先日のキネ旬シアターは『家族を想うとき』でした。
監督:ケン・ローチ
主演:クリス・ヒッチェンズ 、デビー・ハニーウッド、リス・ストーン
製作:2019年 イギリス・フランス・ベルギー
以前、このブログでも紹介した2016年のパルムドール賞に輝いた作品『わたしは、ダニエル・ブレイク』を撮った監督、ケン・ローチが再びメガホンをとり、イギリスの新自由主義経済のひずみを痛烈に批判した映画を製作しました。
元建築関係の仕事に携わっていたリッキーは10年前の銀行の取り付け騒ぎで家も職も失い、以来職を転々としましたが賃貸生活で借金は増える一方で、マイホームを購入するのが夢でした。その実現のため、より稼げる仕事を希望しますが、友人に紹介されたのはフランチャイズの宅配ドライバーでした。
リッキーの身分は希望する正社員ではなく個人事業主でした。ただ、会社側の「勝つも負ける本人次第」という言葉にやる気を出します。ただし、宅配に必要な車はもちろん経費はすべて個人負担です。配送用のバンを会社からレンタルするとレンタル料が収入よりも高くなると言われ、リッキーはまず車を購入しようと妻のアビーに相談します。アビーは訪問介護の仕事をしており車は欠かせません。しかし、これ以上の借金は不可能で、リッキーはアビーに頼み込み車を売ってバンを購入します。アビーは仕方なくバスを使って訪問介護の仕事を続けます。
リッキーが会社と結んだ契約はゼロ時間契約と呼ばれるもので、ノルマは厳しく一日中監視されます。配達時間が遅れたりすると罰金が待っています。トイレに行く時間もなくペットボトルで代用したりする有様です。
一方アビーの方もバスでの移動で勤務時間が長くなり息子のセブや娘のライザとのコミュニケーションも不足がちになりました。そして案の定、セブは壁アートに夢中になり学校をさぼるようになりました。学校からの呼び出しにも、リッキーは仕事を休むわけにいかず行けませんでした。こうして家族の状況は悪化の一途をたどりました。
ある日セブが万引きをしたと警察から連絡が入ります。リッキーはアビーに行ってもらうよう連絡しますが、携帯が繋がりません。リッキーは会社に休むと言いますが、罰金を払わされます。セブは反省するどころか益々心を閉ざします。セブのことで夫婦間の言い争いも激しくなっていきます。そしてとうとうリッキーはセブに対し「出ていけ!」と怒鳴ってしまいます。セブは出て行きました。
翌朝、仕事に出かけようとしたら車のキーがありません。セブが盗んだに違いないとセブを探し出して問い詰めますが、セブは答えず反抗的態度に怒ったリッキーは遂に殴ってしまいます。セブは再び出て行ってしまいます。リッキーはまたしても仕事に行けず、罰金を支払うことになりました。借金は増える一方です。車のキーは長女のライザが隠したのです。ライザは車が無ければ、リッキーが仕事に追われることもなく、また昔のように家族が楽しく過ごせると思ったのでした。リッキーはセブを疑ったことを反省します。
そして悲劇が起こります。リッキーが仕事中に暴漢に襲われ、大怪我をしたうえに、荷物を盗まれてしまったのです。さらに配達用の通信端末を壊されてしまいました。これらを弁償しなくてはなりません。病院で3時間もの間診察を待っている間に会社から電話があり、案の定罰金と弁償の話をしてきたのです。それを聞いていたアビーは電話を取り上げ、思わず「人でなし!」と怒鳴ってしまいます。汚い言葉を発してしまったことを激しく恥じ入るアビーを支えて病院を後にします。
その日遅く帰って来たセブはリッキーにやさしい言葉を書けます。翌朝、リッキーはキッチンにメモを残して出かけます。メモには「俺は大丈夫」と書かれていました。エンジン音が聞こえると、セブが飛び出して、車を止めようとします。そしてアビーも飛んできて必死に止めます。しかし、リッキーはそれを振り切って仕事に向かうのです。リッキーの泣きながら運転する横顔が長回しで映し出しされエンディングです。
何とも言えないやりきれなさが残ります。ケン・ローチ監督の前作『わたしは、ダニエル・ブレイク』と同じように格差社会の中で喘ぐ人たちに光を当てた映画でした。
技術の発展でその便利さを享受する人間がいる一方で、それらの人を支える人間もまたいます。宅配業界や介護業界の厳しさは先進国がいずれも抱える問題なのでしょう。
今年のアカデミー賞の作品賞でも韓国映画の『パラサイト』が受賞しました。この映画も韓国の貧困問題を扱った映画でした。
「働けど働けど 猶わが生活(暮らし)楽にならざり ぢっと手を見る」。あれから何年経ったのでしょう。100年以上経っても資本主義社会の根本は変わっていません。
映画はイギリスでの話ですが、日本の宅配業界、介護業界、コンビニ業界などはこれ以上に過酷な労働条件で働かされているのではないでしょうか。昭和の高度成長期には出稼ぎ労働者や集団就職の若者たちを酷使し、今は外国人労働者や貧困層を酷使しながら、さらなる経済発展を目指しています。しかし、暮らしは一向に楽になりません。アベノミクスなど何処へやら、です。
この映画の救いは家族を思いやる、やさしい娘のライザの存在でした。
それでは今日はこの辺で。