2着、秋の天皇賞6着、ジャパンカップ11着と衰えを感じさせるレース内容が続きました。そしていよいよ引退レースの有馬記念を迎えました。騎手は安田記念を勝った時の武豊に変えました。人気の方は4番人気になっていました。上位人気は4歳馬の芦毛馬ホワイトストーン、メジロライアン、それにメジロアルダンが占めました。ほとんどの人がオグリキャップには買って欲しいが無理だろうと思っていたのではないでしょうか。

ところが奇跡が起きました。オグリキャップが直線鮮やかに抜け出し、見事にラストラン飾ったのです。このレースは未だに語り継がれる名勝負になりました。

 


平成2年(1990)有馬記念 オグリキャップ

 

オグリキャップの登場で第2次競馬ブームが沸き起こり、競馬場は凄い騒ぎになりました。指定席は徹夜組が出るほどの賑わいです。私も指定席を手に入れるのにずいぶん苦労した記憶があります。

 

それでは今日はこの辺で。

 

極上のメロディー・メーカー『トッド・ラングレン(Todd Rundgren)/Something/Anyting?』

アメリカはペンシルヴェニア州出身のマルチロックミュージシャン、トッド・ラングレン(Todd Rundgren)』。生まれは1948年ですから現在69歳です。

トッドはミュージシャンとしても有名ですが、プロデュースやミキシングでも数多くのアーティストを手掛けてきました。ザ・バンドジェシ・ウィンチェスター、グランド・ファンク、バッド・フィンガー、ホール&オーツ、バターフィールド・B.B、フェリックス・キャバリエミート・ローフリック・デリンジャー、チープ・トリック、XTCなどなど、ざっと挙げただけでもこれだけの名前が出て来ます。さらにプレイヤーとしての参加も数多くあります。カヴァーされた楽曲も数え切れないくらい程です。とにかくマルチナプレイヤーとして知られています。

トッドは1967年に『ナッズ(The Nazz)』を結成します。当時流行っていたサイケデリック・ロックでアルバムを立て続けに3枚出して注目を集めました。しかし、1970年にはナッズを解散します。

そして1970年にソロになってのファーストアルバムRunt(ラント)がリリースされます。

とにかくトッドの声は甘く切なく、ポップチューンを歌うのにピッタリです。このアルバムでも早くも甘いポップ感覚が花開きつつあります。

 

そして翌年、セカンドアルバムRunt: The Ballad of Todd Rundgrenをリリースします。

なんとも不気味なジャケットですが、中身は前作の延長線上にありますが、タイトル通りバラードが多くなっています。ロック色も強くなっています。

 

そして1972年に今日の一枚Something/Anyting?がリリースされます。2枚組でした。

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Side A

1.I Saw the Light

2.It Wouldn't Have Made Any Difference

3.Wolfman Jack

4.Cold Morning Light

5.It Takes Two to Tango (This Is for the Girls)

6.Sweeter Memories

 

Side B

1.Intro

2.Breathless

3.The Night the Carousel Burnt Down

4.Saving Grace

5.Marlene

6.Song of the Viking

7.I Went to the Mirror

 

Side C

1.Black Maria

2.One More Day (No Word)

3.Couldn't I Just Tell You

4.Torch Song

5.Little Red Lights

 

Side D

1.Overture–My Roots

2.Dust in the Wind

3.Piss Aaron

4.Hello It's Me

5.Some Folks Is Even Whiter Than Me

6.You Left Me Sore

7.Slut

 

ギターでリック・デリンジャー、エイモス・ギャレット、ベン・キースが参加しています。2枚目の途中までは全てトッドによるレコーディングです。

 

1枚目のオープニングは大ヒット曲「I Saw the Light」です。まずこれでやられます。1枚目は全体的にこれまで通りポップな曲を揃えています。

2枚目になるとハードロック的なものや、プログレッシブ的なものまでロック色が強く出ており、トッドの音楽性の幅広さが伺えます。Side Dの4も彼の代表曲になったポップな曲です。

 

翌1973年には4枚目のアルバムA Wizard, a True Starを、さらに1974年にはToddをそれぞれリリースします。

   

