Flying Skynyrdのブログ

映画や音楽、本についての雑文

獅子の分け前 『ライオンズ・シェア(Lion's Share)』

今日も我が家のCD棚を掘り起こして見つけました。ライオンズ・シェア(Lion's Share)です。ライオンズ・シェアと言っても『サヴォイ・ブラウン(Savoy Brown)』の『ライオンズ・シェア』ではありません。

 

1987年にスウェーデンのスンズヴァルというところで結成されたバンドです。

中心メンバーケイ・バックルンド(Kay Backlund,key)ラース・クリス(Lars Chris,vo)でした。

翌年の1988年にはシングルをリリースします。が、その後は沈黙し、1993年にアンディ・イングベルグ(Andy Engberg,vo)、アンディ・ルース(Andy Loos,b)、ヨハン・コールベルグ(Johan Koleberg,ds)を加えて復活します。

 

そして1994年にファーストアルバム『Lion's Share』をリリースします。

 

01.Sins of a Father

02.Arabia

03.Scarecrow

04.Play by the Rules

05.Judgment Day

06.Nothing's Free

07.Haunted

08.Just in Time to Be Late

09.Taking On The World

10.Searching for Answers

 

プロデュースはラース・クリスです。

 

ZEROコーポレーションということで聴く前からある程度の想像は出来ましたが、ほぼ想像通りの音でした。

北欧特有のプログレッシヴ・メタルです。プログレッシヴ・メタルはそれほど好んでは聴きませんが、このファーストアルバムは非常に聴きやすいです。そこまでプログレしていなくて、どちらかというとメロハーに近いものが有ります。

キーボードがそこまで出しゃばることもなく、ギターソロもそこそこで、ヴォーカルは哀愁漂っていい感じです。メロディーもキャッチ―で聴きやすくポップに仕上がっています。

 

ライオンズ・シェアのその後は追いかけていませんが、2009年までにアルバムを5枚ほど出しているようです。

 

この前、友人K.K君と話した時に、死ぬまでに持っているレコード・CDを全て聴き直すことはもう不可能になったね、という結論に達しました。その通りです。こうして忘れていたレコード・CDをどれだけ見つけられるかがこれからの楽しみです。

 


Lion's Share - Sins of a father (1995)


Lion's Share - Arabia (1995)


Lion's Share - Searchin' for Answers

 

それでは今日はこの辺で。

絶品バラード『スティールハート(Steelhert)』

スティールハート(Steelhert)が華々しいデビューと共に世界中に知れわたったのが1990年です。それから3年後には不幸な事故により活動休止に追い込まれ、その後一旦は復活するも結局はそのまま長い長い活動休止状態に陥ってしまったバンドでした。

 

そもそものスタートは古く1981年にコネティカット州ノーウォークで結成されました。

クリス・リゾーラ(Chris Risola,g)

ジェームス・ワード(James Ward,b)

マイケル・マティアヴィッチ(Michael Matijevic,vo)

ジョン・ファウラー(John Fowler,ds)

フランク・ディーカスタンゾ(Frank Dicostanzo,g)

 

この5人が『Red Alert』というバンド名で活動を開始しました。デモテープの制作などを始めますが、どこのレコード会社も興味を示しませんでした。しかたなくローカル・クラブで演奏を続けていました。そんな時、その後マネ-ジャーになるスタン・ボーゼスと知り合います。そして彼の紹介でMCAと契約することになります。契約後『Red Alert』という名前が既に使われていることは判明し、バンド名を『Steelheart』に変更します。

そしてファーストアルバムがレコーディングされ世界に先駆けて日本で発売されるという運びになりました。

ファーストアルバムは『STEELHEART』です。

 

これは日本盤のジャケットです。アメリカ盤はこちらです。

 

このアルバムはアメリカでもビルボードの40位に入るヒットなり、シングルの「She's Gone」はインターナショナルチャートの1位になる大ヒットとなりました。

 

