Flying Skynyrdのブログ

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ロック?、極上のポップ・ジャズ『スティーリー・ダン(Steely Dan)/彩(Aija)』

いつの間にかドナルド・フェイゲン(Donald Fagen,key vo)ウォルター・ベッカー(Walter Becker,g,vo)の二人組になってしまったスティーリー・ダン(Steely Dan)です。

 

この二人はニューヨークのカレッジ時代に知り合い、二人ともジャズ愛好家で気が合い、曲作りなどをするようになりました。そして学校も辞め、ジェイ&アメリカンズのバックで働くようになりました。2年余り在籍しましたがバンドの解散と同時にソングライターチームで活動することにしました。この時代に知り合ったプロデューサーのゲイリー・カッツの誘いでabcレコードのスタッフライターになりました。

しかし、誰も彼らの曲を使ってくれません。仕方がないので自分らでバンドを作ったほうが手っ取り早いということで、メンバーを集めました。アルティメイト・スピナッチに在籍していたジェフ・バクスター(Jeff "Skunk"Baxter,g)、さらにジム・ホダー(Jim Hodder,ds,vo)デニー・ダイアス(Denny Dias,g)デヴィッド・パルマ―(David Palmer,vo)を加えてスティーリー・ダンを結成しました。

 

1972年に早くもファーストシングル「Do It Again」を発表、これがいきなり全米6位になる大ヒットとなりました。続く第2弾「Reelin' In The Years」も11位になるヒットでした。そして満を持してファーストアルバム『Can't Buy A Thrill』を発表します。

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このアルバムが全米17位と大健闘しました。アルバムジャケットは客を待つ売春婦の写真をコラージュしたものです。スペインではジャケットが差し替えられました。

 

翌年にはセカンドアルバム『Countdown To Ecstasy』、1974年には『Pretzel Logic』をそれぞれリリース。

   

この両アルバムにはデヴィッド・パルマ―はいません。脱退しています。

シングルRikki Don't Lose That Number」は全米4位、アルバム『Pretzel Logic』は全米8位になりました。

 

1975年にKaty Lied』、1976年に『The Royal Scam』をそれぞれリリースします。

   

この両アルバムにはジェフ・バクスターとジム・ホダーはいません。メンバーは3人になりました。その代わり、バックミュージシャンは豪華に揃えました。この後、デニー・ダイアスも脱退、遂にドナルド・フェイゲンウォルター・ベッカーの二人になりました。

 

そして1977年に6作目、最高売り上げを達成したアルバム『彩(Aija)』を発表します。

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Side A

1.Black Cow

2.Aja

3.Deacon Blues

 

Side B

1.Peg

2.Home At Last

3.I Got The News

4.Josie

 

参加メンバーは数が多くて書ききれませんので主な人だけでもあげます。

スティーヴ・ガッド(Steve Gadd,ds)

チャック・レイニーChuck Rainey,b)

ラリー・カールトン(Larry Calton,g

デニー・ダイアス(Denny Dias,g)

ジョー・サンプル(Joe Sample,p)

マイケル・オマーティン(Michael Omartian,p)

ヴィクター・フェルドマン(Victor Feldman,perc)

ウェイン・ショーター(Wayne Shorter,tenor sax)

ジム・ケルトナー(Jim Keltner,ds)

マイケル・マクドナルド(Michael Mcdnald,vo)

リー・リトナー(Lee Ritenour,g)

ティモシー・シュミット(Timothy B Schmit,b,vo)

トム・スコット(Tom Scott,sax)

ジム・ホーン(Jim Horn,sax)

ティーヴ・カーン(Steve Khan,g)

クライディー・キング(Clydie King,vo)

リック・マロッタ(Rick Marotta,ds)

バーナード・パーディ(Bernard Purdie,ds)

 

プロデュースはゲイリー・カッツ(Gary Katz)です。

 

全米で3位の彼らの初のゴールドディスクです。

写真は汚くて申し訳ありませんが、移っている女性はモデルの山口小夜子です。撮影は藤井秀樹です。

ジョー・サンプルウェイン・ショーターリー・リトナースティーヴ・ガッド、トム・スコットなど名うてのジャズミュージシャンを迎えての、これはもうロックの範疇には収まり切れない、ポップなジャズアルバムです。ゆるゆるとした気分にしてくれます。

 

ウォルター・ベッカーの交通事故などがあって、暫くのブランクの後、1980年に7枚目のアルバム『Gaucho』を発表します。

このアルバムは全米で9位になります。ここでも豪華なミュージシャンたちがバックを務め、前作に引き続きジャズ・フィーリングたっぷりのアルバムになりました。

 

しかしこれがスティーリー・ダンとしてのラストアルバムになりました。

 

