Flying Skynyrdのブログ

映画や音楽、本についての雑文

大学時代の読書について & 300記事達成!

今日で遂に300記事達成です。

ということで300記事を記念して全くのプライベート記事を書きますのでご容赦願います。

以前、大分前になりますが『高校時代の読書について』という記事を書きました。その時に続きはまたいずれ、ということになっていたのですがすっかり失念していました。

そこで今日は大学時代を懐かしみながら少しその辺のことを書いてみたいと思います。

晴れて?東京へやって来たあたりからでしょうか。

 

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大学時代の映画漬け生活までは上記の通り書きましたので、それ以外について思い出しながら書いてみます。

 

東京へ出てきてアパートは練馬区に決まりました。なにしろ見るもの聞くもの珍しくて東京中を歩き回りました。その頃から歩き回るのが好きだったようです。映画館巡りやら、中古レコード屋巡りやら、とにかく動き回っていました。

東京へ出て来た目的は、もちろん映画が観たいということもありましたが、政治的な活動にも興味があり、一緒に上京した友人のS.S君達とも夜を徹して議論することも日常茶飯事でした。彼は進歩的で色々な本を教えてもらいました。また、ある時はS.S君とあるセクトのデモに参加した帰りに山手線の中で反目するセクトらしき連中に目を付けられ、危険を感じ西日暮里の駅で急遽降りると、連中もすかさず降りてきて、あっという間に囲まれてしまいました。6~7人はいたでしょうか。「一緒に来い」といわれ改札口まで来ると、S.S君が機転を利かせ、一目散でホームに逃げ戻りました。駆け上がると、ちょうど電車が発車するところで急いで飛び乗りました。間一髪助かりました。当時は内ゲバ殺人が流行っており、あのまま連れていかれたら、ひょっとして今頃はこんなブログは書いていられなかったかもしれません。冷や汗ものでした。

そういう事もあって、当時読んでいた本はだいぶ左に傾いていたかもしれません。

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永山則夫は映画『裸の十九歳』で興味を持ち、以来彼の境遇と獄中での猛勉強、執筆活動等を追いかけました。

高橋和巳は1970年代前半までは若者に圧倒的な支持を得ていましたが、学生運動が下火になるにつれ読まれなくなりました。今では全く名前も聞きませんが、小説は今でも十分面白いと思います。

吉本隆明の「情況」はS.S君に借りたまま未だに我が家の本棚に鎮座しております。申し訳ありません。吉本隆明はこの他にも結構読みました。

20歳で自殺した高野悦子のベストセラー、左翼運動家の必読書と言われた「都市の論理」なども読みました。

その他にもこの手の本がたくさんありましたが、引っ越しの度に処分してだいぶ少なくなってしまいました。もったいないことです。学生時代で金もありませんので大半は古本でしたが。

あと、本棚を漁っていたら、懐かしい雑誌等が出て来ました。雑誌はほとんど処分したはずなのですが、残っているものもあったのです。この他にもなにやら変なものがたくさん出て来ました。

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資本論」は一応経済学専攻でしたので必読書です(読んだのか?)。

「情況出版」は今でもあります。「辺境」は井上光晴が編集長の月刊誌。あとは極左の機関誌のような雑誌です。

若気の至りでこんな類の雑誌を読んでいました。判ったような気になっていたのでしょう。

小説の方では大江健三郎安部公房その他大勢乱読でした。

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大江健三郎はごく最近まで読み続けていました。ノーベル賞まで獲る作家になりました。

安部公房の「砂の女」には映画ともども参りました。凄いの一言です。最近になって女優の山口果林安部公房との不倫生活を出版しましたが、安部の私生活を垣間見ることが出来ました。

 

それと、いつ頃だったか、暇つぶしに読んだ松本清張がやけに面白くすっかり嵌ってしまいました。

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松本清張の本は小説をはじめ「昭和史発掘」まで文庫化されているものはほとんど読んだのではないでしょうか。とにかく面白い。東北地方の大学に進学した高校時代の友人N.S君が上京して帰る時に、夜行列車で暇だろうからと松本清張の「Dの複合」とウィスキーを買って暇つぶしに読んでみたらと渡したのですが、後日彼もすっかり嵌って、松本清張の大ファンになりました。それまで彼は本などほとんど読んだことが無かったのですが。人生なんでもきっかけが必要です。彼はオールナイトの映画を観に行っても起きているのは休憩時間だけで上映中はほとんど寝ているという特技を持っていました。