これまでのポップロックから前作の2枚目で魅せた音楽の多様性を引き継いでいます。かなり実験的な曲も含まれています。

 

この後、トッドは自身のバンドユートピアを結成します。以後はトッド・ラングレンズ・ユートピアとして活動することになります。アメリカ版プログレッシブロックです。

 

トッドは有り余る才能を、どんどん広げて、ロックだけに収まり切れないところまで行ってしまったようです。日本人アーティストのプロデュースなども手掛けていたようです。

近年の動向は不明ですが、彼のことですからまたとんでもないことをやっているのではないでしょうか。

 

 


Todd Rundgren - I Saw The Light (1972)


Todd Rundgren - Hello It's Me (1972)


Todd Rundgren "Marlene"

 

それでは今日はこの辺で。

幻の3冠馬 サクラスターオー

 

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1987年の牡馬クラシック戦線はやや戦国模様を呈していました。その原因は前年の最優秀3歳牡馬に選出されたメリーナイス皐月賞トライアル、フジテレビ賞スプリングステークスで9着に大惨敗を喫するという結果に終わり、俄かに弥生賞を勝ったサクラスターオーとトライアルでメリーナイス以下を一蹴したマティリアルに人気が集まってきました。

サクラスターオー弥生賞を6番人気ながら3歳重賞を連覇したホクトヘリオスを破り人気になりました。一方マティリアルはパーソロンスピードシンボリという良血がかわれ寒梅賞の勝ち方からトライアルでも1番人気に押され、後方一気の鮮やかな勝ち方で優勝しました。

これで皐月賞はマティリアルが1番人気、サクラスターオーが2番人気、共同通信杯を勝ったマイネルダビデが3番人気、トライアル2着のバナレットが4番人気、ホクトヘリオスは5番人気。そしてメリーナイスは8番人気まで人気を落としました。

 

レースはサクラスターオー、マティリアル共に後方待機。直線に向かって大混戦の中、外から一気にサクラスターオーが追い込んでそのまま先頭ゴールイン。マティリアルはさらに外に回して強襲したものの3着どまりでした。2着には人気薄のゴールドシチーが入り、メリーナイスは7着に終わりました。

2着のゴールドシティーは人気が落ちていましたが、阪神3歳ステークスの勝馬メリーナイスと共に最優秀3歳牡馬に選ばれていました。トライアル6着で盲点になっていました。マティリアルは名手岡部幸雄をもってしても前が詰まり脚を余した感じでダービーへの期待は一層高まりました。


1987 皐月賞

 

しかし、この後勝ったサクラスターオーを悲劇が見舞います。繫靭帯炎を発症してダービーを断念せざるを得なくなったのです。

 

ダービーはマティリアルが当然のことながら1番人気、ゴールドシチーが2番人気、毎日杯勝馬で、トライアルのNHK杯で4着のダイゴアルファが3番人気、メリーナイスは4番人気に押されました。サクラスターオーの戦線離脱、NHK杯を勝ったモガミヤシマが回避となって人気がマティリアルに集中しました。当然の単枠指定でした。

 

レースは終始好位につけたメリーナイスが直線抜けだし優勝、2着には22番人気のサニースワローが、3着には5番人気の二ホンピロマーチが入り、枠連6280円の大荒れとなりました。ゴールドシチーは追い込みましたが4着。マティリアルは前目の競馬をしていましたが直線全く伸びず18着と大敗しました。馬体重は16キロ減と寂しい体になっていたのも原因していたのかもしれません。

勝ったメリーナイスは最優秀3歳馬の名誉を回復した格好になりました。メリーナイスは後に映画『優駿』の主役オラシオンのモデルになった馬です。懐かしいです。


1987 日本ダービー

 

最後の3冠レース、秋の菊花賞にはダービー馬のメリーナイスセントライト記念を勝って勇躍西下、1番人気に支持されました。2番人気にはクラシックの常連になったゴールドシチー、3番人気には条件戦を勝ち上がったウィルドラゴン、長距離血統が買われたようです。セントライト記念で7着に沈んだマティリアルは4番人気になりました。そして皐月賞サクラスターオー皐月賞からのぶっつけで菊花賞に臨んできました。人気は9番人気と当然ながら人気薄になりました。

