今日は尊敬するボブ・ディラン(Bob Dylan)先生について、フォークロックという切り口からザ・バンド(The Band)やザ・バーズ(The Byrds)を織り交ぜながら書いてみたいと思います。
一般にアメリカのフォークロック(フォークとロックの融合)は1965年、ディランの5作目『Bringing It All Back Home(ブリンギング・イット・オール・バック・ホーム)』が始まりだと言われています。
それまでのディランはアコースティックギターとハーモニカだけの弾き語りでブルースやフォークを歌っていました。が、イギリスのビートルズなどとの交流から、それまでのアコースティックギター1本に物足りなさを感じ、エレキバンド形式のスタイルに傾倒し始めました。そこで生まれたのが前記のアルバムでした。しかしこのアルバムはまだエレキとアコースティックが同居したものでした。
バターフィールド・ブルースバンドを従えてニューポート・フォーク・フェスティバルのステージに立って大音量で演奏を始めた時には、観客の猛抗議でステージを降りざるを得ず、アコースティックギターを抱えて再びステージに立つと「It's All Over Now,Baby Blue」を歌って、それまでの古い聴衆に別れを告げたという有名な話があります。しかし、そうした聴衆の反応とは裏腹にレコードの売り上げは伸びました。
そしてこのアルバムの中から「Mr.Tambourine Man」をザ・バーズがアルバム『Mr.Tambourine Man(ミスター・タンブリンマン)』で取り上げ大ヒットを飾りました。
このアルバムにはこの他にもディランの曲を3曲カバーしています。バーズはこの後も数多くのディランの楽曲をカバーしました。このグループも私の大好きなグループの1つです。オリジナルメンバーはロジャー・マッギン(Roger Macguinnリーダー)、Gene Clark(ジーン・クラーク)、David Crosby(デヴィッド・クロスビーのちにCSN,CSN&Yなど)、Chris Hillman(クリス・ヒルマンのちにFlying Burrito Bros.など)、Michael Clarke(マイケル・クラークのちにFlying Burrito Bros.など)で、その後メンバー交代を繰り返し1971年に解散、1973年にオリジナルメンバーで再結成もアルバム1枚で終了。途中でカントリーロックをメジャーな部門にのし上げた功績の持ち主・Gram Parsons(グラム・パーソンズのちにFlying Burrito Bros.)が加入したり、ギターの名手Clarence White(クラレンス・ホワイト)なども加入します。
バーズのことになると長くなりますのでこの辺にしますが、グラム・パーソンズとフライング・バッリト(ブリトー)・ブラザース(Flying Burrito Bros)については改めて書こうと思っています。
こうしてアメリカのフォークロックというジャンルが確立されるようになりました。
ディランは続いて『Highway 61(追憶のハイウェイ61』を発表します。
ブルースロックの稿でも書きましたようにこのアルバムはバターフィールド・ブルースバンドとアルクーパーなどがバックを務めています。実は私は当時(1965年)まだまだボブ・ディランなど知る由もなく、高校生になってPPM(ピーター・ポール・アンド・マリー)の「風に吹かれて」の作者がディランだということを初めて知って、原曲よりPPMのほうがよほどきれいでいいなと思ったことを憶えています。それから日本のフォークミュージシャンのほとんどが皆、口をそろえてボブ・ディランに影響を受けたというのを聴いてどんなもんだろうと、従兄の家に行ったときに「ディラン持ってる?」と聞いたところ「持ってるよ」ということで早速聴かせてもらいました。それで聴いたのが確か33回転のコンパクト盤(17cmLPと呼ばれていた)の「Like A Rolling Stone」でした。これには正直、”ぶったまげた”という表現がぴったりの驚きでした。曲調といい歌詞といい今まで聴いたことがないような音楽で、とにかく感動しました。それ以来ディランのとりこになりました。ちょうどディランの全作品が、中村とうよう氏の監修、片桐ユズルの訳詞で再発されていましたので、何とかお金を貯めて、少しずつ全作品揃えました。とにかくこの作品はロック史上最高峰に位置づけられる作品だと確信します。
続いて発表されたのが『Blonde On Blonde(ブロンド・オン・ブロンド)』です。