水上勉は「越前竹人形」などが有名ですが、推理小説も面白いです。「飢餓海峡」や「眼」は傑作です。

それ以来、推理小説に嵌ってしまい、海外の推理小説も片っ端から読むようになりました。ドイル、ルブランをはじめクリスティ、カー、エラリー・クイーンチェスタトン、ルルー、などなど安い古本を探してたくさん読みました。とにかく面白くて、推理小説好きは最近まで続いています。

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学生時代は誰もが心の内や社会に対する不満を何かの形で表現したいという欲求が強いもので、私などは身近なものでギターを手に取り、詩を作り女々しく歌っていたものでした。

夜になると、友人のS.S君やK.K君などと近くのS公園の野外ステージにギターを担いで行って岡林の歌などを怒鳴りながら歌ったこともよくありました。

これは備忘録ですから個人的なことでもOKとしましょう。懐かしき青春の1ページです。ブログじゃ書けないこともいっぱいありました。それは胸の中にしまっておくしかないのでしょうね。

 

社会人になると、当然ビジネス系の本も多かったのですが、その他では歴史物にのめり込みます。特に幕末以降から昭和史です。戦国物も多かったでしょうか。昭和史・戦後史には大分時間を割きました。

それと哲学・思想系、ノンフィクション物、特に事件物、小説では推理、ミステリー、クライム・ノベル、純文学、エッセイ、落語本その他諸々。作家の名前を挙げるときりがありませんので止めます。最近ではめっきり気楽に読める本が多くなりました。

眼の衰えで本を読むのも遅くなってきました。本は場所も取りますが、かといってスマホタブレットで読む気にはなれません。やっぱり、紙の本がいいですね。

部屋はレコードとCDと本で溢れています。友人のK.K君とは近い将来これらのレコードやCD、本をどうやって始末するかが最近の話題になっています。K.K君のコレクションは半端じゃありません。

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この他にも入り切れずに押し入れに入っているものがまだまだあります。

これでも本もレコードもCDも相当処分してきたのですが、その内処分する手間も面倒になって来てほったらかしにしていたらこの始末です。 


断捨離はなかなか出来ません。

 

いつの間にか、話題が別なほうに行ってしまいました。失礼しました。

 

今年の第1目標、300記事を達成できました。ありがとうございました。

次の目標、1年継続へ向かってもう少しです。頑張ります。

 

それでは今日はこの辺で。

 

この人の、この1枚 『ジョー・エリー(Joe Ely)/ホンキー・トンク・マスカレード(Honky Tonk Masquerade)』

1970年代後半、彗星のごとく現れたテキサスの天才カントリーロッカー、それがジョー・エリー(Joe Ely)です。

彗星のごとくといっても、彼は1970年には自身のバンド「FLATLANDERS」を結成しています。その時に一緒だったメンバーのブッチ・ハンコック(Butch Hancock)の手助けで最初のソロアルバムを1977年に発表します。

そして翌年、セカンドアルバム『Honky Tonk Masquerade』を発表します。

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Side A

1.Cornbread Moon

2.Because Of The Wind

3.Boxcars

4.Jericho (Your Walls Must Come Tumbling Down)

5.Tonight I Think I'm Gonna Go Downtown

 

Side-B

1.Honky Tonk Masquerade

2.I'll Be Your Fool

3.Fingernails

4.West Texas Waltz

5.Honky Tonkin'

 

メンバーは

ジョー・エリー(acoustic g,vo)

ロイド・マインズ(Lloyd Maines,steel)

スティーヴ・キートン(Steve Keeton,ds)

グレッグ・ライト(Gregg Wright,b)

ポンティ・ボーン(Ponti Bone,acordion,p)

ジェシ・テイラー(Jesse Taylor,g)

チップ・ヤング(Chip Young,g)

シェーン・キースター(Shane Keister,moog,p)

ファレル・モリス(Farrell Morris,per)

 

