Flying Skynyrdのブログ

映画や音楽、本についての雑文

聴き比べ 岡林とC.マキ『手紙』

今日の「聴き比べ」は『手紙』です。

昨日に引き続き岡林信康大先生の登場です。1969年のファーストアルバム『私を断罪せよ』に収められた曲です。その後シングルカットされました。この曲を知ったのは高校1年生か2年生の頃だったと思います。この詩で被差別部落の存在を知りました。そして部落解放運動というものを知りました。私の田舎にも確かに部落と呼ばれる一画がありました。そしてその一画を大人たちはあまりよく言っていなかったのを憶えています。まだほんの子供の頃です。この詩が私に与えた影響は大きいものがありました。社会に対するものの見方が大きく変わった頃でした。思い出の曲です。

 

この詩は中島一子さんという方の遺書から岡林先生が作詞したものです。差別が死を生む、そんな時代でしたが、今でも脈々と続いているのです。そしてなんとこの曲は放送禁止歌に指定されました。そんな時代でした。

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手紙

作詞・作曲:岡林信康

 

私の好きなみつるさんは、おじいさんからお店をもらい

二人一緒に暮らすんだと、うれしそうに話してたけど

私と一緒になるのだったら

お店を譲らないと言われたの

 

私は彼の幸せのために、身を引こうと思ってます

二人一緒になれないのなら、死のうとまで彼は言った

だから全てをあげたこと

くやんではいない 別れても

くやんではいない 別れても

 

もしも差別がなかったら、好きな人とお店がもてた

部落に生まれたそのことの、どこが悪い なにがちがう

暗い手紙になりました

だけど私は書きたかった

だけど私は書きたかった


岡林信康 (Nobuyasu Okabayashi) - 手紙

 

この頃の岡林先生は部落解放運動に走っていました。もう1曲、部落に関する名曲があります。そしてこれも後に放送禁止指定を受けました。朝のテレビ「ヤング720」に高石先生と出演してこの曲を歌ったのを憶えています。「チューリップのアップリケ」です。

はじめて岡林先生の動く姿を観た瞬間でした。そしてこの曲。何と暗い歌なのだろうと、びっくりしました。その時は詩の内容もよく憶えていませんでしたが、後でレコードを買って詩を読んでみると差別から来る貧困を訴える歌でした。作詩の欄に大谷あや子という名前が載っていました。彼女はこの曲の詩の元になる作文を書いた被差別部落の小学生でした。なんと切なくなる歌詞か、と思わず唸りました。

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チューリップのアップリケ

作詞:岡林信康、大谷あや子

作曲:岡林信康

 

うちがなんぼはよ 起きても

お父ちゃんはもう くつトントンたたいてはる

あんまりうちのこと かもてくれはらへん 

うちのお母ちゃん どこへ行ってしもたのん

 

うちの服を はよう持って来てんか

前は学校へ そっと会いに来てくれたのに

もうおじいちゃんが 死んださかいに

だれもお母ちゃん 怒らはらへんで

はよう持って来てんか スカートが欲しいさかいに

チューリップのアップリケ ついたスカート持って来て

 

お父ちゃんも時々 こうてくれはるけど

うちやっぱり お母ちゃんにこうてほしい

うちやっぱり お母ちゃんにこうてほしい

 

うちのお父ちゃん 暗いうちからおそうまで

毎日くつを トントンたたいてはる

あんな一生懸命 働いてはるのに

なんでうちの家 いつも金がないんやろ

みんな貧乏が みんな貧乏が悪いんや

 

そやでお母ちゃん 家を出ていかはった

おじいちゃんに お金のことで

いつも大きな声で 怒られはったもん 

みんな貧乏のせいや お母ちゃん ちっとも悪うない

はよう持って来てんか スカートが欲しいさかいに

チューリップのアップリケ ついたスカート持って来て

 

お父ちゃんも時々 こうてくれはるけど

うち やっぱり お母ちゃんにこうてほしい

うち やっぱり お母ちゃんにこうてほしい

 


岡林信康 チューリップのアップリケ

 

 

話が逸れました。

そして、「手紙」をカルメン・マキがカバーしました。アルバム『想い出にサヨナラ “カルメン・マキ'70" 』でカバーしました。ロックに転向する前です。この後、OZを結成します。この放送禁止歌をカバーするなんてマキさんらしいです。


カルメン・マキ 手紙

 

この曲はやっぱり岡林先生です。こんな曲があったのです。岡林先生には放送禁止歌がたくさんありました。どれも血気盛んな若者を奮い立たせる名曲揃いでした。しかし、岡林先生は翌年にはこれらの歌を自己批判するようになり、そして蒸発しました。「フォークの神様」の称号は彼に重くのしかかりました。

 

それでは今日はこの辺で。