1985年(昭和60年)の牡馬クラシック戦線はシンザン産駒、ミホシンザンに注目が集まりました。
ミホシンザンの初戦は4歳(今でいう3歳)の1月中山1600メートル戦でした。2着に9馬身差の圧勝で、早くも素質の片鱗を見せました。続いて2戦目は2月の中山の400万下特別戦、芝の2000メートルでしたがあっさりと勝ち上がりました。
3戦目に皐月賞トライアルスプリングステークス(GⅡ)に出走します。人気は当然ながら1番人気で朝日杯3歳ステークスの勝馬スクラムダイナとの争いになりましたが、1馬身4分の3差をつけて圧勝しました。そして皐月賞へと進みます。
皐月賞も当然圧倒的な1番人気。2番人気にサクラサニーオー、スクラムダイナは4番人気に人気を落としていました。
レースは3コーナーで先頭に並び、そのまま押し切り、スクラムダイナに5馬身の差をつける圧勝でした。3着はサクラサニーオーでした。この強さには父シンザンの勝ち方とは違う強さを見ました。シンザンはゴール前際どく交わすという勝負強さがあったのですが、ミホシンザンは完璧にねじ伏せるという強さがありました。
しかし、レース前から脚を気にしていたミホシンザンでしたが、レース後骨折が判明し、ダービーは断念せざるを得ませんでした。3年連続で3冠馬が誕生するというもっぱらの小判でいたが、水の泡となりました。
日本ダービーはミホシンザンを欠き、今一つ盛り上がりに欠けましたが、素質馬のシリウスシンボリが皐月賞トライアルの若葉ステークを勝ったものの皐月賞は断念し、ぶっつけでダービーに臨んできました。素質を買われて1番人気に押され、重馬場の中、外を回りながら2着のスダホークに3馬身差をつけて優勝しました。
ミホシンザンは夏場を休養に当て、秋のセントライト記念(GⅢ)に出走しましたが、不良馬場が響いたのか5着に敗れ、初の敗戦を喫しました。続いて西下し菊花賞トライアルの京都新聞杯(GⅡ)に出走し優勝します。
迎えた菊花賞はダービー馬のシリウスシンボリが海外遠征で不在、当然ながら1番人気に押されました。2番人気はダービー2着馬スダホークでした。
レースは第4コーナーで先頭に立ちそのままスダホークを振り切り優勝しました。3着にサクラサニーオーが入りました。2冠目の父子制覇になりました。
この後ミホシンザンは有馬記念に臨みますが、シンボリルドルフに4馬身差をつけられての2着でした。ここら辺はシンボリルドルフの記事で触れています。
5歳になり3月の日経賞(GⅡ)に出走しますが、6着と惨敗。レース後再び骨折が判明、休養に入ります。秋初戦は毎日王冠(GⅡ)からスタートします。1番人気に押されるも3着に敗れます。そして天皇賞に臨みますが、サクラユタカオーに敗れ3着。
続くジャパンカップも日本馬最先着ながら3着、そして暮れの有馬記念もその年のダービー馬ダイナガリバーに敗れての3着と5歳時には未勝利に終わりました。
明けて6歳、AJCC杯(GⅡ)から始動します。1番人気で優勝。続く日経賞(GⅡ)も5馬身差の1着。勇躍春の天皇賞に向かいます。
天皇賞では当然1番人気、2番人気はニシノライデン、3番人気がスダホークでした。
人気とは裏腹にミホシンザンの状態は下降線でした。
レースは終始内ラチを走り、直線で先頭先頭集団に獲りつき、前を行くニシノライデンと内外大きく離れてゴールイン。写真判定の結果はハナ差でミホシンザンが優勝。ニシノライデンがゴール前斜行してアサヒエンペラーの進路を妨害したとして失格となりました。
2着にアサヒエンペラー、3着にスダホークとなりました。これで父子3冠制覇となりました。
このあとミホシンザンの疲労はひどく、ファン投票1位に選出された宝塚記念も断念し、休養しますが体調が回復せずそのまま引退となりました。
競争成績 16戦9勝 2着1回、3着4回 皐月賞、日本ダービー、天皇賞(春)
19戦15勝 2着4回 すべて連対 今のGⅠ 6勝。
それでは今日はこの辺で。