プロデュースはチップ・ヤングです。ブッチ・ハンコックがB-4でヴォーカルをとっています。

とにかく聴いて驚きます。レコーディング技術の高さからか、もちろん演奏力の高さもありますが、音の良さに驚かされます。まるで小さなライブ会場にいるような臨場感です。この当時レコードでこのような迫力を出すのは珍しかったです。エンジニアもチップ・ヤングです。ギターを弾き、プロデュースをし、この人の才能は物凄いものが有ります。

 

肝心の楽曲の方ですが、ジョー・エリーの曲が5曲、ブッチ・ハンコックの曲が3曲、それに「FLATLANDERS」で一緒だったもう一人のジミー・デイル・ギルモア(Jimmie Dale Gilmore)の曲が1曲、そしてハンク・ウィリアムスのカバーが1曲という構成です。

 

とにかくライブに言っているような感感覚になって、ホンキートンク、バラード、テックスメックスと手拍子を打ちたくなるような興奮を覚えます。ジョー・エリーの声は迫力があり、まさに70年代後半のカントリーロックの最高峰と言える演奏です。最後はハンク・ウィリアムの「Honky Tonkin'」で盛り上がって締めくくります。

 

この前年に出されたファーストアルバム『Joe Ely』も負けず劣らず素晴らしい内容です。

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メンバーはほぼ同じですが、ピアノにボビー・エモンズ(Bobby Emmons)が加わり、それにホーンセクションが導入されています。

曲の構成も同様に3人の曲で、ジョーが5曲、ブッチが4曲、ジミーが1曲となっています。

Side A

1.I Had My Hopes Up High

2.Mardi Gras Waltz

3.She Never Spoke Spanish To Me

4.Gambler's Bride

5.Suckin' A Big Bottle Of Gin

 

Side B

1.Tennessee's Not The State I'm In

2.If You Were A Bluebird

3.Treat Me Like A Saturday Night

4.All My Love

5.Johnny's Blues

 

なお、この2枚のレコードが2イン1でCD化されています。

 

よかったら聴いてみてください。

 

残念ながら日本ではほとんど無名ですが、「ザ・クラッシュ」との意外な交流も有名でした。現在も活躍中でコンスタントにアルバムをリリースしています。凄いですね。

 


Honky Tonk Masquerade.wmv


Because Of The Wind - Joe Ely

 


joe ely if you were a bluebird

 

それでは今日はこの辺で。

この人の、この1枚 『ザ・フィフス・アヴェニュー・バンド(The Fifth Avenue Band)/ザ・フィフス・アヴェニュー・バンド(The Fifth Avenue Band)』

たった1枚、歴史的名盤を残して去った伝説のバンド、それが『ザ・フィフス・アヴェニュー・バンド』です。

バンドの結成は1968年です。

メンバーは

ジョン・リンド(John Lind,vo)

ケニー・アルトマン(Kenny Altman,g,b)

ピーター・ゴルウェイ(Peter Gallway vo,g)

ジェリー・バーナム(Jerry Burnham,b,flute)

ピート・ヘイウッド(Pete Heywood,ds)

マレー・ウェインストック(Murray Weinstock,key)

です。

このメンバーたちが、それぞれに知り合いバンドを結成します。そして1969年にたった1枚のレコードを発表します。『The Fifth Avenue Band』です。

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プロデュースがラヴィン・スプーンフルのジェリー・イエスターとザル・ヤノフスキ―、それにエリック・ジェイコブセンです。東海岸の雄、ラヴィン・スプーンフルのメンバーがプロデュースに関わっているところからして、しゃれた音楽性が想像できます。

Side A

1.Fast Freight 

2.One Way or the Other

3.Good Lady of Toronto 

4.Eden Rock

5.Country Time Rhymes 

6.Calamity Jane

 

Side B

1.Nice Folks

2.Cockeyed Shame

3.Faithful Be Fair 

4.In Hollywood 

5.Angel 

 

A-1はスワンプロック的なちょっと泥臭い曲です。

A-2やA-4、B-1は当時騒がれていたグッドタイムミュージックです。こんなに洗練された音楽は、当時のウェストコーストではなかなか聴けません。ラヴィン・スプーンフルならではの音楽です。曲はケニー・アルトマンです。この人の曲は都会的センスにあふれています。そこにジャズっぽい雰囲気と相まって一層聞き手を引き込みます。ヴォーカルはジョン・リンドです。