この後、ドナルド・フェイゲンはソロアルバムの制作へ。ウォルター・ベッカーはプロデューサーへと。

1993年のドナルド・フェイゲンのソロアルバムをウォルター・ベッカーがプロデュースしたことがきっかけで、二人は2000年にスティーリー・ダンを復活させ、アルバム『Two Against Nature』をリリースしました。

これが全米6位の大ヒットとなり、グラミー賞の最優秀アルバムをはじめ4部門を獲得し、相変わらずの人気を披露しました。

 

2003年にもアルバム『Everything Must Go』を発表しました。

 

しかし、2017年、ウォルター・ベッカーが食道癌で亡くなりました。67才でした。

 

スティーリー・ダンドゥービー・ブラザーズは因縁深く、オリジナルメンバーのジェフ・バクスターとツアーやレコーディングに参加していたマイケル・マクドナルドは共にドゥービー・ブラザーズに移籍しました。ドゥービー・ブラザーズにとって、二人の加入はそれまでのドゥービー・ブラザーズに大きな影響を与えたように思えます。それはスティーリー・ダンから持ち込んだものだったように思えます。

 

 


Steely Dan - Black Cow - (Aja, 1977)


Steely Dan - Aja


Steely Dan - Peg - HQ Audio -- LYRICS

 

 

それでは今日はこの辺で。

映画『ビリーブ 未来への大逆転』を観る

今日のキネ旬シアターは『ビリーブ 未来への大逆転』でした。

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監督:ミミ・レダ

主演:フェリシティ・ジョーンズアーミー・ハマージャスティン・セロー

制作:2018年 アメリカ 2019年 日本公開

 

86歳になった現在もアメリカ合衆国最高裁判事を務めるルース・ベイダー・ギンズバーグの伝記的映画です。性差別と闘った裁判の実話です。

 

例によってネタバレです。

 

1956年、ルースはハーバード大学法科大学院に入学しました。彼女は弁護士を目指していましたが、500人の学生のうち女性はたった9人です。女子トイレもありません。授業での発言も無視されます。女子だけを招いた教授のパーティでは女性が男子を押しのけて法科大学院に入学した理由を聞かれ、教授からは悉く貶されます。それでも彼女は我慢しました。

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彼女は既に結婚しており、同じ大学で学ぶ夫のマーティンとの間に娘も生まれ、忙しい毎日を送っています。そんな時、夫に癌が見つかり、夫の看病と自分の勉強と彼の授業のノート取り、そして娘の世話とを一手に引き受け益々多忙になりました。彼女の献身もあって、やがてマーティンの癌は寛解し、ニューヨークの法律事務所に就職が決まりました。

 

ルースも当然付いていくために、コロンビア大学へ移籍しました。コロンビア大学では首席で卒業し、論文も評価されました。にも拘わらず、希望する法律事務所には採用されませんでした。理由は母親がユダヤ人であることと、彼女が女性だからでした。止む無くラトガース大学での教職の道を選びました。大学では性差別についての講義をします。

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1970年代になると、世の中はベトナム戦争反対運動が盛んになり、娘も社会問題に興味を持ち始め、反抗期になり上手くいきません。マーティンと出席したパーティーではマーティンの上司から侮辱されたと、マーティンと言い争いになります。自分は弁護士になりたかったのだと、本音を吐きます。 

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そんなルースの思いを知ったマーティンはある案件を持ち出しました。それはある男性が親の介護費用の所得控除が未婚の男性であるという理由で認められなかったというものです。ルースはここに潜む性差別の問題に興味を持ち、控訴することを決めます。これが性差別を変えるきっかけになるのではと考えたのです。

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ルースはアメリカ人権協会の知人メル・ウルフに協力を依頼しますが、あっさり断られます。ルースは尊敬する女性弁護士で女性権利獲得の活動家ドロシー・ケニヨンに会いに行き、弁護を依頼しますが、彼女もまた興味は持ってくれたものの、社会がまだ受け入れない、時期尚早だと首を縦には振りませんでした。

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帰りがけ、一緒に行った娘がある男から暴言を吐かれたのに対し、娘は怒鳴り返したのでした。それを見たルースは時代が変わったことを確信したのです。ルースは再び決意し趣意書を作成し、ケニヨンに送ります。ケニヨンはメルに協力するよう依頼し、メルも協力することになりました。

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メルは裁判経験のないルースに対し模擬裁判を開くことを提案します。しかしルースの弁論は上手くいきません。メルはマーティンとの共同弁論を提案します。相手側の弁護士からは膨大なる趣意書が送られてきました。そしてたった1ドルで和解を提案してきたのです。ルースは原告と話し合い、賠償金全額の支払い及び判決は男女差別であることを認めるという和解案を提案しますがそれは却下され、メルの説得も断り、いよいよ裁判へ。

 

