1983年(昭和58年)はセントライト、シンザンに次ぐ史上3頭目、戦後2頭目、19年ぶり、そして父内国産馬としては初めての3冠馬の誕生に沸きました。
ミスターシービーは前年1982年11月の東京でデビューしました。もちろん圧勝でした。ミスターシービーはトウショウボーイとシービークインとの間の子で良血馬です。松山康久調教師のもと主戦騎手はシービークロスやモンテプリンスの吉永正人でした。
2戦目は中山の1600メートル。首差の辛勝でした。3戦目の800万特別戦は1番人気ながら2着と初黒星を喫しました。しかしこの時の追い込みがその後のミスターシービーの脚質を決めることになりました。
明けて4歳(今でいう3歳)になり初戦に東京の共同通信杯4歳ステークスを選びました。後方待機策から直線で追い上げ前走で敗れた相手に勝利し、重賞初制覇を飾りました。
続くレースは中山の弥生賞です。1番人気で快勝、重賞連覇します。そして1冠目の皐月賞へと向かいます。
皐月賞は当然1番人気です。単枠にも指定されました。2番人気はウズマサリュウ、3番人気がブルーダーバンでした。当日は雨の不良馬場になりました。追い込みのミスターシービーにとっては不利な馬場となりました。
レースはスタート後後方に位置し、向う正面から徐々に上がっていき、4コーナーで先頭に獲りつき、直線で先頭に立ちそのまま押し切りました。まずは1冠目制覇です。
そのままぶっつけでダービーへと向かいます。ダービでは当然ながら単勝1.9倍の圧倒的1番人気で単枠指定です。。2番人気には皐月賞で2着になったメジロモンスニー、3番人気は皐月賞で逃げ粘ったカツラギエースになりました。
レースは出遅れで最後方、場内騒然。徐々に進んで4コナーで先頭から6~7番手までとりつきます。直線は外に持ち出し追い込みにかかります。他馬と接触しながら、ものともせずに一気に抜け出してきます。その脚は他の馬が止まって見えるくらいです。追い込んできたメジロモンスニーを抑え込んでの優勝でした。3着にビンゴカンタが入りました。これで2冠達成です。
秋の3冠目に向けて夏場は休養に当てました。しかし、その間足を痛め、さらに風邪をひくなど体調が思わしくなく、予定していた秋初戦のセントライト記念は断念、西下して菊花賞トライアル京都新聞杯に出走することにしました。1番人気にはなるものの、見るからに元気がなく、体重も12キロ増と太目残りでした。ここも単枠に指定されました。レースはカツラギエースから1秒以上離されての4着。初めて連対を外しました。盛山アナウンサーの「ミスターシービー、ものすごい競馬をしました」が印象的でした。
菊花賞では1番人気には押されたものの、父のトウショウボーイも距離の壁に泣いた菊花賞の3000メートルには不安が残り、ましてや前走の敗北も気になるところでした。
レースはハイペースで進み、ミスターシービーは最後方に待機します。2集目の3コーナーの上りから追い上げ始め3~4コーナーの下り坂で一気に先頭に追い付き、直線に向かいます。場内は騒然、どよめきます。しかしミスターシービーはものともせず直線を逃切り優勝しました。関西テレビの杉本清アナウンサーは菊花賞の度に「3~4コーナーの坂はゆっくり下らなければいけません」といっていたのを見事に覆され「驚いた、ものすごい競馬をしました」と驚嘆していました。「見てくれこれが3冠の脚だ」と共に名セリフです。2着にビンゴカンタ、3着にシンブラウンが入りました。
こうしてミスターシービーは19年ぶりの3冠を達成し、ジャパンカップ、有馬記念を回避して4歳を終えました。このローテーションには批判もありました。3冠馬がジャパンカップ、ましてや有馬記念に出ないというニュースには当時がっかりした記憶があります。
そしてミスターシービーはシンザンが果たした5冠制覇を目指し5歳を迎えようとしています。5冠というのはクラシック3冠に天皇賞と有馬記念制覇を加えたものです。
しかし、ミスターシービーの苦難はここから始まります。
それはこの翌年に再び現れる3冠馬についての記事で書こうと思います。
それでは今日はこの辺で。