A-6は後にピーター・ゴルウェイが結成するオハイオ・ノックスでも演奏している曲です。ピーター・ゴルウェイの曲はA-1、3、、5、6 B-2、4と6曲もありますが、彼の曲はどちらかというと南部臭さがあります。

ラストは唯一ジョン・リンドの曲でブラスを導入した、ラストにふさわしい曲になっています。こうしたアレンジもラヴィン・スプーンフルらしいです。

 

はっぴいえんどのメンバーや山下達郎などがこよなく愛したバンド、フィフス・アベニュー・バンドです。山下達郎は好きが高じて自分のアルバムレコーディングにケニー・アルトマンを呼んだほどです。

しかしであっという間に解散です。商業的には成功しなかったようです。現に日本でも当時は発売されませんでした。日本盤が発売されたのは1970年代の中ごろだったかと思います。ワーナーパイオニアの「ロック名盤復活シリーズ」の中の1枚として発売されたのが最初だと記憶しています。私もその時に手に入れました。

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ピーター・ゴルウェイはその後先述しましたように、オハイ・オノックスの結成、ソロアルバムの発表と活躍しました。

 

その後、1990年に再結成されたとの話も聞きましたが、残念ながら聴いていません。

 


The Fifth Avenue Band - One Way Or The Other

 


Fifth Avenue Band Angel

 

それでは今日はこの辺で。

 

『ガヴァメント・ミュール(Gov't Mule)』の新譜入手

遅ればせながらガヴァメント・ミュールの新譜を入手しました。昨年の6月リリースですからもはや新譜とは言えないかもしれませんね。

ガヴァメント・ミュールは新譜が出れば必ず買うと決めているアーティストの一つです。それなのにこんなに遅れてしまって困ったものです。最近はネットでのチェック(雑誌は保管スペースの関係で現在は購読していません)を怠っているせいでいろいろ見逃しが多いのです。

Amazonの輸入盤で2週間以上かかりました。到着しなかった経験もありますから、到着しただけよかったとしますか。

私の個人的感想ですが、ガヴァメント・ミュールとリーダーのウォーレン・ヘインズは1990年以降のロックシーンで最高のバンドの一つであり、最高のギタリストのうちの一人であると思っています。

ウォーレン・ヘインズ(Warren Haynes,g,vo)は1980年、20歳の頃からデヴィッド・アラン・コーのバンドでプレイしていました。1987年にはオールマン・ブラザース・バンドのディッキー・ベッツのソロアルバムのレコーディングに参加し、さらにグレッグ・オールマンのソロアルバムにも参加し、遂にはオールマン・ブラザースの正式メンバーとして加入しました。

ウォーレンはクリームやマウンテン、ジミ・ヘンドリックスのような3ピースバンドを組むことが夢だったようで、ディッキー・ベッツのソロ・アルバムの時に一緒だったドラマーのマット・アブツ(Matt Abts)とオールマン・ブラザースに一緒に加入したベーシストのアレン・ウッディー(Allen Woody)と共にガヴァメント・ミュールを結成しました。もちろんオールマン・ブラザースには在籍のままサイド・プロジェクト的に活動しました。1994年のことでした。

なお、ウォーレン・ヘインズはギブソンレスポールの58年式を愛用していますが、これはデュアン・オールマンが愛用していたからだそうです。

 

1997年、ウォーレンとアレンはガバメント・ミュールに専念したいとオールマンを脱退します。ところがガヴァメント・ミュールが5枚目(ライブを含む)のアルバムをリリースした年の2000年8月にアレン・ウッディが死体で発見されました。死因は不明でした。

 

翌年と翌々年にはアレンを追悼し、アレン在籍時のライブアルバムをそれぞれリリースし、さらに2003年にはアレンが好きだったベーシストを13人呼んでの追悼コンサートを開催し、2枚組のCDとして発売しました。

 

ウォーレンは2001年に再びオールマン・ブラザースに復帰します。そして2003年には傑作アルバム『Hittin' The Note』が出来上がります。しかし2004年に正式にオールマン・ブラザースを脱退します。

