1993年のクラシック戦線は3強対決に沸きました。
ウイニングチケット、ビワハヤヒデ、ナリタタイシンの3頭です。鞍上もそれぞれ途中からですが柴田政人、岡部幸雄、武豊と当時を代表する騎手でした。
まずはウイニングチケットとナリタタイシンの対決が3月の弥生賞で見られました。それまでウイニングチケットは4戦3勝重賞初挑戦。ナリタタイシンは7戦2勝、2着3回、ラジオ短波賞3歳ステークス優勝。
レースは1番人気のウイニングチケットが勝ち、2番人気のナリタタイシンが2着でした。
ビワハヤヒデは皐月賞トライアル若葉ステークスを勝って皐月賞へと向かいます。6戦4勝2着2回と連対率100%です。デイリー杯3歳ステークスを勝ち、朝日杯3歳ステークス、共同通信杯はいずれも2着でした。
そして迎えた皐月賞。1番人気はウイニングチケット、2番人気はビワハヤヒデ、ちょっと差があって3番人気がナリタタイシンになりました。この時点ではまだウイニングチケットとビワハヤヒデの2強という感じでした。
レースはビワハヤヒデが前目の競馬。ウイニングチケットは中団、ナリタタイシンは最後方からの競馬でした。直線に入ってビワハヤヒデが先頭に立ち、ウイニングチケットが追い込みをかけますが伸びを欠きます。ほぼビワハヤヒデの勝利かと思われた瞬間、猛烈な勢いで大外からナリタタイシンが跳んできました。そしてあっという間に首差かわして優勝を遂げました。2着にビワハヤヒデ、伸びを欠いたウイニングチケットは4択に終わりました。ここに事実上の3強が誕生しました。
続いて日本ダービーです。3頭とも皐月賞からダービーへ直行しました。人気は前走で敗れたウイニングチケットが再び1番人気、ビワハヤヒデが2番人気、3番人気がナリタタイシンと皐月賞と同じになりましたが、その差はほんの僅かになりました。4番人気はNHK杯を勝ったマイシンザンです。
レースはビワハヤヒデが中団の前、ウイニングチケットはそれをマークするようにその後ろ、ナリタタイシンは例によって離れた後方から。直線に入ってウイニングチケットが抜けだします。内からビワハヤヒデも来ます。大外からはナリタタイシンが凄い脚で追い込んできます。そしてゴール前、3頭の壮絶なる叩き合いの末、半馬身差でウイニングチケットがビワハヤヒデを抑え優勝、ナリタタイシンはさらに1馬身遅れての3着でした。柴田政人は念願のダービー制覇を果たしました。場内は「政人コール」がなりやみませんでした。
その後は、ナリタタイシンが高松宮杯(当時は7月施行で中京の2000メートル、GⅡでした)で2着になり、京都新聞杯から菊花賞に向かう予定でしたが直前に運動誘発性肺出血を発症しぶっつけで本番に出走することになりました。
ビワハヤヒデは夏場休養して、神戸新聞杯を勝って菊花賞に向かいました。
ウイニングチケットは同じく夏場を休養に当て、トライアルの京都新聞杯を勝って菊花賞に向かいました。
そして本番。ビワハヤヒデが1番人気、ウイニングチケットが2番人気、ナリタタイシンはローテーションの狂いから大きく離されての3番人気になりました。
レースはビワハヤヒデが早め早めで2~3番手、ウイニングチケットは中団、ナリタタイシンは例によって最後方からの競馬。4コーナー手前で先頭に立ったビワハヤヒデがそのままゴール。2着争いはステージチャンプがウイニングチケットを僅かにかわし2着、ナリタタイシンは全く見せ場なく17着と惨敗しました。やはり病気の影響が大きかったのでしょう。
3頭での直接対決はこれが最後となりました。
このあとナリタタイシンは休養で4歳を終えます。