そして裁判当日。ルースの弁論は上手くいきません。心配したマーティンは代わりに自分が弁論をしようとしますが、ルースがそれを抑え、反論を開始します。これまで100年間の性差別の判例を示し、これらがいかに誤った判例だったかを問います。100年前だったら、自分はここに立っていられなかった。100年前と明らかに時代は変わったのだということを示します。時代の変化に合わせ、法律も変えるべきだと主張します。法律が進化していく社会を止めてはいけないと訴えます。

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結果は、100%負けると思われていた裁判でしたが勝訴したのです。

 

ルースはこれ以降も男女差別解消のために弁護士として活躍し、現在はアメリ最高裁判事として活躍しています。長女はコロンビア大学法科大学院の教授、息子は音楽プロデューサーとして活躍しています。夫は2010年に亡くなりました。ラストでは現在のルース・ギンズバーグ本人が登場して終わります。

 

1970年代、アメリカでは男性が働き、女性は家事・育児が当然だったようです。よって、親の介護は女性の仕事。男性が介護しても、その費用は税額控除には当たりません。今考えれば理不尽な法律です。しかし、当時は全然違和感が無かったのでしょう。

ちょっと前までの日本でも男性は外で仕事、女性は家事という棲み分けが社会的に出来上がっていました。最近では女性の社会進出が当然となって、男性も家事・育児を担う傾向が増えてきています。それでもまだまだ男女間の古い風習は依然として根強く残っているような気がします。

社会が変化していくのには長い年月が必要です。しかし、ここにきて急速にその意識が変わりつつあるような気がします。その社会意識の変化に社会のシステムが追い付いていないというのが現状のようです。女性活躍社会と旗を振っても、女性の管理職、政治家は未だに少ない。大学医学部試験の男女差別、待機児童の問題、育児休暇の取得率の差、その他などなど。

 

この映画のルースのようなフロントランナーの出現がアメリカでの性差別の問題の解消につながった一因であると思います。日本でも1970年代にウーマンリブ運動という女性解放闘争が一時期盛んになりました。これは当時の若者の政治活動を背景に出現したものでした。これによって女性への性差別は見直された面もありましたが、その後は学生運動の消滅とともに政治の季節は終わり、ウーマンリブ運動も下火になってしまいました。

あれから4~50年が経ち、未だに性差別の問題は色濃く残っています。それだけ社会システムが変わっていくのには膨大な時間が必要なのでしょう。そろそろ日本でも女性リーダーが登場してもよい時代なのではないでしょうか。

 


映画『ビリーブ 未来への大逆転』予告編

 

 

それでは今日はこの辺で。

 

 

 

 

この人の、この1枚 『ナイト・レンジャー(Night Ranger)/Midnight Madness』

今日の「懐かしのヘヴィメタ(懐メタ)・シリーズ」はナイト・レンジャー(Night Ranger)です。

ナイト・レンジャーはヘヴィメタにしてはポップで聴きやすいバンドです。ヘヴィメタというよりはハード・ポップ・ロックと言った方がしっくり来るかもしれません。

 

原点は1977年結成のファンクロック・バンド「ルビコン」でした。サンフランシスコでの結成です。このバンドはスライ&ファミリーストーンのジェリー・マルティーニが結成したバンドで、ここにジャック・ブレイズ(Jack Blades,b,vo)ブラッド・ギルスBrad Gillis,g)が在籍していました。さらにツアーメンバーとしてケリー・キージー(Kelly Keagy,ds,vo)もいました。

ルビコンが解散すると3人は「ステレオ」というバンドを結成します。そこに元モントローズのメンバーで、ロニー・モントローズのガンマにも参加し、サミー・ヘイガーのバンドでも活躍していたアラン"フィッツ"ジェラルド( Alan "Fitz" Fitzgerald,key)が加わりました。この4人でセッションを始め、レコーディングを開始しました。

最後にジェフ・ワトソン(Jeff Watson,g)が加わりました。彼は自身のバンドを持っていましたが、ブラッド・キルズとはハイスクール時代からの友人でした。

 

こうして2人のリードヴォーカルと2人のリードギターという珍しい構成のバンドが出来上がりました。

彼らは当初「レンジャー」と名乗りましたが、同名のバンドが存在したため「ナイト・レンジャー」に改めました。

 

デビュー前にブラッド・ギルスはオジー・オズボーン・バンドのギタリスト、ランディ・ローズが急死したため、その代役に指名され一時的にそのバンドに参加し、日本にもやってきました。1982年のことでした。

 

そしてその年、オジーのツアーが終了すると、ナイトレンジャーはデビューアルバム『Down Patorol』をリリースします。

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このアルバムは全米で38位になるヒットをしました。シングルも「ドント・テル・ミー・ユー・ラヴ・ミー」が40位、「シング・ミー・アウェイ」が54位を記録しました。

典型的なアメリカン・ハードロックですがキャッチーな曲が多く、かなりポップなロックアルバムでした。

 

そして、翌年セカンドアルバム『Midnight Madness』がリリースされます。

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ミッドナイト・マッドネス

ミッドナイト・マッドネス

 