この「She's Gone」は絶品メロハーです。アメリカのバンドがこんな曲を作るのも驚きですが、日本での先行発売も納得です。

昨日紹介した『スキン(Skin)』はイギリスのバンドなのにアメリカの香りがしましたが、スティールハートは逆にアメリカのバンドなのにヨーロッパの香りがします。

というのもヴォーカルのマイクは元々両親ともに欧州の人でマイク自身もクロアチア生まれで7歳の時にコネティカット州に移住したようです。

4オクターブの声域を持つハイトーンヴォイスはヘヴィメタルのために生まれてきたようなものです。

 

1992年にセカンドアルバム『Tangled in Reins』をリリースします。

このアルバムはビルボードの144位にとどまりました。

そして不幸が起こります。アルバムのプロモーションツアー中のライブで照明器具が落下するという大事故が発生します。これにヴォーカルのマイクが巻き込まれ頭蓋骨や顔面、背骨などを骨折するという傷を負います。

そのためバンドはマイクの回復を待つため長期の活動休止を強いられます。その期間4年、メンバーは去ってしまいます。

 

復帰したマイクは新たなメンバーを集め再起を図りました。ケニー・カナウスキ(Kenny Kanowski,g)、ヴィンセント・メレ(Vincent Mele,b)、アレックス・マカロヴィッチ(Alex Makarovich,ds)というラインナップでレコーディングを開始し、1996年、サードアルバム『Wait』を発表しました。

名義こそスティールハートになっていますが、多分にマイクのソロアルバム的要素が強いアルバムになりました。活動休止中に世の中も変わりました。グランジブームが沸き起こり、それに便乗しようとしたかのような印象を受けます。

 

こうして再びスティールハートは長い長い活動休止状態に入ります。

 

2006年にクリスが復帰しバンドは活動を再開します。

2008年には12年ぶりにアルバム『Good 2B Alive』をリリースします。さらに2017年には9年ぶりに『Through Worlds Of Stardust』を発表します。

 

残念ながらこの2枚は未購入です。あまり芳しい評価は聞いていません。

 

長い下積みを経て、華々しくデビュ―し、一世を風靡したにもかかわらず不幸な事故で世の中から忘れ去られてしまったスティールハート。人にもバンドにも様々な人生があります。

 


Steelheart - She's Gone


Steelheart - Sheila


Steelheart - Gimme Gimme

 

それでは今日はこの辺で。

『スキン(Skin)』再発見

レイによって我が家のレコード・CD棚を掘り起こしていたら、スキン(Skin)のアルバムを発見しました。しかも2枚もありました。買ったことすら忘れていました。

ということで早速プレイヤーに。するとこれがなかなかいいのです。ブリティッシュ・ハードロックですが、アメリカの匂いを漂わせています。

 

まず1枚目は彼らのデビューアルバムです。タイトルもそのまま『SKIN』です。1994年のリリースです。

01.Money

02.Shine Your Light

03.House Of Love

04.Colourblind

05. Which Are The Tears

06.Look But Don’t Touch

07.Nightsong

08.Tower Of Strength

09.Revolution

10.Raised On Radio

11.Wings Of An Angel

12.Monkey *

13.Should I Stay Or Should I Go *

* 日本盤ボーナストラック

 

メンバー

マイク・グレイ(Myke Gray,g)

ネヴィル・マクドナルド(Neville MacDonald,vo)

アンディ・ロビンス(Andy Robbins,b)

ディッキー・フライツァー(Dicki Fliszar.ds)

です。

プロデュースはグレイトフル・デッドフリートウッド・マックなどでおなじみのキース・オルセン(Keith Olsen)です。

 

スキン結成の経緯はマイク・グレイのバンド『Jagged Edge』が1991年に解散し、その後のことを考えていた時に、一緒にクラブサーキットをしていた『Kougar』のヴォーカリスト、ネヴィルに声をかけ曲作りを始めました。そこに『Jagged Edge』のベーシスト、アンディーを呼んでプレイしてみたのです。そしてブルース・ディッキンソンのツアーメンバーだったディッキーを加えて4人でバンドを結成することにしたのです。そしてパーロフォンとの契約に至りました。