そしてなんとサクラスターオーが見事に復活勝利を挙げたのです。私の記憶する限り、この当時これだけの長期休養明けでクラシックを勝った馬はいなかったのではないでしょうか。返す返すもダービー不出走が残念です。タラレバはありませんが、もし出走していたら、などと考えてしまいます。フジテレビ放送の競馬中継で関西テレビの杉本アナウンサーの「菊の季節にサクラが満開!」の名アナウンスが忘れられません。

2着にはゴールドシチー、3着にユーワジェームスメリーナイスは9着、マティリアルは13着と大敗しました。


1987 菊花賞

 

しかし、この後サクラスターオーを更なる悲劇が襲います。この年の有馬記念にファンの圧倒的支持のもとに出走に踏み切ったのです。本来であれば翌春の天皇賞を目指すところですがファンの要望に応えた感じです。

当然ながらサクラスターオーが1番人気に支持されます。2番人気にダイナアクトレス、3番人気にメリーナイスが入りました。

 

レースの方はなんとメリーナイスがスタート直後に落馬、さらにサクラスターオーが2週目の第3コーナーから第4コーナーにかけて異変発生、東信二騎手が下馬します。競争中止です。診断は左前脚繋靱帯断裂・第一指関節脱臼でした。通常なら安楽死処分ですが大勢のファンの熱望により治療を続けることになりました。しかし手当の甲斐なく翌年5月に自立不能に陥り安楽死処分になりました。テンポイントを思い出しました。

 

なおこのレース結果はメジロデュレン1着、2着にユーワジェームス、3着ハシケンエルド、10番、7番、14番人気の決着で大荒れ、枠連16300円でした。メジロデュレンは大荒れ馬券が良く似合います。

 


1987 有馬記念

 

サクラスターオーパーソロンインターメゾという良血馬。無事でいたら多くの活躍場を輩出したことでしょう。幻の3冠馬でした。

 

それでは今日はこの辺で。

ザ・フー(The Who)の最高傑作 『フーズ・ネクスト(Who's Next)』

 

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キンクスに続いてはザ・フーです。

ザ・フー(The Who)』については今更くどくど述べるほどのことも無いと思いますが、簡単なプロフィールだけを書きます。

ザ・フーの不動のメンバー4人が顔を揃えて出来たバンドがザ・ハイナンバーズというバンドでした。4人のメンバーというのが

ピート・タウンゼント(Pete Townshend,g,vo,key)

ロジャー・ダルトリー(Roger Daltrey,vo,harmonica)

ジョン・エントウィッスル(John Entwistle,b,vo)

キース・ムーン(Keith Moon,ds)

でした。

1964年、彼等はフォンタナからシングルデビューします。しかしレコードは不発でした。その後、アメリカの敏腕プロデューサー、シェル・タルミーに見いだされ、ブランズウィックと契約を交わし、バンド名をザ・フーと改め再デビューしました。そのシングル「I Can't Explain」が全英8位を記録し、続く「My Generation」は全英2位となりザ・フーは一躍人気バンドの仲間入りを果たしました。

そして1965年にファーストアルバム『My Generation』をリリースします。

その後もシングルヒットは飛ばしますが、アルバムの売行きは陰りが出て来ます。

1966年、1967年にアルバム『Quick One』『Sell Out』をリリースします。

 

 

この頃、イギリスではモッズ族と呼ばれる若者たちがいました。ザ・フーは彼らの熱狂的な支持を得ていました。モッズ(Mods)とはModernsの略で音楽、ドラッグ、車そして新しいファッションに基づくライフスタイルのことです。

