今日はドアーズについて書こうと思います。ドアーズと言えばジム・モリソンを抜きにしては語れません。カリスマ・ヴォーカルのはしりでしょうか。迫力あるヴォーカル、難解で知的な詩、麻薬、セックスとどれをとっても当時のアメリカの若者を虜にするシンボル的な存在でした。
ドアーズは1965年、ジム・モリソン(vo)とレイ・マンザレク(Ray Manzarek,key)、ロビー・クリューガー(Robby Krieger,g)、ジョン・デンスモア(John Densmore,ds)の4人で結成され、ベーシストはいません。ドアーズという名前はウィリアム・ブレイクの「天国と地獄の結婚」の『忘れがたい幻想』の中からの一節をとったものです。
If the doors of perception were cleansed everything will appear to man as it is,infinite
(知覚の扉が拭い浄められるとき、万物は人の目にありのままに、無限に見える.)
(by 水上はるこ)
だそうです。
ドアーズはプロデューサーのポール・ロスチャイルドに見いだされ、エレクトラ・レコードと契約します。きっかけは彼らの「ウィスキー・ア・ゴー・ゴー」への出演でした。たくさんのウェストコーストのレコード会社が契約の打診をしてきましたが、それらをすべて断り、わざわざイーストコーストに本社を置くエレクトラと契約したのは、エレクトラには自分たちの音楽を理解してくれる人がいるということでした。当時エレクトラはLP中心の製作で、ヒット曲はほとんどなく、ジャズとフォーク中心でロックもあまり手掛けていませんでしたが、彼等はエレクトラを選択し、成功します。
ファーストアルバムは『ハートに灯をつけて(light My Fire)』です。1967年です。
この中の第2弾のシングル「ハートに灯をつけて」が大ヒットし、ウェストコーストを代表するバンドになりました。「ブレーク・オン・スルー」や「アラバマ」など名曲が多く、特にラストの「ジ・エンド」は11分にも及ぶ大作で、歌詞の中に「父さん、あんたを殺したい、母さん、あんたと・・・したい」というエディプス・コンプレックスを思わせるフレーズあり、それをジムが絶叫するという曲で、のちにコッポラ監督の映画『地獄の黙示録』で使用されました。歴史に残る名盤です。
2枚目は『まぼろしの世界(Strange Days)』です。同じく1967年です。
これも名盤です。ドアーズの音楽は、もちろんジムのヴォーカルが際立ちますが、実はレイ・マンザレクのオルガンが特徴的なのです。このオルガンを聴くだけで、ああドアーズだなとすぐ若わかるほどです。前作の「ジ・エンド」にしてもこのアルバムのラストでやはり11分に及ぶ「音楽が終わったら(When The Music Over)』にしても、レイのオルガンが効果的に使われています。
第3弾は『太陽を待ちながら(Waiting For The Sun)』です。見開きで。1968年です。
この中の「ハロー・アイ・ラブ・ユー」が大ヒットしアルバムは全米1位を記録しました。この曲はキンクスの「オール・オブ・ザ・ナイト」の盗作だと騒がれましたが、「そう言われるとそうだな」という当時の感想でした。
なお、2作目からはベースにスタジオミュージシャンを使っています。
翌年、『ソフト・パレード(The Soft Parade)』を発表します。見開きで。
ドアーズの中で最も評価が低いのではないかと思われるアルバムです。
でもこの中には「タッチ・ミー」などのヒット曲も含まれます。
翌年、2枚組ライブアルバム『アブソルートリー・ライブ(Absolutely Live)』を発表します。
このライブアルバムは1969年から70年にかけて数か所のライブ音源を収録しています。ライブバンドとしてのドアーズを初めて聴くことができました。ただし、「ハートに灯をつけて」「ジ・エンド」が入っていません。ライブで聴きたかったと当時思いました。
同じく1970年に『モリソン・ホテル(Morrison Hotel)』をリリースします。
この頃になると、ヒット曲は出なくなります。しかしこのアルバムはいいです。オープニングからブルースをやったりして、バンドとしての質は高くなったと思います。ジム・モリソンの声はブルースを歌うのに適しています。そしてこの傾向は次のアルバムへと引き継がれます。
翌1971年に『L.Aウーマン(L.A Woman)』がリリースされます。
私個人としてはこのアルバムがドアーズの最高傑作だと思っています。このアルバムも前作同様ブルージーな雰囲気が前面に出て、骨太ロック・バンドとして完成したのではないかと思います。なお、セカンド・ギターでマーク・ベノが参加しています。
しかし、このアルバムがジム・モリソンの遺作となってしまいました。収録の後、ジムは恋人と休暇でパリへ向かいます。この頃のジムは、すっかり太って、形相も変わりまるで別人のようになっていました。ピチピチの革のパンツを履いて観客を挑発していた姿は見る影も無くなっていました。そういうこともあって休養を決断したのですが、1971年7月3日、パリのアパートで死体で発見されました27歳でした。不審死だったのですが検視も行われず、様々な憶測が飛びました。実際はまだ生きているとか、殺されたのだとかいろいろな噂が流れましたが、結局、ヘロインの過剰摂取ということで落ち着きました。ジムには様々なエピソードがあります。エピソードだけ1記事書けるほどです。ステージで性器を露出して逮捕されたとか、ステージで女の子にわいせつ行為をはたらいたとか、数え切れないくらいのエピソードが残っています。彼に与えられた言葉には「傲慢」「ホモ」「女たらし」「退廃」「精神分裂症」「偽善者」「ナルシスト」「自意識過剰」などなど批判的なものがある一方、「セックス・シンボル」「超現実的感覚派の詩人」などと崇拝する若者も数多くいました。大人世代が反対すればするほど、若者人気は高まります。
彼等はウェストコーストと言ってもロサンゼルス出身で、当時のウェストコースト・ロックはサンフランシスコのバンドが中心でロスはやや低く見られていました。それを見直させたのもドアーズの功績だったのではないでしょうか。
ジムの死後、残ったメンバーは活動を継続しますが、いかんせんジム・モリソンのいないドアーズでは成り立たず、結局解散します。
レコードからCDへと替わっていく中で、ドアーズの未発表ライブやコンピレーションが数多く発売されました。私も随分付き合いましたが、とにかく出るわ出るわできりがありません。その中でいくつか紹介します。
まだあったと思いますがこの辺にしておきます。先ほどの『アブソルートリー・ライブ』の漏れている部分はこれらで補えます。
珍しいブートレグ、2枚組。
もう売っていないかもしれない、VHS.2種類。
ジョン・デンスモアとジェリー・ホプキンス、ダニエル・シュガーマンが書いた本。ジムの死に関してはこの本に詳しく書かれています。
そいえば映画もありました。懐かしい。
ドアーズは偉大なバンドでしたが、ジム・モリソンの早逝は悔やまれます。
この頃、偉大なミュージシャンの死が相次ぎました。ストーンズのブライアン・ジョーンズ、キャンド・ヒートのアル・ウィルソン、ジャニス・ジョップリン、ジミ・ヘンドリックスそしてジム・モリソン。70年前後はロック界にとって大きな財産を失った時期で、それに呼応するように社会も大きく変わりつつあったような、そんな時代だった気がしています。
それでは今日はこの辺で。