彼らは『TASTE』と名乗り活動しましたが、『TASTE』はかつてロリー・ギャラガーのバンドであったこともあって、バンド名を変更せざるを得ませんでした。次には『OBSSESION』と名乗りましたが、これも既に存在していたため、結局名無しでレコーディングを開始しました。バンド名は300ほど書き連ねましたが、ネヴィルが何気なく書いた『SKIN』という言葉に決定しました。

アルバムリリース前にはリトル・エンジェルスやサンダーとの競演もあり、また先行シングルの売行きも上々でした。

こうしてファーストアルバムがリリースされました。

 

ネヴィルはポール・ロジャースやソウル・ミュージックに憧れているというように、どこか70年代のブリティッシュロックを感じさせてくれます。

 

そしてもう1枚は、1996年リリースのセカンドアルバム『Lucky』です。

01.Spit On You

02.How Lucky You Are

03.Make It Happen

04.Face To Face

05.New Religion

06.Escape From Reality

07.Perfect Day

08.Let Love Rule Your Heart

09.Juliet

10.No Way Out

11.Pray

12.One Nation

13.I'm Alive

14.Inside Me Inside You

15.I Believe *

16.Sweet Mary Jane *

17.Back Door Man *

* 日本盤ボーナストラック

 

キーボードでコリン・マクリード(Colin McLeod,key)が参加しています。

 

プロデュースはマーク・ドッドソン(Mark Dodson)に替わりました。

 

前作ほどは売れなかったようですが、前作以上にブリティッシュ・ハード&ヘヴィを感じさせてくれます。ネヴィルのヴォーカルはロッド・スチュワートのように何とも色っぽくて力強くまさにブリティッシュロックの真骨頂です。

 

スキンはこの後1997年にサードアルバムをリリースして、1998年には解散してしまいました。

僅か結成5年という短命に終わったバンドでした。この世界ちょっとやそっとでは生き残っていくのは難しいようです。

 

今回このCDを再発見できたのはそれこそ「ラッキー」でした。こういうものが聴かれずに家の中に眠っているというのは何とも勿体ない話ではあります。これもブログを書き始めたことによる恩恵でしょうね。ブログに感謝しましょう。

まだまだ眠れる宝があるかもしれません。探してみましょう。

 


SKIN - Shine Your Light (1993)


Skin - Raised on Radio


Skin Express Yourself

 

 

それでは今日はこの辺で。

ファンタスティック・ファンキー! 『ウェット・ウィリー(Wet Willie)/Dexie Rock』

ウェット・ウィリー(Wet Willie)は1970年、アラバマ州モービルで結成されました。メンバー全員がモービルの出身です。彼らはそれぞれにバンドを組みブルースやR&Bを演奏していました。そしてフォックスというバンドで当初のメンバーが揃いました。

メンバー

ジミー・ホール(Jimmy Hall,vo,harp,sax)

ジャック・ホール(Jack Hall,b,vo)

リッキー・ハーシュ(Ricky Hirsh,g,vo)

ジョン・アンソニー(John Anthony,key,g)

ルイス・ロス(Lewis Ross,ds,perc)

です。

そして1971年に南部のレーベル、キャプリコーン・レコードからファーストアルバム『Wet Willie』を発表します。

しかしこのアルバムは大した評判にもならなかったようです。

 

続いて1972年にセカンドアルバム『Wet WillieⅡ』を発表します。

これが音楽関係者の間で評判を呼ぶようになります。オールマン・ブラザース・バンドやジェフ・ベックヴァン・モリソンなどとの公演旅行で成功もあって、次第に知られるようになっていきました。

 

そして1973年のオールマン・ブラザースと行ったライブ・アルバム『Drippin' Wet』が彼らの存在を決定的なものにしました。

 

そして1974年に4作目『Keep On Smilin '』が発表されます。

 

このアルバムが日本でのデビューアルバムになりました。遅れてます。

この中のシングル「Keep On Smilin '」が全米10位の大ヒットになります。

 

そして5作目『Dexie Rock』がリリースされます。

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Side A

1.She's My Lady

2.Ain't He A Mess

3.Dixie Rock

4.Poor Judge Of Character

5.Mama Didn't Raise No Fools

 