このディランの7作目は2枚組でした。バックにザ・バンド(当時はまだザ・ホークスと名乗っていた)のメンバー・Robbie Robertson(ロビー・ロバートソン)のクレジットもみられます。この作品は前作の研ぎ澄まされたロックよりちょっと田舎っぽい、泥臭い、南部の雰囲気が感じられるサウンドになっています。録音場所がナッシュビルに移ったということも影響していると思います。このアルバムは私にとっては『追憶のハイウェイ61』と並ぶ、いやそれ以上の作品に思えます。
ボブ・ディランはこの頃ザ・バンド(当時はザ・ホークス)を従えコンサート活動を行っていました。その様子が近年発売されているディランの『The Booleg Series ,Vol.4』
で聴くことが出来るようになりました。
ディランはこの後,オートバイ事故で再起不能とまで言われ、ウッドストックで約2年間謎の隠遁生活に入りました。この間ホークスのメンバーを呼んでセッションを重ねました。この時”ビッグピンク”と呼ばれる家の地下室で録音された楽曲が後年(1975年)発表されました。『The Basement Tapes(地下室)』です。
この作品は、『Blonde On Blonde』の延長線上にあるような南部臭さが漂う、デモテープながら素晴らしいものでした。ザ・バンドの単独録音もありました。
ザ・ホークス改めザ・バンドはこの後『Music From Big Pink(ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク)』を製作・発表します。
このアルバムにはディランの「I Shall Be Released」や『地下室』にも入っていた「Tears Of Rage(怒りの涙)』も入っており、また「The Weight」が映画『イージーライダー』にも挿入されザ・バンドは一躍有名になりました。その後も良質なアルバムを出し続け"Grateful Dead" "The Allman Brothers Band"と並びアメリカの3大バンドと言われるまでになりました。
ザ・バンドは元々ロニー・ホーキンスというロックンロールの歌手がカナダで見つけたバンドでそれ以降彼のバックバンドを務めていました。
メンバーはロビー・ロバートソン(g)、リック・ダンコ(b,vo)、レボン・ヘルム(ds,vo)、リチャード・マニュエル(key,vo)、ガース・ハドソン(key,etc)の5人です。
リーダーのロビー・ロバートソンは1976年バンドの解散を発表します。他のメンバーは解散に反対でしたが、結局解散に至りました。そして解散コンサートに多くのミュージシャンが参集しました。ディランをはじめニール・ヤング、ジョニ・ミッチェル、ドクター・ジョン、クラプトン、ニール・ダイアモンド、ヴァン・モリソン、ポール・バターフィールド、リンゴ・スター、マディ・ウォーターズその他。ザ・バンドの交友ぶりがわかります。この時の模様は『ラスト・ワルツ』として映画にもなりました。私もロードショー封切りと同時に友人のN.S君、S.S君と観に行きました。ザ・バンドもそうですが他のミュージシャンをたくさん観られて満足でした。またレコードでも3枚組『Last Waltz』で発表されました。
この他にディランとザ・バンドの共演は『Planet Waves(プラネット・ウェイヴス)』『Before The Flood(偉大なる復活)』
特に後者はライブ2枚組で、ザ・バンドの演奏も十分効けますし最高のライブアルバムです。
ディランの1978年の初来日の時の興奮が今蘇るようです。蛇足ですが、この時の日本武道館の講演で岡林信康と美空ひばりを見かけました。
話が前後しますが、ディランはバイク事故復活後は音楽性がコロコロ変わり、歌詞もますます難解になり周囲を驚かすことに事欠きませんでした。一時は声まですっかり変わりまるで別人のようでした。
とりあえずディランのフォークロック時期を書いてきましたが、結局まとまりませんでした。なにしろ彼は理解のはるか彼方にいるような人ですので致し方ないと自分に言い聞かせます。
昨年、ノーベル文学賞の受賞が決まって、やったなと大喝采でしたが、本当に受賞するかなと半信半疑でしたが、受賞しました。やっぱり理解の外でした。
ここまでアメリカのフォークロックについて書いてきましたが、次の機会に今度はイギリスのフォークロックを取り上げてみたいと思います。フェアポート・コンヴェンションについては既に書きましたので、それ以外の連中を書いてみたいと思います。
それでは。