ウイニングチケットは果敢にジャパンカップに挑戦し、レガシーワールドの3着と好走します。そして有馬記念に出走します。
ビワハヤヒデも有馬記念に出走してきました。ビワハヤヒデが堂々の1番人気、ジャパンカップを勝ったレガシーワールドが2番人気、ウイニングチケットは3番人気でした。勝ったのは奇跡の復活を果たしたトウカイテイオーですが、ビワハヤヒデが健闘し2着に入り、4歳馬ながらこの年の年度代表馬に選出されました。そしてこの年の最優秀3歳牡馬に半弟のナリタブライアンが選出され、翌年のクラシック戦線を賑わすことになります。
ウイニングチケットは11着と大敗を喫します。
明けて5歳になり、ビワハヤヒデとナリタタイシンの対決が春の天皇賞で実現します。
京都記念を勝ったビワハヤヒデと目黒記念を勝ったナリタタイシン、春の天皇賞ではビワハヤヒデが1番人気、ナリタタイシンが2番人気でしたが、ビワハヤヒデの人気が1.3倍と圧倒的でした。
レースはビワハヤヒデが例によって早めの2番手追走、ナリタタイシンは後方待機。4コーナー手前で早くもビワハヤヒデが先頭、外からナリタタイシンが猛然と追い込みますが差が詰まらず、ビワハヤヒデの完勝。ナリタタイシン2着でした。
この後、ナリタタイシンは故障発生で年内休養、そのまま引退かと思われましたが、翌年の宝塚記念に出走してきました。しかし、1年以上のブランクではどうにもならず16着と大敗しました。このレースでライスシャワーが非業の死を遂げています。
その後再び故障発生。止む無く引退を決意し、ナリタタイシンの競争生活は終わりました。
ビワハヤヒデは天皇賞快勝後、宝塚記念も圧倒的人気で勝利し、秋初戦のオールカマーに出走してきました。
一方のウイニングチケットは有馬記念の後、休養に当て翌年7月の高松宮杯に出走しましたが1番人気ながら5着と敗れ、秋のオールカマーに出走を決めました。
ここに3強のなかの2頭の5度目の戦いが実現しました。
8頭立てと寂しいレースになりましたが、ビワハヤヒデが1.2倍の圧倒的1番人気、ウイニングチケットが2.8倍の2番人気、3番人気は32.6倍にもなっていました。トミシノポルンガという地方競馬の馬でした。
レースはいつもの通りビワハヤヒデが2番手追走、ウイニングチケットは中団待機。知4コーナー手前でビワハヤヒデが先頭、外に出したウイニングチケットが追い込みますが差は詰まらず、ビワハヤヒデの完勝。ウイニングチケットは2着をなんとか死守しました。
そして迎えた秋の天皇賞。ビワハヤヒデが単勝1.5倍の1番人気、ウイニングチケットが5.0倍の2番人気、ネーハイシーザーが8.6倍の3番人気になりました。
ビワハヤヒデとウイニングチケット、実に6度目で最後の直接対決となりました。
レースは2番手ネーハイシーザーの後3番手でビワハヤヒデ、ウイニングチケットは中団。そのまま直線へ。しかしいつもと違うのはここからでした。ビワハヤヒデもウイニングチケットも全く伸びません。結局ネーハイシーザーが勝って、ビワハヤヒデは5着、ウイニングチケットは8着と惨敗しました。ビワハヤヒデは初めて連対を外しました。
レース後、両馬とも屈腱炎を発症していたことが判明、完治に1年かかるということで共に引退を表明しました。
ここに3強時代が終わりを告げました。クラシック3冠を分け合った3頭ですが、引退後は3頭とも目立った子供は輩出できませんでした。それでも1993年は競馬を盛り上げてくれた3頭でした。
ビワハヤヒデの戦歴 16戦10勝 2着5回 菊花賞、天皇賞(春)、宝塚記念
ウイニングチケットの戦歴 14戦6勝 2着1回 日本ダービー
それでは今日はこの辺で。