Side B

1.It's Gonna Stop Rainin' Soon

2.Jailhouse Moan

3.He Set Me Free

4.Leona

5.Take It To The Music

 

バッキング・ヴォーカルにドナ・ホール(Donna Hall)エヴァ・アヴェリー(Ella Avery)からなるウィリエッツが前作から正式メンバーとしてクレジットされています。裏ジャケットの女性二人がそれです。

 

プロデュースはあのトム・ダウド(Tom Dowd)です。

 

ウェット・ウィリーの音楽はファンキーなブルースが基本です。それにゴスペル風ナンバーやロックンロール、ブギ、カントリーブルースなどの要素が絡み合ってきます。まさに元気が出るバンドです。

 

翌年には『The Wetter the Better』をリリースし、すぐさま最強のライブアルバム『Left Coast Live』が発表されます。

 

 

このライブはジミー・リードのブルースナンバーから始まって正にファンキーで押しまくってきます。すっきりします。

このアルバムを最後にキャプリコーンを去ることになります。

ウェット・ウィリーはジミーとジャックのホール兄弟を残し、メンバーを大きく入れ替えました。そしてエピックレコードと契約しました。

 

エピックに移籍して2枚ほどアルバムを発表しますが、残念ながらその後解散となります。

 

ジミー・ホールはその後ソロ活動に入り、ジェフ・ベックのアルバム『Flash』に参加したりしました。現在も活躍中です。

 

サザンロックでもオールマンやレナード、マーシャル・タッカーとは一味違ったファンキーなバンドでした。

 

 


Wet Willie Keep On Smiling


A FLG Maurepas upload - Wet Willie - She's My Lady


Don't Wait Too Long ~ Wet Willie...:)O(:


Wet Willie - Dixie Rock (1975)


Mama Didn't Raise No Fool-Wet Willie (feat. Ella Brown Avery)

思い出のテレビ プロレス編 ②

昨日に引き続き『思い出のテレビ プロレス編』の2回目です。今日は外国人レスラーを取り上げたいと思ったのですが、これは数が多すぎて紹介しきれないと思います。ですので、本当に簡単に名前と一言だけ書くことにします。私達の年代以下の人にはさっぱり、ちんぷんかんぷんでしょうがご容赦願います。

 

まずは強烈に思い出に残っている人から。

 

フレッド・ブラッシー

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吸血鬼・バンパイヤーと呼ばれたブラッシー。血だらけになった力道山を思い出します。怖かった!2003年没。85歳。

 

ザ・デストロイヤー

関連画像

4の字固めは衝撃でした。力道山ジャイアント馬場との死闘は忘れられません。4の字固めも学校で試しましたが、足が細いせいかすぐ抜けてしまって、あれほど痛がるのが不思議でしようがありませんでした。

 

キラー・コワルスキー

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ニー・ドロップで相手の耳を削ぎ落したという耳削ぎ事件が『少年マガジン』でも報道されその人が来日するというので戦々恐々でした。2008年没。81歳。

 

サニー・マイヤース

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技巧派レスラーでした。動きが素早かったのを憶えています。2007年没。83歳。

 

ジェス・オルテガ

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凄く大きな体で、よく力道山と戦っていました。特に得意技は無かったような気がします。1977年没。55歳。

 

フリッツ・フォン・エリック

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『鉄の爪』です。アイアン・クロー。とにかく握力が120超。馬場も猪木もやられていました。爪の間から流血するのです。弟ワールド・フォン・エリックとのエリック兄弟でも活躍しました。1997年没。68歳。

 

ブルーノ・サンマルチノ

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『人間発電所』。ベアハッグとカナディアン・バックブリーカーが得意技。バカ力の持ち主。2018年没。82歳。

 

ボボ・ブラジル

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得意技の『ココバット』は強烈。大木金太郎との頭突き合戦は面白かった。1998年没。73歳。

 

