アル・クーパー(Al Kooper)がボブ・ディランのアルバム『Highway 61 Revisited』にオルガンで飛び入り参加し、認められて、ブルース・プロジェクト(The Blues Project)に招かれたのが1966年でした。
ブルース・プロジェクトはダニー・カルブ(Danny Kalb,g)が1965年に結成したバンドです。
当初のメンバーはアーティ・トラウム(Artie Traum,g)、アンディ・カルバーグ(Andy Kulberg,b)、ロイ・ブラメンフェルド(Roy Blumenfeld,ds)でスタートしますが、すぐにアーティの代わりにスティーヴ・カッツ(Steve Katz,g)が加入しました。さらにトミー・フランダース(Tommy Flanders,vo)が加わって、ブルース・プロジェクトがスタートしました。
バンドはコロムビアのオーディションを受けますが不合格。プロデューサーのトム・ウィルソンはボブ・ディランのレコーディングに連れて行って成功したアル・クーパーをピアノ・オルガンで起用するためにバンドに誘いました。バンドはVerveレコードと契約しました。そしていきなりライヴ・レコーディングを始めました。1966年、彼らのファーストアルバムは『Live at the Café Au Go Go』です。
ブルースナンバーの他に、ドノヴァンやエリック・アンダーソンのフォークやチャック・ベリーの曲なども取り上げています。この中にはアル・クーパーのオリジナルはありません。ほぼカバー曲です。
ここで、トミー・フランダースは脱退します。
そして同年、セカンドアルバムがリリースされますが、初めてのスタジオアルバムになります。『Projection』です。
ここにきてようやくアル・クーパーのオリジナル曲が4曲生まれました。中でも「泣かずにいられない」や「フルート・シング」などの名曲が収録されています。またスティーヴ・カッツも「スティーヴズ・ソング」で存在感を示しました。
ブルース・プロジェクトはバンド名にブルースが付いていますが決して純粋なブルースバンドではありませんでした。この頃のアメリカのブルースバンドといえばキャンド・ヒートやポール・バターフィールド・ブルース・バンドなどが有名ですが、ブルース・プロジェクトは彼らとは明らかに一線を画します。ブルースの他にフォーク、R&B、ポップス、ジャズ、サイケデリックなど幅広いジャンルをこなす、いわゆる実験的なプロジェクトのようなバンドでした。
アル・クーパーはさらに、バンドにホーンを加えたいと提案します。しかし、これはダニー・カルブに反対されます。アル・クーパーはそれなら辞めると、あっさり退団します。この後、バンドはバラバラになり、ライブアルバム、といっても拍手を後からつけた様なアルバム『Live at Town Hall』をリリースして解散してしまいます。
やはりアル・クーパーの存在は大きかったのでしょう。それでもこのバンドの果たした役割は大きかったと思います。1960年代中頃、いわゆる新しいロックの黎明期にブルースのみならず、幅広いジャンルの音楽を取り込んだバンドとしてある意味ではバッファロー・スプリングフィールドと双璧をなすような存在だったのかもしれません。
そして1967年、アル・クーパーは新たにメンバーを集め、念願のホーンを導入したバンドブラッド・スウェット・アンド・ティアーズ (Blood, Sweat & Tears、BS&T)を結成しました。メンバーにはアルを追ってブルース・プロジェクトを退団したスティーヴ・カッツも加入しました。
その他のメンバーは
ランディ・ブレッカー(Randy Brecker,tp,flugelhorn,)
ジェリー・ワイス(Jerry Weiss,tp,flugelhorn)
フレッド・リプシウス(Fred Lipsius.as,key)
ディック・ハリガン(Dick Halligan,tb,flute)
ジム・フィルダー(Jim Filder,b)
ボビー・コロンビー(Bobby Clomby,ds)
そして1968年にファーストアルバム『Child Is Father to the Man(子供は人類の父である)』を発表します。
ジョン・サイモンをプロデュースに迎え、ここではアル・クーパーのオリジナルの他にティム・バックリー、ハリー・ニルソン、ランディ・ニューマン、キャロル・キングなどをカバーしています。
ホーンが入ったジャズロック、ブルース、さらにポップスと万華鏡のようなアルバムです。売上の方もビルボードの47位と健闘しました。しかし、レコード会社コロムビアが期待したシングルヒットは生まれませんでした。この原因はアル・クーパーのヴォーカルが弱いという判断をされました。バンドは新しいヴォーカルを探し始めました。アル・クーパーは追い出されるようにバンドを去りました。
代わりのヴォーカルはデヴィッド・クレイトン・トーマス(David Clayton-Thomas)です。1968年、バンドはセカンドアルバム『Blood、Sweat&Tears』をリリースします。このアルバムからベスト5に入るシングルヒットが4曲も生まれ、アルバムも全米1位、グラミー賞まで獲得しました。しかし、この後デヴィッド・クレイトンのワンマンぶりに嫌気がさし、多くのメンバーが去り、売り上げもサードアルバム以降は徐々に下降気味になりました。
BS&Tでのアル・クーパーは見逃されがちですが、このファーストアルバムの存在はその後のロック界にとって大きかったと思います。
一方、追い出されたアル・クーパーのその後は以前の記事で何度か書いていますので参考にご覧ください。
ボブ・ディランのレコーディングで知り合ったマイク・ブルームフィールドとのセッションアルバムやライヴアルバム、そしてソロアルバムの制作、レーナード・スキナードのプロデュースなど60年代から70年代にかけて果たした役割は大きいものが有りました。特にシカゴ(Chicago)に先駆けて日本ではブラス・ロックと呼ばれたジャンルを作り上げた功績は大でした。
特に、まだロック界においてセッションアルバムなどと呼ばれるものがまだなかった時代に『スーパーセッション』なるアルバムを制作、さらにファーストソロアルバム『I Stand Alone』では大胆なるオーケストラの導入など、実験好きなアル・クーパーでした。
こうしてみてくると、アル・クーパーという人間はどうやら一つ所では落ち着かない性格のようです。それだけ好奇心というか向上心が強いのでしょう。
THE BLUES PROJECT - I CAN'T KEEP FROM CRYING SOMETIMES
"I Love You More Than You'll Ever Know" Blood, Sweat & Tears
Blood, Sweat & Tears "Just One Smile"
それでは今日はこの辺で。