 

ウォレーレンはガヴァメント・ミュールの活動と共に、ソロアルバムの制作、様々なミュージシャンのレコーディング参加、ボナルーフェスティバルへの参加、さらには自身が主催するクリスマスイベントのベネフィット・コンサートの開催など、その活動は精力的です。

またデッドのメンバーなどとも交流が深くフィル・レッシュのアルバムにも参加しています。またオールマン・ブラザースで一緒だったデレク・トラックスのアルバムやライブにも顔を出しています。この他にもブルース・トラヴェラーやガース・ブルックス、デイヴ・マシューズらのアルバムやライブにもにもちょくちょく顔を出しています。

 

今回のアルバムはガバメント・ミュールにとっては21枚目のアルバムになります。彼らのアルバムはシングルアルバムというのはあまりなく、2枚組以上のものが多いのです。今回もボーナスCD付きの2枚組です。タイトルは『Revolution Come... Revolution Go』

Disk 1

01.Stone Cold Rage

02.Drawn That Way

03.Pressure Under Fire

04.The Man I Want To Be

05.Traveling Tune

06.Thorns Of Life

07.Dreams & Songs

08.Sarah, Surrender

09.Revolution Come, Revolution Go

10.Burning Point featuring Jimmie Vaughan

11.Easy Times

12.Dark Was The Night, Cold Was The Ground

 

BONUS CD

01.What Fresh Hell

02.Click

03.Outside Myself

04.Revolution Come, Revolution Go (Alternate Version)

05.The Man I Want To Be (Live In Studio Version)

06.Dark Was The Night, Cold Was The Ground (Live In Studio Version)

 

今のメンバーは

ウォーレン・ヘインズ(Warren Haynes,g,vo)

マット・アブツ(Matt Abts,ds)

ダニー・ルイス(Danny Louis,key,g,horn,vo)

ヨルゲン・カールソン(Jorgen Carlsson,b)

プロデュースはウォーレンとドン・ウォズ、ゴーディー・ジョンソンです。

さらに元ビッグ・シュガーのゴーディー・ジョンソン、スティーヴィー・レイ・ヴォーンの兄貴ジミー・ヴォーンがそれぞれギターで参加しています。

このアルバムはビルボードのトップ・ロックアルバムの5位を記録しています。

 

とにかく凄い、カッコいい。最高のハードロックです。ガヴァメント・ミュールには駄作は1作もありません。どれをとっても聴きごたえ十分です。ボリュームも半端じゃありません。これだけ良質なアルバムを作り続け、数多くのステージ活動もこなし、まさに怪物というほかありません。

ウォーレン・ヘインズ、現在57歳、まだまだいけます。

 

ガヴァメント・ミュールのアルバム群

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ウォーレン・ヘインズのソロアルバム

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ボナルーフェスティバルとウォーレンの主催するベネフィット・コンサート。それとデイブ・マシューズのコンサート参加。ニール・ヤングの「コルテス・ザ・キラー」をやってます。

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この最新作も十二分に堪能できました。次作が楽しみです。

今まで何故かガヴァメント・ミュールの記事を書けていませんでした。まだまだ書きたいことが山ほどありますが、ここで一つ書けてほっとしました。また機会があれば書きたいと思います。

 


Gov't Mule - "Stone Cold Rage"


Gov't Mule - "Sarah, Surrender"


Gov't Mule - "Burning Point"

 

それでは今日はこの辺で。

ジェファーソンの分派 『ホット・ツナ(Hot Tuna)』

ジェファーソン・エアプレインの記事の中でも書かせてもらいましたが、ギターのヨーマ・コウコネン(Joma Kaukonen)とベースのジャック・キャサディ(Jack Casady)はジェファーソンの活動の傍らサイドプロジェクトとして、主にブルースを演奏する『ホット・ツナ』というバンドを作っていました。

1969年9月、ヨーマとジャックはハープのウィル・スカーレット(Will Scarlett)を入れてカリフォルニア州バークレイのニューオリンズ・ハウスでライブを行います。この時の模様が彼らのファーストアルバムとして1970年に発売されます。タイトルは『Hot Tuna』です。サブタイトルが「Recorded Live At The New Orleans House,Berkeley」です。日本盤のタイトルは『ブルース』でした。