ヘイスタック・カルホーン

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とにかくデカかった。273キロ。これも『少年マガジン』でバスを5台引っ張ったなどという記事が載っていました。でもデカいだけでした。1989年没。55歳。

 

ルー・テーズ

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鉄人ルー・テーズ。プロレスといえばルー・テーズと言われるくらいの巨人でした。この人のバックドロップは特別でした。力道山との名勝負をはじめ70歳過ぎまで現役を続けた正に鉄人でした。2002年没。86歳。

 

カール・ゴッチ

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プロレスの神様』と呼ばれた人です。ルー・テーズの好敵手。アントニオ猪木カール・ゴッチとの通算成績は負け越しています。2007年没。82歳。

 

ディック・ザ・ブルーザー

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『生傷男』。とにかく乱暴者。電話帳を真っ二つに割くという怪力の持ち主。1991年没。62歳。

 

ミスターX

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初めて見た覆面レスラー。後にビル・ミラーと名乗ります。1997年没。69歳。

 

グレート・アントニオ

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巨漢レスラー。この人もバスを引っ張っていました。カルホーンよりこの人の方が先に来日したと思います。2003年没。77歳。

 

ディック・マードック

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ブレンバスターの名手。垂直に頭から落とします。暴れん坊でした。1996年没。49歳。

 

ジン・キニスキー

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NWA世界ヘビー級王者。なんだかわからないが強かった、というかなかなか負けなかった。2010年没。81歳。

 

ビル・ロビンソン

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得意技の「人間風車」、いわゆるスープレックス。実にきれいでした。技が豊富で、レスリングも美しい。珍しいテクニシャンタイプ。反則はしません。2014年没。75歳。

 

ミル・マスカラス

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『千の顔を持つ男』。運動神経抜群。フライング系の技が得意。覆面は2枚していて1枚はファンサービスに使用。

 

アンドレ・ザ・ジャイアント

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とにかくデカい。223センチ、236キロ。巨人でした。1993年46歳で亡くなりました。

 

アブドーラ・ザ・ブッチャー

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誰でも知ってる、ブッチャー。強かった。常に流血。途中からは自分で額を切っているのが分かりました。額は傷だらけ。地獄突きが得意です。

 

タイガー・ジェット・シン

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サーベル男。とにかく反則の連続。コブラクローで仕留める。

 

ドリー・ファンク・ジュニア

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スマートな体ですが強かった。スピニング・トーホールドでたちまちギブアップを撮った時には、「なんだこの技は」と驚きました。ジン・キニスキーからNWA世界ヘビー級王者を奪取。

 

テリー・ファンク

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ドリー・ファンク・ジュニアの弟。テキサス・ブロンコ。行きつけのスナックのママにテリー・ファンクに似てるということで「テリー君」と呼ばれていました。似ていません。NWA世界ヘビー級王者。

 

ハーリー・レイス

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ハンサム・ハリーと呼ばれていました。強かった。ダイビング・ヘッドバッド。NWA世界ヘビー級王者

 

スタン・ハンセン

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ウェスタン・ラリアットを初めて観た時は衝撃でした。この人も強かった。エルボー・ドロップも凄かった。

 

ブルーザー・ブロディ

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この頃はたまーにしか観ていないので、それほど記憶にありませんが、やたら強かったのを憶えています。この人も1988年、42歳で亡くなっています。

 

ハルク・ホーガン

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文句なしに強かった。入場曲もロックが多かった。ジミヘンもありました。

おそらくこのあたりの人が私がプロレスを観た最後かもしれません。

 

 

思いつくままに、レスラーを羅列してしまいました。完全に順不同です。まだまだたくさんいたような気がします。昭和という時代を彩った人たちでした。

 

後はK-1総合格闘技へと流れていきました。

 

こんな記事書いてどうすんだ、と我ながら反省しているところです。自己満足の世界です。

 

lynyrdburitto.hatenablog.com

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それでは今日はこの辺で。

 

思い出のテレビ プロレス編 ①

本当に久しぶりに『思い出のテレビ』をやってみたいと思います。第3弾になります。

私の小学生時代は、スポーツ番組といえば野球、相撲、そしてプロレスです。今日はそのプロレスについて憶えていることを書いてみたいと思います。

 

