とうとう桂歌丸師匠が逝ってしまいました。酸素吸入の管を装着しながらの高座は痛々しいものがありましたが、その心意気には感服させられたものでした。
歌丸と言えば笑点です。笑点の初代大喜利メンバーです。初代メンバーで生き残っているのは林家こん平だけとなりました。そのこん平も多発性硬化症とやらで闘病中で落語はできません。
立川談志、三遊亭圓楽、三遊亭金遊改め小圓遊、柳亭小痴楽改め春風亭梅橋、林家こん平、そして桂歌丸。座布団運びはウルトラマンの石井伊吉こと毒蝮三太夫。笑点の初代メンバーです。昭和41年に開始されました。2016年まで出演しました。司会まで勤めました。
桂歌丸はもともとはあの「おばあさん」の古今亭今輔の弟子でした。弟子入りは昭和26年、入門時は古今亭今児を名乗りました。ただ歌丸は古典落語をやりたかったようで、新作派の今輔のところでは不満があったのかもしれません。人に勧められて今輔に弟子入りしただけで、歌丸曰く「噺家になれれば誰でも良かった」ようです。高座では古典ばかり演じるので今輔から破門されてしまいます。
暫くはポーラ化粧品のセールスマンになりますが。諦めきれず橘ノ圓の口添えで今輔にとりなしをしてもらい、兄弟子の桂米丸の弟子になります。米丸の弟子になって桂米坊、そして昭和39年に初代桂歌丸を名乗ります。昭和43年に真打に昇進します。
歌丸もこの頃はまだ新作落語を演じていました。いつごろからか、古典落語を演じるようになりました。これは歌丸が本来演じたかった落語なのです。特に三遊亭圓朝作などの大ネタを演じました。落語芸術協会会長まで勤め、旭日小綬章まで受けました。
晩年は病気との戦いでした。腰部脊柱管狭窄症による2度の手術、腸閉塞、肺気腫、慢性閉塞性肺疾患による入退院の繰り返し。それでも高座にかける執念は人一倍でした。桂米丸も師匠の自分より先に弟子が逝ってしまってさぞかし残念なことでしょう。
話は変わりますが、私は小学校からの落語ファンで、高校の頃は本気で落語家の弟子入りを考えたほどです。すぐに諦めましたが。
特に古今亭志ん生、桂文楽から始まって、三遊亭圓生、柳家小さん等大名人、昭和の四天王と言われた立川談志、古今亭志ん朝、三遊亭圓楽、春風亭柳朝などを聴いては楽しんでいました。その他にも綺羅星のごとく名人がおりました。東京へ出てからは寄席にも随分通いました。DVD、CDも随分集めました。
その中でも多いのはやはり志ん生、志ん朝、談志です。上記の名人たちはすでに全員他界しています。
今残っている昭和の名人と言えば柳家小三治、三遊亭圓窓ぐらいでしょうか。
最近はお笑いブームで、落語ももてはやされているようです。歌丸師匠も喜んでいる事でしょう。
最近の若手落語家はあまり聴きませんが、昔のテープは今でもよく聴きます。昔は寄席番組が多くて楽しかったな。
いつも音楽と映画の話ばかりなのでたまには変わったネタを書いてみました。
歌丸師匠は生前、「古典ネタを自分のものにするのは本当に苦しい。この苦しさから解放されるときは死ぬ時だ」と話していました。これでやっと楽になれたことでしょう。
心よりご冥福をお祈りします。合掌
これまた全く話は変わりますが、老体に鞭打って早起きしてサッカーを観ました。ほぼ勝ったと思ったら負けました。昔のサッカー少年としては残念な結果ですが、よく頑張ったと言ってあげたいと思います。あと一歩でした。
メキシコオリンピックの歓喜を今一度と思ったのですが、次回の楽しみということですね。
それでは今日はこの辺で。