一方バンドの方はというと、常に一触即発でいつ解散になってもおかしくないくらいに、メンバー間やプロデューサー、マネージャー間のトラブルが絶えませんでした。

モンタレー・ポップ・フェスティバルの出演でアメリカでの人気は高まりました。モンタレーでのステージは度肝を抜くものでした。出演順でジミ・ヘンドリックスと争い、結局ジミヘンの後に出たのですが、ギターやドラム、アンプを破壊するという暴力的なステージがアメリカでの人気を高めました。争いで負けたジミヘンはギターを燃やすというさらに過激なステージを披露したのは有名です。このステージとウッドストックのステージを観たときには本当に驚きました。ロジャー・ダルトリーはマイクを振り回し、ピート・タウンゼントは飛び跳ねまわり、とにかく派手なパフォーマンスでした。

シングルの売行きにも陰りが出て、ザ・フーの存続も危ぶまれてきました。ヒット曲の量産に限界を感じたピート・タウンゼントは新たにロックオペラの構想を練り、半年かけて1969年に2枚組のロックオペラアルバム『Tommy』をリリースします。

これが大ヒットとなり、ザ・フーの新たな境地が開かれます。メンバー間のいざこざも収まります。

続いて初のライブアルバム『Live At Leeds』をリリースします。

これも大ヒットアルバムになりました。

ピート・タウンゼントはさらに新たなロック・オペラ「ライフハウス」を企画します。しかし周囲の反対に遭い頓挫します。そしてこのために作られていた楽曲を集めて新たなアルバムが作られました。それが『フーズ・ネクスト(Who's Next)』です。

Side A

1.Baba O'Riley

2.Bargain

3.Love Ain't for Keeping

4.My Wife

5.The Song is Over

 

Side B

1.Getting in Tune

2.Going Mobile

3.Behind Blue Eyes

4.Won't Get Fooled Again

 

ニッキ―・ホプキンスがゲスト参加、プロデュースはグリン・ジョンズです。

このアルバムはザ・フーにとって初めての全英1位を獲得したアルバムです。全米では4位です。

ピート・タウンゼントは当初「ライフハウス」のために書かれた楽曲でもあり、発売に難色を示していましたが、後年は自分の絶頂期の作品だと認めています。

なお、「ライフハウス」の残った曲は未発表曲集『Odds & Sods』及びタウンゼントのソロアルバム『Who Came First』に収められました。

   

 

『Who's Next』は楽曲ももちろん素晴らしいのですが、シンセサイザーを導入したことによって、今聴いても古さを感じさせない、当時のハードロックにとっては斬新な音作りでした。

 

このあと長期休養を挟んで1974年、再びロックオペラ四重人格(Quadrophenia』をリリースします。

このアルバムも大ヒットし、全米、全英共に2位を記録します。

そして1975年にThe Who By Numbers』をリリースします。

久しぶりに、通常ののハードロックアルバムになりました。

 

そして1978年に『Who Are You』がリリースされます。

そしてこのアルバムがキーズ・ムーンの遺作となりますた。キース・ムーンはかつてからアルコールとドラッグによる体の異常が取りざたされていました。このアルバムがリリースされた8月から約1か月後の9月7日にドラッグの過剰摂取で亡くなりました。32歳の若さでした。

この翌日、ピート・タウンゼントキース・ムーンの哀悼の意とザ・フーの存続を表明しました。

キース・ムーンの後任にはフェイセズケニー・ジョーンズ (Kenney Jones)を起用しました。

 

1981年と1982年にそれぞれ『Face DancesIt's Hard』をリリースします。

 

 

しかし再びメンバー間に不協和音が目立ち始めます。ロジャーはケニー・ジョーンズのドラムが気に入らず、ピートにケニーを辞めさせろと迫ります。ケニーはピートを非難します。1983年、ピートはとうとう、バンドを脱退すると宣言し、こうしてザ・フーは正式に解散となりました。ピートもドラッグに染まっていました。

そしてこの年の12月に最後のライブを開催しました。この模様をライブアルバム『Who's Last』に収めました。

ここにはザ・フーの代表曲が網羅されています。ラストアルバムにふさわしいものとなりました。最後の曲はジョン・エントウィッスルがうたう「Twist And Shout」でした。

 