3つのスポーツ番組は家族はもちろん近所中で観ていました。特にプロレス中継は、我が家にまだテレビが入っていない頃から、番組が始まると隣の人が呼びに来て父親共々お邪魔していたくらいでした。小学校の1年生の頃だったと記憶しています。

野球は長嶋、相撲は柏戸、そしてプロレスは力道山です。

大学生になって東京へ上京してからは部屋にテレビなど買えなかったので、自然とプロレスからも遠ざかりましたが、それまでは夢中で観ていました。

その頃の内外のレスラーを思い出してみたいと思います。往年のレスラーばかりですので悪しからずお願いします。

ちなみに今のプロレスは全く分かりません。

それでは、いきましょう。

 

力道山

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まずはなんといってもこの人をおいてプロレスは語れません。さすがにシャープ兄弟との戦いや、伝説の柔道王・木村政彦との決戦などは生では観ていませんが、1963年にヤクザに刺されたことが原因で亡くなるまで、プロレスは力道山中心に回っていました。私も大の力道山ファンで、テレビを見ながらいつもハラハラドキドキしていました。晩年はいつも劣勢で最後に伝家の宝刀空手チョップで逆転勝ちするというパターンが定着しましたが、それでもハラハラドキドキでした。子供ながらに力道山が負けた日などは悔しくて夜も眠れませんでした。フレッド・ブラッシーザ・デストロイヤーとの戦いは今でも思い出されます。

しばらく前には力道山の物語に嵌って何冊も読んでしまいました。なぜ関脇までいって相撲を辞めたのか、など子供の頃には知らなかった力道山の知られざる一面を読んで面白くて止められませんでした。また、プロレス業界やテレビ業界、政治の世界さらには戦後の世相まで多くの事が書かれており興味深く読めました。

力道山の死後はプロレス界も生き残りを賭け分裂の時代に入っていきます。

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豊登

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力道山と同じく角界からの転身。最高位は前頭15枚目ですから力道山の関脇とは格が違います。

力道山の生存中は脇役に徹していましたが、力道山の死後は日本プロレスの社長にも就任し、WWA世界ヘビー級王座にもつきました。しかし、数々の横領が発覚し、またジャイアント馬場が頭角を現すと、社長を辞任、日本プロレスを退社します。

そして日本プロレスアントニオ猪木を誘って東京プロレスを旗揚げします。しかし、経営基盤が弱体で3カ月で消滅します。

その後吉原功国際プロレスに加入します。ここでサンダー杉山ストロング小林と活躍します。その後引退。1998年、67歳で死去。

得意技は怪力を利用した逆エビ固め。技ではありませんが、腕を交差してカポーン、カポーンと鳴らすのが得意で、外人がそれを嫌がるのが面白かったです。

 

吉村道明

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1957年に力道山にスカウトされ日本プロレスに入団します。学生時代は近畿大学の相撲部で学生横綱でした。

私が記憶している吉村道明は技巧派レスラーで、いつも悪役外人の攻撃を一手に引き受け、顔はいつも流血で真っ赤。しかし最後には逆転の回転エビ固めで勝利するのです。

力道山の死後は豊登遠藤幸吉芳の里などと共に日本プロレスを支えますが、豊登の横領などで経営は悪化、看板スターになったジャイアント馬場アントニオ猪木が相次いで脱退し、日本プロレスも立ち行かなくなりました。これで吉村道明も引退を決意します。引退後は近畿大学の相撲部の顧問として指導に当たりました。2003年没、76歳。

得意技は回転エビ固め、ドロップキック(当時は飛び蹴りと呼んでいました)。あだ名は「闘将」。

 

遠藤幸吉

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この人に関してはあまり記憶がありません。弱かったな、というイメージが残っています。

しかし、略歴を見ると、柔道出身でコウ東郷と名乗り、大山倍達(マス東郷)、グレート東郷と東郷3兄弟として、アメリカ遠征で活躍。その後日本プロレスに参加し、力道山とのタッグで太平洋タッグ王座を獲得しています。これらは1950年代の話で、私はさすがに知りません。憶えているのは晩年の弱い遠藤幸吉でした。引退後は日本プロレスの経営に携わります。