 

Side A

1.(You Can Still) Rock in America

2.Rumours in the Air

3.Why Does Love Have to Change

4.Sister Christian

 

Side B

1.Touch of Madness

2.Passion Play

3.When You Close Your Eyes

4.Chippin' Away

5.Let Him Run

 

プロデュースはパット・グラッサー(Pat Glasser)です。

 

アルバムは全米15位のヒット作となりました。シングルも「シスター・クリスチャン」が全米5位の大ヒット、続く「ホエン・ユー・クローズ・ユア・アイズ」も14位、「ロック・イン・アメリカは51位とそれぞれヒットしました。アルバムはプラチナ認定されました。

バラード曲も増え、いかにも売れそうなアルバムになりました。ハードロックとAORの中間の様な感じです。

 

1985年にはサードアルバム『セヴン・ウィッシーズ』をリリースします。

 

このアルバムは、彼らに初の全米トップ10入りを果たさせました。シングルも「センチメンタル・ストリート」が全米8位、「フォー・イン・ザ・モーニング」が19位、「グッドバイ」が17位とヒットの連続でした。

 

しかし、この時期あたりが頂点でした。

4枚目の『Big Life』、5枚目の『Man In Motion』はセールスも振るいませんでした。

 

 

そして、アラン”フィッツ”ジェラルドが脱退、翌年にはジャック・ブレイズも脱退し、バンドは活動停止になりました。ジャック・ブレイズはダム・ヤンキースに参加。

 

ブラッド・ギルスはバンドの復活を図り、ケリー・キージーと新たにゲイリー・ムーン(Gary Moon,vo,b)を加えて3人でバンドを編成し、ムーン・レンジャーと名乗りました。

 

1996年にはオリジナルメンバーで再結成を果たしました。その後もメンバーチェンジを繰り返し、現在も活動中です。

 


Night Ranger - Sister Christian


Night Ranger - When You Close Your Eyes


Night Ranger - (You Can Still) Rock In America


Night Ranger Passion Play

 

それでは今日はこの辺で。

モッズの英雄『スモール・フェイセズ(Small Fases)』

ザ・フー(The Who)と並んで、ブリティッシュ・ビート時代のモッズ・サウンドを代表するバンド、スモール・フェイセズ(Small Fases)です。

ハンブル・パイを書いて、フェイセズを書いて、さらにはロニー・レーンまで書いておきながらこのスモール・フェイセズを書いていなかったというのはどういうことでしょう。答えは簡単です。書いたつもりで、忘れていたのでした。

 

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スモール・フェイセズは日本ではザ・フーほどの人気も知名度もありませんが、イギリス、アメリカでは絶大なる人気を誇りました。

ザ・フーがロンドンのウェスト・エンド出身で、一方スモール・フェイセズイースト・エンド出身で共にモッズ族のヒーロー的存在でした。

 

スモール・フェイセズの結成は1965年です。リーダー格のティーヴ・マリオット(Steve Marriott,g,vo)が楽器店でアルバイトをしていた時に、ロニー・レーン(Ronnie Lane,b,vo)がベースを買いに来て出会います。スティーヴはその頃には子役として映画などに出演し、さらにバンドを組んでシングルを発表したり、ソロでもシングルをリリースしていました。

ティーヴはロニーに勧められ、ロニーとバンドを組んでいたケニー・ジョーンズ(Kenney Jones,ds)とセッションをし、上手くいったのでジミー・ウィンストン(Jimmy Winston,key)を加えてスモール・フェイセズが誕生しました。

バンド名の由来はメンバーが小柄だったことと「Face」というのがモッズ族の俗語で「モッズの大物」という意味があってつけられたようです。

 

1965年、彼らはデッカと契約し、その年にシングル「Whatcha Gonna Do About It」でデビュー、これが全英14位となるヒットになりました。

この後、ジミー・ウィンストンがバンドを離れ、代わりにイアン・マクレガン(Ian McLagan,key,vo,g)が加入します。このイアンの加入がスモール・フェイセズに大きな影響を与えました。

セカンドシングル「I've Got Mine」はヒットしませんでしたが、3作目の「Sha-La-La-La-Lee」が全英3位に輝き、続く「Hey Girl」は10位、そして次の「All or Nothing」で遂に1位を獲得しました。続く「My Mind's Eye」も4位になり、彼らは不動の人気を得ました。

1966年に発表されたファーストアルバム『Small Fases』も全英3位まで上りました。

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アルバムの方はR&Bバンドとしての面目躍如といったところで、まさにブルーアイドソウルです。

 

しかし、彼らは次第に疲れてきました。ロックの世界もシングル重視からアルバム重視の時代になってきました。アメリカではサイケデリック・ロックが脚光を浴び、イギリスでもクリームやジミヘンなどが人気を博すようになりました。

 