こうしてザ・フーの歴史は閉じられました。と、思いきや1985年にライブエイドで再結成します。その後も度々ライブ活動を行い、2006年には24年ぶりのスタジオ録音アルバムを発表しました。

 

簡単なプロフィールを書くつもりが長々となってしまって、肝心な『フーズ・ネクスト』についてはちょっとだけになってしまいました。なんともいい加減です。

結論としては、やっぱりザ・フーは偉大なバンドでした。

 


The Who - Summertime Blues - Monterey 1967 (live)

 


The Who - Baba O'Riley


The Who - Won't Get Fooled Again


The Who, Woodstock 1969 - Pete's closing solo

 

それでは今日はこの辺で。

牝馬3冠の陰で 牡馬3冠レースは

 

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久しぶりの競馬記事になります。

前回は1986年の牝馬3冠に輝いたメジロラモーヌについて書きましたが、その陰で牡馬の3冠レースはどうだったのでしょう。

 

まず3歳時(今の2歳)に凄い馬が現れました。ダイシンフブキです。騎手は菅原泰夫。9月の中山のデビュー戦を4馬身差で勝ちあがり、続く東京の特別戦りんどう賞も3馬身差で勝ちます。

続くレースは京成杯3歳ステークスです。このレースには後の牝馬3冠のメジロラモーヌが出走してきました。5頭立てと寂しいレースになりました。ダイシンフブキは2番人気になりました。レースの方はメジロラモーヌが大きく出遅れ、ダイシンフブキが直線抜けだし3馬身半差の楽勝でした。

続く朝日杯3歳ステークスも12頭立てと朝日杯としてはやや寂しいレースになりましたが、ダイシンフブキ単勝170円という圧倒的人気で出走しました。レースの方も女傑ダイナアクトレスの追い込みを交わし優勝、最優秀3歳牡馬に選ばれました。

 

しかしこの年はその他に目立った馬がおらず、牝馬に比べ寂しいクラシック戦線になりました。

明けて4歳、クラシック戦線は1月の京成杯牝馬ダイナフェアリーシンザン記念がフレッシュボイス、2月の共同通信杯ダイナガリバーきさらぎ賞フミノアプローズ、そして3月の弥生賞ダイシンフブキ毎日杯がフレッシュボイス、皐月賞トライアルフジテレビ賞スプリングステークスサニーライト勝馬が目まぐるしく変わる混戦模様となりました。

 

そして迎えた皐月賞。1番人気には当然ながら5連勝中のダイシンフブキ、2番人気には共同通信杯を勝ったダイナガリバー、3番人気には弥生賞1番人気ながら4着に敗れたアサヒエンペラー、重賞連覇中のフレッシュボイスが4番人気に、弥生賞2着のダイナコスモスは5番人気になりました。

 

レースはダイシンフブキが好位置につけ、直線抜けだすかと思われましたが、意外と伸びず、ダイナコスモスが抜けだし、フレッシュボイスの追い込みを制し優勝しました。3着にアサヒエンペラーが入り、ダイシンフブキは7着と惨敗しました。

ダイシンフブキは戦前から2000メートルは長すぎるとの見方がありましたが、同距離の弥生賞を勝っていたため1番人気に支持されたのでしょう。レース後には骨折が判明し、そのまま引退となってしまいました。その後種牡馬入りするも目立った活躍は産駒は出ませんでした。


1986 皐月賞

 

そしてダービートライアルNHK杯は関西の刺客ラグビーボールが制し、関西の最終キップ、京都4歳特別はエイシンガッツが勝ち東京に乗り込んできました。

そしていよいよ東京優駿日本ダービー)です。

1番人気にはNHK杯を勝ったラグビーボールが押されました。未知の能力が変われたのでしょう。2番人気には皐月賞馬のダイナコスモス、3番人気にはダイナガリバー、4番に気にはNHK杯2着のシンチェスト、5番人気にサニーライトが入りました。23頭立てのレースとなりました。当時はまだまだ18頭立てではありませんでした。前年より24頭立ての制限が付きました。それまでは28頭立てでした。そして1991年からは20頭、1992年から現在の18頭になりました。

 