得意技はドロップキックだったと思います。

 

芳の里淳三

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この人も角界からの転身組。最高位は前頭12枚目。

彼についても弱かったイメージしかありません。下駄を履いてリングに登場し、カッコは強そうなのですが、すぐにやられます。最後は下駄で相手を殴り、ダウンしたところで抑え込み勝利というパターンでした。

力道山の死後は豊登に続き3代目の日本プロレスの社長に就任。倒産。1999年、70歳で死去。

得意技は下駄叩き

 

大木金太郎(キム・イル)

「大木金太郎」の画像検索結果

ジャイアント馬場アントニオ猪木より一歩先に日本プロレスに入門しました。1959年です。力道山に憧れ密入国し逮捕されるも、力道山自民党副総裁の大野伴睦に依頼し釈放され、日本プロレスに入門します。

力道山の死後は韓国に帰国し韓国プロレスで活躍します。しかし、豊登東京プロレスを旗揚げし、アントニオ猪木がそれに追随したため、日本プロレスはその穴埋めに大木金太郎を呼び戻しました。しかし、すぐにアントニオ猪木日本プロレスに復帰したために大木金太郎は馬場と猪木に次いでの第3の男になってしまいました。

日本プロレス消滅後は各団体に参戦し、猪木や馬場ともシングルで戦ったりして人気を博しました。2006年、77歳で死去。

得意技は頭突き。ボボ・ブラジルとの頭突き合戦は有名です。

 

ジャイアント馬場

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野球界からの転身。読売巨人軍のピッチャーでした。怪我で野球を断念。2メートル9センチの長身。1965年には第3代のインターナショナル・ヘビー級王座に就きました。あの体でドロップキックは驚きました。猪木とのタッグは最強でした。

日本プロレス消滅後は全日本プロレスを立ち上げます。その後のジャイアント馬場についてはあまりにも有名なので割愛します。1999年、61歳で死去。

得意技、16文キック、32文ロケット砲、ココナッツクラッシュ、股裂き、脳天唐竹割りなど多数。

巨人軍で投げている姿を見て見たかったですね。

 

アントニオ猪木

関連画像

 

1960年、ブラジル興行中の力道山にスカウトされ日本プロレスに入門。当初は本名の猪木寛至として出場していましたが、「ブラジル帰りの日系ブラジル人」として売り出そうとのことでリングネームをアントニオ・猪木としました。

当時の漫画雑誌『少年サンデー』や『少年マガジン』にはプロレスの記事がたくさん載っておりそういった情報は逐次入って来たのです。

 

その後のジャイアント馬場との活躍や新日本プロレスの立ち上げ、異種格闘技など大活躍です。国会議員にまでなってしまいました。モハメド・アリとの決戦は手に汗握りましたが、肩透かしでした。

コブラツイスト卍固めは学校でも友達などとやってみたりしましたが、そんなに痛いものでもなかったので、あれでギブアップが取れるのかと不思議でした。

 

その後の坂口征二ジャンボ鶴田天龍源一郎などは比較的最近まで活躍していたので割愛します。

その他、上田馬之助ラッシャー木村ストロング小林グレート小鹿大熊元司山本小鉄、などが続々と思い出されますがきりが無いのでこの辺にしておきます。

変わったところではミスター珍グレート東郷などユニークなレスラーがいました。

f:id:lynyrdburitto:20180805102548p:plain 「グレート東郷 プロレスラー」の画像検索結果

 

レフリーではいつもシャツをびりびりに破かれる沖識名とユセフ・トルコでした。

「沖識名」の画像検索結果 f:id:lynyrdburitto:20180805102835p:plain

 

 

また、たまに小人プロレスという番組を放送していました。小人たちのプロレスですがこれが実に面白かったことを憶えています。その後人権問題などが発生して、今ではどうなっているのか分かりません。