スモール・フェイセズもデッカを離れ、アンドリュー・オルダムが設立したイミディエイトに移籍します。

デッカはそれを不服としてそれまでの未発表曲とシングルを集めたアルバム『From The Begining』を発表します。

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ファーストと数曲ダブっています。

 

一方のイミディエイトも移籍第1弾として『Small Faces』を発表します。

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全曲オリジナルで占める成長ぶりを見せました。

 

その後もシングル「Itchycoo Park」「Tin Soldier」などのヒットを放ちます。続く「Lazy Sunday」もイギリスでは2位になりましたがアメリカでは100位にも入りませんでした。やや陰りが見え始めました。

 

しかしながら1968年に起死回生のアルバムを発表します。『Ogdens' Nut Gone Flake』です。

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紙巻タバコ缶をあしらった変形ジャケットも評判を呼びましたが、その中身もそれまでのスモール・フェイセズから大きく変貌した姿を見せてくれました。ファズの効いたギターとストリングスが印象的なインストナンバーで始まり、それまでのR&Bのみならず、カントリーロック、サイケデリックロックなども取り入れた幅広い音楽性が見られました。このアルバムは6週連続1位を記録しました。トータルアルバム的なところはビトルズの「サージェント・ペパーズ」を思わせます。未だに傑作としての誉れ高いアルバムになっています。

 

しかし、スモール・フェイセズの勢いもここまででした。スティーヴ・マリオットが自身のバンド、ハンブル・パイを結成するため脱退してしまいます。

残されたメンバーはジェフ・ベックグループのロッド・スチュワートとロンウッドを加えてフェイセズとして活動を続けることになりました。

実質的にスモール・フェイセズは消滅しました。

 

しかし、時が過ぎ、ハンブル・パイも解散し、フェイセズもロニー・レーンは「スリム・チャンス」を結成、ロッド・スチュワートはソロで成功、ロン・ウッドローリング・ストーンズへと、それぞれ行き場所を見つけ、バンドは解散。1977年、スティーヴとケニー、イアンが集まり再結成の話が持ち上がり、ピーター・フランプトンズキャメル、ロキシー・ミュージックにいたリック・ウィルス(Rick Wills.b)を誘い、再結成が実現しました。

 

そしてその年、アルバム『Playmates』をリリースします。

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ソウルフルなスティーヴ・マリオットのヴォカールが帰ってきました。

 

さらに翌年にはサンダークラップ・ニューマンやポール・マッカトニーのウィングスにいたジム・マカロック(Jim McCulloch,g)も参加してアルバム『78 in the Shade』をリリースしました。

 

しかし、時代はパンク、ニューウェイヴの時代に入っていました。これらのアルバムも成功を収められず、バンドは再び解散します。

 

その後、1991年にスティーヴ・マリオットが自宅で焼死、1997年にはロニー・レーンが多発性硬化症で死去、さらに2014年にはイアン・マクラガンが脳卒中で死去しました。今生存しているオリジナルメンバーはケニー・ジョーンズただ一人になってしまいました。

 

いまだにミュージシャンの間では根強いファンを持つスモール・フェイセズ。ブリティッシュ・インヴェンションに大きな足跡を残した偉大なバンドでした。

 


Small Faces - Sha La La La Lee


Small Faces - All or Nothing - HQ super sound


Small Faces - Tin Soldier (good quality)


Afterglow Of Your Love, The Small Faces


Runaway - Small Faces

 

それでは今日はこの辺で 。

ポール・ロジャース(Paul Rodgers)の最高傑作!『Muddy Water Blues』

フリー(Free)からバッド・カンパニー(Bad Company)、そしてジミー・ペイジとのザ・ファーム(The Farm)と、その類まれなるソウルフルなヴォーカルで常に最前線を歩いてきたポール・ロジャース(Paul Rodgers)のソロアルバムの中でも最高傑作と思われるアルバムが、1993年にリリースされました。

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1982年にバッド・カンパニーを脱退したポール・ロジャースは、翌年、初のソロアルバム『Cut Loose』をリリースします。

ここでロジャースはヴォーカルの他ギター、ベース、ドラム、キーボードをすべて一人でこなすマルチプレイヤーぶりを発揮しました。しかし商業的には成功しませんでした。

 

1985年にはレッド・ツェッペリンジミー・ペイジと組んでザ・ファーム(The Farm)を結成します。そして2枚のアルバムをリリースしますが、スーパーグループと言われた割には成功せず解散。

1991年、今度はフェイセズケニー・ジョーンズと組んでザ・ロウ(The Low)を結成し、アルバム1枚をリリースしますが、これも不発に終わります。

 

そして1993年に再びソロアルバムをリリースします。それが『Muddy Water Blues: A Tribute to Muddy Watersです。

 

Disk 1

01.Muddy Waters Blues (Acoustic Version)

 リードギターバディ・ガイ(Buddy Guy)

02.Louisiana Blues

 リードギタートレヴァー・ラヴィン(Trevor Rabin)

