映画には、その映画を観たことによって、大袈裟ではありますが善かれ悪しかれその後の人生に大きな影響を与える場合があります。
以前にも何度か書いたような気もしますが、私の場合もそれまでと映画の見方が変わったと思わせる映画がいくつかあります。ミケランジェロ・アントニーニやジャン・リュック・ゴダールなどのような著名な映画作家の作品やアメリカン・ニューシネマなど、それまでの小中学校時代にのような娯楽一辺倒の作品とは違った作品を観ることによって、新しい映画観というものが出来上がったような気がしています。もちろん娯楽映画も大好きです。
それとは別に、その映画を観ることによって、映画そのものではなく、その映画を通して社会を見る目に変化があったという映画もあります。
その一つが新藤兼人監督の『裸の十九歳』という映画です。
監督:新藤兼人
制作:日本 1970年公開
この映画は連続射殺魔である永山則夫をモデルにした映画です。当時高校生だった私が、1968年に起きた連続射殺事件の犯人を描いた映画であるということを知って映画を見に行ったのか、あるいは映画を観てからその事実を知ったのか、どちらだったのかは憶えていませんが、かなりの衝撃を受けたのを憶えています。
北海道の網走で生まれた永山は8人兄弟の7番目の子供(四男)で、父親はリンゴの剪定職人で浮気男。母親はそんなダメ男との間に8人もの子供を作り、育てきれず永山を含む4人を置いて、実家の青森に引っ越してしまいます。残された4人はゴミ箱を漁ったりして何とか生き延びます。その間、永山は兄弟から虐待されていました。ようやく警察に保護され、青森の母親の元に送られます。
中学卒業と共に集団就職で東京へ上京します。渋谷のフルーツパーラーに就職しますが長続きしません。その後も職を転々として、海外への密航を図って警察に捕まったりします。ある時、横須賀のアメリカ軍人の住宅に侵入し、そこで拳銃を手に入れます。
1968年10月、芝公園の東京プリンスホテルのベンチで寝ているところをガードマンに職質され、射殺してしまいます。それから同じく10月、京都に行き八坂神社でやはり守衛を射殺します。今度は函館に行き、タクシーに乗って運転手を射殺。金銭を強奪します。次に名古屋に行って、同じくタクシー運転手を射殺します。
その後は東京に戻り、新宿でキャバレーやジャズ喫茶で働きます。ところが1969年、一橋スクール・オブ・ビジネスに強盗に入りますがガードマンに発見され、発砲。その間に逃げますが、その後手配中の警察に逮捕されます。
映画はそんな永山の生い立ちと、母親の悲惨な人生を重ね合わせながら進行します。
私がこの映画で影響を受けたというのは、この映画によって永山則夫という人物を知ったということです。もっと言うと興味を持ったと言った方がいいかもしれません。この後も、永山則夫は何度も私の前に顔を出すことになるのです。
1979年の第1審で死刑判決。1981年の控訴審では無期懲役。そして1987年の最高裁の判決は再び死刑判決。1990年上告棄却で死刑確定。そして1997年8月1日死刑執行。48歳でした。
この時の判決がいわゆる「永山基準」と呼ばれ、犯行の動機、犯人の年齢や被害者の数など9項目が死刑判決の判断基準とされるようになりました。
こうした出来事がニュースになるたびに永山則夫のことが頭をよぎります。
逮捕当時は文字の読み書きも満足に出来なかった永山は獄中での猛勉強でマルクスの『資本論』を読破するまでになり、社会批判を展開し、『無知の涙』『人民をわすれたカナリヤたち』や小説『木橋』などを執筆しました。『木橋』は新日本文学賞も受賞しました。書籍の売上金は被害者への見舞金として当てられました。その間、ミミこと新垣和美さんと獄中結婚もしています。その後離婚しました。
私は彼の生い立ちやその後の獄中での活動にいたく興味を持ち、佐木隆三の『死刑囚 永山則夫』をはじめ多くの書籍を読むほどになってしまいました。もちろん本人の著作も読みました。なんとも興味深い人物です。
貧困・貧乏による無学・無知がイコール犯罪者になるなどとは毛頭思ってはいませんが、永山則夫に関して言えば本人も認めているように無知であったことが一つの要因であったことは確かでしょう。しかし他の兄弟は犯罪者にはなっていません。従って彼は特異な人間だったのです。
たった1本の映画がその後の人生に一つの問題提起をするということがあるのだということをこの映画が教えてくれました。この映画がきっかけとなって、これ以後、様々な凶悪事件の真相や数々の冤罪事件の存在、さらには死刑制度そのものに興味を持つようになり、自分なりに勉強することができました。その結果、昭和史の闇というものの存在も知ることができました。そういう意味では私の中では重要な1本でした。
『裸の十九歳』のなかで永山則夫が函館に向かう汽車の中で、参考書の空欄に詩を書いています。この詩が印象に残って、今でも忘れることが出来ません。
「私の故郷(北海道)で消える覚悟で帰ったが死ねずして函館行きのどん行に乗る。この One Week どうして、さまよったかわからない。私は生きる。せめて二十歳のその日まで。最悪の罪を犯しても、残された日々を、せめて、みたされなかった金で生きるときめた。母よ、私の兄姉妹よ。許しは乞わぬが私は生きる。寒い北国の最後のと思われる短い秋で、私はそう決めた」
永山則夫の生い立ちには貧困や虐待、ネグレクトといった、今の時代にも共通する多くの課題を含んでいます。
なんか支離滅裂になってしまいました。
それでは今日はこの辺で。