ブリティッシュ・ロックの雄、私の大好きなバンドの一つ、トラフィックは1967年、スティーヴ(g,key,vo)、デイヴ(g,vo)、ジム・キャパルディ(Jim Capaldi ds,vo)、クリス・ウッド(fl,saax)の4人で結成されました。
スティーヴは15歳でスペンサー・デイヴィス・グループに兄のマフ・ウィンウッドと参加し、「キープ・オン・ランニング」や「ギミー・サム・ラヴィング」などの大ヒットを飛ばし、そのソウルフルなボーカルと切れの良いキーボードで天才少年と騒がれました。しかしよりポップな音楽を目指すリーダーのスペンサー・デイヴィスと音楽性の食い違いから脱退を考えるようになりました。スティーヴはそれまでのブルースやロックミュージックのみならずフォークやR&B、ジャズといった幅広い音楽を目指していました。そして3人と知り合いセッションを重ねるうちに新しいバンドの結成を決意します。スティーヴはスペンサー・デイヴィス・グループを脱退し、4人はバークシャーの小屋で6か月間合宿をし、ついにアイランドレコードよりデビューします。デビューシングル「ペイパー・サン」がいきなり大ヒットし、ファーストアルバム『Mr.Fantsy(ミスター・ファンタジー)』も大好評でした。プロデュースはあのジミー・ミラーでした。
その当時のイギリスのロック界はブルースロック花盛りで、トラフィックの作り出すちょっとサイケデリックでトータルアルバム的なところもあるこのアルバムは新しいロックの方向性を感じさせる1枚でした。次の2ndアルバム『Traffic(トラフィック)』も高評価でした。今でも名曲として歌われている「パーリー・クイーン」やデイヴ・メイソンの「フィーリング・オールライト」なども入っています。
しかし、ここで問題が起きます。スティーヴとデイヴの対立です。この二人、アルバムの曲作りは分業で、スティーブとジムは共作、デイブは単独となっています。互いに個性が強く、譲らないという面もあったのでしょう。デイヴはさっさとグループを去ります。スティーヴも最後に『Last Exit(フェアウェル・トラフィック)』という3人でのスタジオ録音と片面ライブのアルバムを出してあっさりとグループを解散します。1969年でした。
このあとスティーヴはエリック・クラプトン、クリームのds ジンジャー・ベイカー、ファミリーのb リック・グレッチとあのスーパー・グループ "Blind Faith(ブラインド・フェイス)"を結成します。そしてアルバム『Blind Faith(スーパー・ジャイアンツ)』を発表しますが、半年余りであえなく解散します。
このアルバムには今でもクラプトンやスティーヴに歌われている「Can't Find My Way Home」や「Presence Of The Lord」が含まれています。私も大好きです。余談ですがこのアルバムジャケットは一時問題になり、差し替えられていた時期がありました。理由は想像にお任せします。
解散後、スティーヴはソロアルバムの作製に取り掛かります。そこにかつてのトラフィックのメンバーであるジムとクリスが応援に来ます。そして出来上がった傑作アルバム『John Barleycorn Must Die(ジョン・バーレイコーン・マスト・ダイ)』(1970年)には「トラフィック」の名前が刻まれていました。トラフィックの再結成です。このアルバムは6曲入りですが、「ジョン・バーレイコーン」をはじめ地味ではありますが佳曲ぞろいです。特にこの曲はトラディショナル・フォークを思わせ、しっとりと聞かせます。
そしてこのあと、トラフィックはブラインド・フェイスのメンバーだったリック・グレッチをメンバーに加えました。そして、ライブアルバムが発表されたのです。『Welcome To The Canteen(ウェルカム・トウ・キャンティーン)』です(1971年)。このアルバムのクレジットには7人の名前がありました。メンバーの4人の他にジム・ゴードン(Jim Gordon, ds, ジョー・コッカーのバンドやDerek & The Domins)、リーバップ(per)、それとなんとデイヴ・メイソンです。デイヴが復帰したのです。しかし、このアルバムにはなぜか「トラフィック」の名前はありませんでした。デイヴの復帰はこの1枚限りでした。
このアルバムでデイヴは2曲のオリジナル曲を歌っています。「サッド・アンド・ディープ・アズ・ユー」は名曲です。
再びデイヴが外れ、残りのメンバーで次のアルバム『The Low Spark Of High Heeled Boys(ザ・ロウ・スパーク・オブ・ハイヒールド・ボーイズ)』を発表します(1971年)。このアルバムからは長尺演奏が目立ってきます。11分を超えるタイトル曲の他に7分を超える曲も2曲入っています。
次は録音地をマッスルショールズに移し、メンバーにもマッスルショールズのスタジオミュージシャンを入れます。ジム・ゴードンとリック・グレッチが抜けデヴィッド・フット(David Hood ,b)とロジャー・ホーキンス(Roger Hawkins ,ds)が加わりました。アルバムは『Shoot Out The Fantasy Factory(シュートアウト・ザ・ファンタジー・ファクトリー)』(1973年)です。このアルバムもわずか5曲です。白眉は「(Sometimes I Feel So)Uninspired 」です。この曲は何度聴いたかわからないほどです。スティーヴも疲れているんだなと思ったりしました。
この2枚のレコードジャケットは6角形でした。珍しいのでレコードを載せます。
1972年当時の珍しいビデオ(VHS)があります。おそらくDVDにはなっていないと思います。メンバーはマッスルショールズのミュージシャンたちです。
このあとバリー・ベケット(Barry Beckett ,key)を加え、1973年、2枚組ライブアルバムを発表します。『On The Road(オン・ザ・ロード)』です。
2枚組なのに収録は6曲です。ジャズロックのような雰囲気を漂わせます。
そして1974年にラストアルバム『When The Eagle Flies(ホエン・ジ・イーグル・フライズ)』を発表します。マッスルショールズのメンバーは抜け、ベースにジャマイカのロスコ・ジーが加わりました。
ラストを飾るにふさわしい、何とも言えない、ジャンルにとらわれない、これぞトラフィックです、というアルバムです。
1983年にはクリス・ウッドは亡くなります。そして1994年にスティーヴはジムとトラフィック名義でアルバムを発表します。『Far From Home(ファー・フロム・ホーム)』です。
そして今度はデイヴ・メイソンとジム・キャパルディがコンビで活動します。
しかしジムも2005年に亡くなります。もう残るはスティーヴとデイヴだけです。寂しい限りです。
トラフィック解散後、デイヴ・メイソンとスティーヴ・ウィンウッドはそれぞれ来日を果たしました。デイブは1977年に中野サンプラザで、スティーヴは1989年代々木の体育館でそれぞれコンサートを開いています。当然私は観に行きました。双方とも大満足でしたが、スティーヴの方は来日が遅かったので、ソロからの曲が多く、期待していたトラフィック時代の曲がほとんど聴けなかったのがちょっと残念でした。でもギターを弾きながらのブルースは圧巻でした。デイヴの方はその前に発表されていたライブアルバム『Certified Live(ライブ~情炎)』を彷彿とさせるもので大満足でした。
それぞれのソロアルバムについてはまたの機会に書くことにします。たくさんの名盤があります。