03.I Can't Be Satisfied

 リードギターブライアン・セッツァー(Brian Setzer)

04.Rollin' Stone

 リードギタージェフ・ベック(Jeff Beck)

05.Good Morning Little School Girl, Pt. 1

 リードギタージェフ・ベック(Jeff Beck)

06.I'm Your Hoochie Coochie Man

 リードギター:スティーヴ・ミラー(Steve Miller)

07.She's Alright

 リードギタートレヴァー・ラヴィン(Trevor Rabin)

08.Standing Around Crying

 リードギターデヴィッド・ギルモア(David Gilmour)

09.The Hunter

 リードギター:スラッシュ(Slash)

10.She Moves Me

 リードギターゲイリー・ムーア(Gary Moore)

11.I'm Ready

 リードギターブライアン・メイ(Brian May)

12.I Just Want to Make Love to You

 リードギタージェフ・ベック(Jeff Beck)

13.Born Under a Bad Sign

 リードギターニール・ショーン(Neil Schon)

14.Good Morning Little School Girl, Pt. 2

 リードギター:リッチー・サンボラ(Richie Sambora)

15.Muddy Waters Blues (Electric Version)

  リードギターニール・ショーン(Neil Schon)

 

Disk 2    Paul Rodgers・The History

01.All Right Now

02.Wishing Well

03.Fire & Water

04.Bad Company

05.Feel Like Making Love

06.Cant't Get Enough

 

その他のメンバーは

ジェイソン・ボーナム(Jason Bonham,ds)

ピノ・パラディノ(Pino Palladino,b)

イアン・ハットン(Ian Hutton,g)

マーク・T.ウィリアムス(Mark T. Williams,bass drum)

ジミー・ウッド(Jimmie Wood,harmonica)

ポール・シャッファー(Paul Shaffer,organ)

デヴィッド・パイチ(David Paich,p,organ)

ロニー・フォスター(Rony Foster,organ)

その他バックヴォーカル

プロデュースはビリー・シャーウッド(Billy Sherwood)です。

 

ポール・ロジャースが尊敬して止まないマディー・ウォーターズに捧げられたアルバムです。ギターのみならずバックの名うてのメンバーを見ただけでわくわくしてきます。

フリーの初期の頃はブルースロック中心でしたが、次第にヘヴィーなハードロックへと移行し、バッド・カンパニーでもハードロックに徹していたので、久しぶりにロジャースのブルースを聴くことが出来ました。

 

01はポール・ロジャースのオリジナルです。アコースティックヴァージョンです。リードはバディ・ガイです。静かなブルースナンバー。

 

02はマディの曲。リードギタートレヴァーはかつてのイエスのメンバー。

 

03もマディの曲。リードギターのブライアンは・セッツァーはストレイ・キャッツのメンバー。

 

04もマディの曲。リードギターはご存じジェフ・ベックジェフ・ベックとポール・ロジャースの組合せ。ジェフ・ベックのブルースを久しぶりに聴きました。絶妙のコンビです。

 

05はソニー・ボーイ・ウィリアムソンの代表曲。ここもギターはジェフ・ベックです。

 

06はウィリー・ディクソンの曲。マディーのレパートリー。ザ・バンドの『ラストワルツ』でも歌っていました。ギターはなんとスティーヴ・ミラーです。この組み合わせも胸が高鳴ります。

 

07はマディの曲。ギターはトレヴァー・ラヴィン。

 

08もマディの曲。ギターはピンク・フロイドデヴィッド・ギルモアピンク・フロイドも元はサイケ、ブルースが出発点です。スローブルースで渋いギターを聴かせてくれます。アルバムのハイライトです。

 

09はブッカーT&MG'sの曲。フリーのファーストアルバムでもカバーしていた名曲。それがなんとガンズ&ローゼスのスラッシュのギターで蘇ります。

 

10はマディの曲。ギターはこれまた凄い。ゲイリー・ムーアです。どうしたらこれだけのギタリストを集められるのでしょう。これもポール・ロジャースの力でしょうか。

 

11はウィリー・ディクソンの曲。ギターはクイーンのブライアン・メイ

 

12もウィリー・ディクソンの曲。ギターはジェフ・ベックです。

 

13はウィリアム・ベルとブッカー・T・ジョーンズの曲です。アルバート・キングなどブルースの定番です。ギターはジャーニーのニール・ショーンです。ニール・ショーンにはブルースがよく似合います。

 

14は05のパート2でソニー・ボーイ・ウィリアムソンの曲。ギターはボン・ジョビィのリッチー・サンボラの代わります。

 

15は01のエレクトリック・バージョン。ギターは再びニール・ショーン

 

完璧なブルースロックです。どの曲もポール・ロジャースの気合のこもったヴォーカルとギター陣のエキサイティングなプレイ、そしてドラムのジェイソン・ボーナムその他のリズムセクションも言うこと無しのアルバムです。