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次は外国人レスラーにスポットを当ててみます。

 

 

lynyrdburitto.hatenablog.com

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それでは今日はこの辺で。

 

南部の雄! 『マーシャル・タッカー・バンド(The Marshall Tucker Band)/A New Life』

オールマン・ブラザース・バンドの弟分として人気を博したマーシャル・タッカー・バンド(The Marshall Tucker Band)です。

 

彼等の出身地はサウスカロライナ州のスパータンバーグという片田舎です。中心メンバーのトイ・コルドウェル(Toy Caldwell,g,vo)と弟のトミー・コルドウェル(Tommy Caldwell,b.vo)はカントリー好きの父親の影響で小さい頃からカントリーバンドでギターを弾いていました。2人はハイスクールの友人ジョージ・マッコークール(George McCorkle,g)とバンドを結成します。そこにダグ・グレイ(Doug Gray,vo)が加わりますが、徴兵のため4年間中断されます。

4年後、1970年スパータンバーグに戻ったトイはジェリー・ユーバンク(Jerry Eubanks,sax,flute)を加えて新たにトイ・ファクトリーというバンドを結成します。ここでメンバーが揃いました。さらにポール・リドル(Paul Riddle,ds)が加入して、バンド名もマーシャル・タッカー・バンドに変えてスタートしました。

 

バンドはキャプリコーン・レコードのオーディションを受けて合格し、ファーストアルバム『The Marshall Tucker Band』がリリースされます。1973年でした。

このアルバムからシングル「Can't See You」が大ヒットし、アルバムもゴールドディスクを獲得し、一躍南部の雄に躍り出ました。

カントリーとブルースにジャズをふりかけた様ないかにもサザンロックという出来栄えです。

 

そして1974年にセカンドアルバム『A New Life』がリリースされます。

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Side A

1.A New Life

2.Southern Woman

3.Blue Ridge Mountain Sky

4.Too Stubborn

 

Side B

1.Another Cruel Love

2. You Ain't Foolin' Me

3.24 Hours At A Time

4.Fly Eagle Fly

 

プロデュースはポール・ホーンスビー(Paul Hornsby)です。

 

ゲストミュージシャンとして

チャーリー・ダニエルズ(Charlie Daniels,fidle)

ジェイモ(Jaimoe,congas)

その他ホーン・ミュージシャン

が参加しています。

全作トイ・コルドウェル作です。

トイ・コルドウェルはA-3とB-4でリードヴォーカルを執っています。

ダグ・グレイもトイのヴォーカルもいかにもカントリーロックという感じで、デュアン・オールマンが抜けた後、ディッキー・ベッツが主導権を握った頃のオールマン・ブラザースのようです。

A-4などはブルースなのですが重々しくなく、軽い感じのブルースになっています。

南部ののんびり、ゆったりとした雰囲気がとても落ち着きます。

このアルバムもゴールドディスクを獲得しました。アルバムチャートは37位までになりました。

 

この後、同年に『We All All Belong』、1975年に『Searchin 'for a Rainbow』と立て続けに良質なアルバムをリリースします。

 

 

両アルバムともにゴールドディスクを獲得しました。『Searchin 'for a Rainbow』の方はアルバムチャートでも最高の15位になりました。

 この後も、コンスタントにアルバムを出し続けます。

しかし1980年に悲劇が起こります。弟のトミー・コルドウェルが交通事故で亡くなります。代わりはフランクリン・ウィルキー(Franklin Wilkie,b)です。

 

マーシャル・タッカー・バンドは現在も活動中です。メンバーは変わりましたが、数多くのアルバムを残しました。

 

オールマン・ブラザースやレーナード・スキナードの陰に隠れがちですが、70年代のみならず、それ以降も活躍し続けた長命バンドです。

 


The Marshall Tucker Band - Can't You See - 9/10/1973 - Grand Opera House (Official)


A New Life The Marshall Tucker Band 1974


Southern Woman The Marshall Tucker Band 1974


Blue Ridge Mountain Sky by The Marshall Tucker Band (from A New Life)

 

 

それでは今日はこの辺で。