レースは直線で先頭に立ったダイナガリバーが内で粘るグランパスドリームをかわし優勝しました。2着のグランパスドリームは青葉賞2着ながら14番人気の馬でした。3着にアサヒエンペラー、1番人気のラグビーボールは4着、皐月賞馬のダイナコスモスは5着と敗れました。勝ったダイナガリバーは好素質馬として期待され、共同通信杯も勝っていましたが、皐月賞での10着大敗が懸念されて3番人気になっていました。皐月賞の敗因はスプリングステークスが大雪のため1週延期になり、ぶっつけでの皐月賞出走が影響したようです。しかしダービーで見事うっぷんを晴らしました。

 


1986年日本ダービー - ダイナガリバー

 

そして3冠最終レース、菊花賞に向けて秋のレースはセントライト記念でダービー14着のレジェンドテイオー神戸新聞杯が同じくダービー18着のタケノコマヨシが勝って混戦模様に拍車をかけました。トライアルの京都新聞杯神戸新聞杯に続きタケノコマヨシが制しました。

そしていよいよ菊花賞。1番人気はダービー後高松宮杯を制し、京都新聞杯5着のラグビーボール、2番人気は連勝中のタケノコマヨシです。3番人気はセントライト記念を勝ったレジェンドテイオー、4番人気にサニーライト、ダービー馬のダイナガリバーは5番人気でした。セントライト記念京都新聞杯共に4着と振るわず人気を落としました。

レースはレジェンドテイオー以下が逃げ、ダイナガリバーが前目の中団、ラグビーボールタケノコマヨシは後方からの競馬になりました。直線に入りダイナガリバーが内から先頭に並びかけ、それにメジロデュレンが襲い掛かり、後方からラグビーボールタケノコマヨシが追い上げるという展開になり、結局メジロデュレンが半馬身差ダイナガリバーを押さえ優勝しました。3着にはラグビーボールタケノコマヨシは5着でした。

メジロデュレンは前走の条件戦、嵐山特別3000メートルを勝っており長距離特性があるということで6番人気に押されていました。グリーングラス以来長距離の特別戦を勝った長距離血統の馬が穴をあけるという菊花賞のジンクスが生きました。


1986 菊花賞

 

この年活躍した4歳牡馬はその後ダイナガリバーがこの年の有馬記念を、翌年の有馬記念メジロデュレンが10番人気で制しており、再び穴をあけました。フレッシュボイスは翌年の安田記念を勝ちました。

 

しかしトータルで見ると、この年の牡馬クラシック戦線は牝馬に比べると抜けた馬がおらず、地味な印象を受ける年でした。

しかしこの後続々と名馬が登場します。

 

それでは今日はこの辺で。

6カ月検診でした。

今日は手術後6カ月目の検診でした。コルセットを外してから初めての診察です。

レントゲン撮影、CTスキャン撮影の後診察でした。

結果は良好、骨も完全にくっついたそうです。

「腰痛 イラスト」の画像検索結果

 

ただし、手術前からの症状だった、脚部に力が入らない(筋力の低下)は一向に改善しません。

その辺を伺ったところ、神経がやられているので、回復するかどうかは分かりませんとのこと。神経が生きていれば、訓練次第では回復するし、神経が死んでいれば現状のままです、とのこと。あと半年くらい様子を見ましょうとのこと。

それでも痛みと痺れが無くなっただけでも良しとしなければいけませんね。考えてみればあの苦痛から解放されただけでも満足しなければ罰が当たります。

以前のようにジョギングや長時間のウォーキングもしたいのですが、現状ではとても無理です。

脊柱管狭窄症とすべり症を患っている方は、早急な手当てをしたほうが賢明なようです。

私のように何年も我慢した生活を送っていると、神経がやられてしまいます。そうなってからでは遅いので、なるべく早い処置が必要です。

私も今になって、もっと早く手術していればよかった、などと思ったりしていますが、後悔先に立たずで、致し方ありません。すべては優柔不断な性格からきているのであきらめます。

 

次の診察は半年後になりました。それまでに少しは筋力が回復することを祈って。

 

それでは今日はこの辺で。