 

おまけのCDが付いています。フリーとバッド・カンパニーの代表曲が入っています。これも嬉しい。

 

ポール・ロジャースはその後もソロアルバムのリリース、バッド・カンパニーの再結成、そして2005年にはクイーンと合流。クイーン+ポール・ロジャースの名前で世界ツアーを敢行、来日公演も果たします。そして2008年にはアルバムまで発表しました。

しかし、その後クイーンを離れ2010年に再びバッド・カンパニーを再結成。来日公演を果たします。

2014年にはアルバム『The Royal Sessions』を発表、全曲ソウル、ブルースナンバーをカヴァーし、久しぶりに元気な姿を見せてくれました。

 

1975年のバッド・カンパニーでの来日公演が今でも目に浮かびます。

まだまだ69才、元気いっぱいです。

 


Paul Rodgers (feat. David Gilmour) - Standing around crying


Paul Rodgers ~ The Hunter


Paul Rodgers - I'm Your Hoochie Coochie Man


Born Under a Bad Sign- Paul Rodgers (High Quality)

 

 

それでは今日はこの辺で 。

この人の、この1枚 『ラット(Ratt)/Invasion Of Your Privacy』

今日の「懐かしのヘヴィメタ(懐メタ)・シリーズ」はラット(Ratt)です。

これまたラフ・カットを書いていて思い出しました。際限がありません。

この二つのバンドはラフ・カットの記事で書いたようにバンド間の移動が多くありました。

本来ならばこちらのラットを先に書けばよかったのですが、どうも思考回路が目茶目茶なようで、芋ずる式に思い出すという体たらくなのでご容赦願います。

 

ラットについてはLAメタルトップランナーのようなバンドですので、詳しい説明は不要かと思いますが、簡単な略歴だけ書こうと思います。

 

1976年にティーヴン・パーシー(Stephen Pearcy,vo)がサンディエゴで結成したのが始まりです。当時は「ミッキーラット」と名乗っていました。この頃にはジェイク・E・リー(Jake E. Lee,g)も加入していましたが、バンド名をラットに変えた頃、ラフ・カット結成のためラットを離れました。この頃には同じく後にラフ・カットに移籍するクリス・ヘイガー(Chris Hager,g)、マット・ソーアー(Matt Thorr,b)も在籍していました。

彼らが去った後、スティーヴンと残ったロビン・クロスビー(Robbin Crosby,g)と共にボビー・ブロッツァー(Bobby Blotzer,ds)ウォーレン・デ・マルティーWarren Justin DeMartini,g)、そしてドッケンかフォアン・クルーシェ(Juan Croucier,b)を加えて新生ラットを誕生させました。

 

そして1983年、6曲入りのミニアルバムRattを自主制作でリリース。

これが人気を博し一躍LAメタルシーンに躍り出ました。

 

そして翌年、メジャーのアトランティックからフルレングス・アルバム『Out Of The Cellar』をリリース。

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このアルバムは全米で7位を記録し、トリプル・プラチナに。シングルの「ラウンド・アンド・ラウンド」は全米12位の大ヒットとなりました。これでラットは押しも押されぬメタル界のスーパースターにのし上がりました。

 

そして1985年、セカンドアルバム『Invasion Of Your Privacy』がリリースされます。

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Invasion of Your Privacy

Invasion of Your Privacy

 

 

Side A

1.You're In Love 

2.Never Use Love

3.Lay It Down

4.Give It All

5.Closer To My Heart

 

Side B

1.Between The Eyes

2.What You Give Is What You Get 

3.Got Me On The Line

4.You Should Know By Now

5.Dangerous But Worth The Risk

 

プロデュースはボー・ヒル(Beau Hill)です。

 

このアルバムも全米7位を記録し、ダブルプラチナでした。

 

ラットのアルバムジャケットはどれも扇情的でジャケットを見ただけで欲しくなります。

 

中身は前作同様「RATT N' ROLL」です。まさにアメリカン・ハードロックです。ウォーレン・デ・マルティーニのギターもなかなかいいものを出しています。

 

しかしこの時期が全盛期だったと思います。

この後、サードアルバム『Dancing Undercoverをリリースしますが、全米26位にとどまりました。

 

まず、ジャケットでがっかりしました。またそそるようなジャケットを期待していたのですが、肩透かしでした。

収録曲「ボディ・トーク」がエディ・マーフィーの映画『ゴールデン・チャイルド』に起用されました。

 

1988年、1990年と2枚のアルバムをリリースします。『Reach For The Sky』『Detonator』でした。

 

残念ながら、かつての勢いはありませんでした。

 

時代は変わりつつありました。オルタナグランジブームに移り変わろうとしていました。さらにロビン・クロスビーがヘロイン中毒でバンドを離れました。

 

そして1992年、遂にバンドは解散しました。

 

ティーヴン・パーシーはアーケイド(Arcade)を結成します。

lynyrdburitto.hatenablog.com

ウォーレン・デ・マルティーニはホワイトスネイクへ参加後ソロへ。

 

1997年にはスティーヴン、ウォーレン、ボビー、それにヴィンス・ニールのバンドにいたロビー・クレイン(Robbie Crane,b)を加えて再結成します。

しかし、長続きしません。スティーヴンが再び脱退。

そして2007年にはまたまた再結成。スティーヴン、ウォーレン、ボビーに今度はクワイエット・ライオットからカルロス・カヴァーゾ(Carlos Cavazo,g)が加入。

 

かと思ったら2014年にはまたまたスティーヴンが脱退。遂に活動停止状態。

 

そして現在はまたまたスティーヴン、カルロスにかつてのメンバーフォアン・クルーシェを加えてラットとして活動開始。一方ボビー・ブロッツァーも自身のバンドを結成しラットを名乗って訴訟に。後に「Bobby Blotzer's Ratt Experience」と名前を変えて活動中。

つまり二つのバンドに分裂したようです。いやいやなかなか大変です。それだけラットという名前には価値があったのでしょう。

 


Ratt - You're In Love


Lay It Down


Between The Eyes


Ratt - What You Give Is What You Get - HQ Audio

 

 

それでは今日はこの辺で。

この人の、この1枚 『ラフ・カット(Rough Cutt)/Rough Cutt』

今日の「懐かしのヘヴィメタ(懐メタ)・シリーズ」はラフ・カット(Rough Cutt)です。

この頃のメタル界はメンバーの異動が激しく、特にLAメタルではそれが顕著だったような気がします。

一つのメタルバンドを書いていると、メンバーの異動で次々にバンドの名前が浮かんできます。すると、あっ。これはまだ書いていなかったな、などときりが無くなってしまいます。

今日のラフ・カットは昨日のクワイエット・ライオット」を書いている時に思い出しました。ポール・ショーティノの名前が出てきたので、ラフ・カットのジャケットが頭に浮かびました。

 

ラフ・カットは1981年にロサンゼルスで結成されました。当初のメンバーは

ポール・ショーティノ(Paul Shortino,vo)

ジェイク・E・リー(Jake E. Lee,g)

クロード・シュネル(Claude Schnell,key)

ジョーイ・クリストファニリ(Joey Cristofanilli,b)

デイヴ・アルフォード(Dave Alford,ds)

でした。

 

ポール・ショーティノはラフ・カットの後クワイエット・ライオットキング・コブラなど。

ジェイク・E・リーはご存じ、ラットの前身であるミッキーラットからラフ・カットへ加入。その後オジー・オズボーンバドランズ、ソロへ。

クロード・シュネルはこの後、ディオなど。

ジョーイ・クリストファニリラットから。

デイヴ・アルフォードは後にラットなどのアルバムに参加。

 

1982年にはジェイク・E・リーはバンドを去ります。代わりにクレイグ・ゴルディ(Craig Goldy,g)が加入します。

しかしメンバーチェンジは続きます。

 

そして1985年にようやくファーストアルバム『Rough Cutt』がリリースされます。 

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Rough Cutt - Ltd.

Rough Cutt - Ltd.

 

 

Side A

1.Take Her

2.Piece of My Heart

3.Never Gonna Die

4.Dreamin' Again

5.Cutt Your Heart Out

 

Side B

1.Black Widow

2.You Keep Breaking My Heart

3.Kids Will Rock

4.Dressed to Kill

5.She's Too Hott

 

この時のメンバーは

ポール・ショーティノ(Paul Shortino,vo)

アミア・デラク(Amir Davidson,g)

クリス・ヘイガー(Chris Hager,g)

マット・ソーアー(Matt Thorr,b)

デイヴ・アルフォード(Dave Alford,ds)

 

プロデュースはトム・アロム( Tom Allom)です。彼はストローブスやジューダス・プリーストのプロデュースでおなじみです。

クリス・ヘイガーとマット・ソーアーはラットからの移籍組です。

 

私はこのポール・ショーティノのヴォーカルが割と気に入っています。しかし、一流のヴォーカリストにはなれなかったようです。

 

 翌年にはセカンドアルバムWants You !』がリリースされます。

この後、ポール・ショーティノはクワイエット・ライオットのケヴィン・ダブロウの後任として移籍し、バンドはあっけなく解散しました。

 

2000年にはポール・ショーティノはラフ・カットを再結成しました。メンバーには元エアロスミスのジミー・クレスポや元クワイエット・ライオット、グレイトホワイトのショーン・マクナブなども加わりました。

 

僅か2枚のアルバムを残しただけですが、LAメタル界には足跡を残しました。

 


Take Her


Piece Of My Heart - Rough Cutt


Black Widow - Rough Cutt


You Keep Breaking My Heart

 

それでは今日はこの辺で。