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これはヨーマ・コウコネンのアコースティック・ギターによるブルースアルバムです。ジャック・キャサディのベースとウィル・スカーレットのハープが重なります。おそらく狭い会場なのでしょう、グラスの割れる音が入っていたりして、アットホームな感じがよく出ています。トラディショナルなブルースが多く、「Hesitation Blues」や「Death Don't Have No Mercy」などをカバーしている一方、ヨーマのオリジナルブルースも有ります。ヨーマの声は鼻にかかった、決して上手いヴォーカルではありませんが、聴きなれると病みつきになります。好き嫌いでしょうが。

 

1971年にはChateau Liberteでのライブの模様を録音した『First Pull Up、Then Pull Downがリリースされます。日本盤のタイトルは『エレクトリック・ホット・ツナ』でした。

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この時のメンバーは前作の3人に加えて、バイオリンのパパ・ジョン・クリーチ(Papa John Creach)、ドラムにサミー・ピアッツア(Sammy Piazza)が入ります。前作とは打って変わって、日本盤タイトルの通りエレクトリックです。映画「フィルモア最后の日」でも演奏していた「Keep Your Lamps Trimmed And Burning」と「Come Back Baby」は秀逸です。映画でも出ていたパパ・ジョン・クリーチがホット・ツナの特徴的な存在になっています。

 

翌1972年はヨーマとジャックがジェファーソン・エアプレインを正式に脱退した年です。その後エアプレインは解散します。

そんな中、発表されたサードアルバムが『Burgers』です。

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このアルバムでは、ハープのウィル・スカーレットは参加しておらず、ニッキ・バック(Nikki Buck,key)リッチモンド・タルボット(Richmond Talbott,slide g,vo)、そしてデヴィッド・クロスビー(David Crosby,vo)が数曲で参加しています。前作までのアコースティックとエレクトリックを織り交ぜたサウンドになっています。ブルース色は薄れサンフランシスコ・サウンドになっています。ここでもパパ・ジョン・クリーチが存在感を指名しています。

パパ・ジョン・クリーチは自身でもソロアルバムを出していて、そこにはジェファーソンやホット・ツナのメンバーの他にデッドのジェリー・ガルシア、クイックシルバーのジョン・シポリナ、カルロス・サンタナなどものすごいメンバーが参加しているのを見ても彼の活動の幅広さが窺えます。

Papa John Creach

 

1973年には4枚目の『The Phosphorescent Rat』をリリースします。

The Phosphorescent Rat

このアルバムは完全なロックアルバムになっています。ヨーマのオリジナルが大半を占めギターを前面に押し出してきています。パパ・ジョン・クリーチはグループを離れています。

1974年にヨーマ・コウコネンはジャック・キャサディのプロデュースでソロアルバム『Qua』をリリースします。

Quah

1975年には『America's Choice』『Yellow Fever』と立て続けにリリースします。そして翌年『Hoppkorv』が発表されます。

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これらのアルバムからドラムスがボブ・スティーラー(Bob Steeler)に替わります。両作品とヨーマ・コウコネンのギターの洪水のようです。『Yellow Fever』の1曲目でジミー・リードのブルース「Baby What You Want Me To Do」をカバーしていて、久しぶりにホット・ツナらしいブルースが聴けます。『Hoppkorv』ではバディ・ホリーリンダ・ロンシュタットもカバーしていた「It's So Easy」をカバーしています。ただ、いかんせんシンセサイザーとギターとヨーマのヴォーカルの取り合わせが何とも表現しがたいです。

この後1978年に2枚組ライブアルバムを発表します。『Double Dose』です。

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ここには時折レコーディングに参加していたニッキ・バック(Nikki Buck,key)が正式にクレジットされています。プロデュースはなんとあのクリーム、マウンテンのフェリックス・パパラルディです。レコードのA面はアコースティックサイドです。ジェファーソン時代の曲やセカンドアルバムに入っていた曲などを演奏しています。ファーストアルバムの再来です。B、C、D面はエレクトリックサイドで主に『America's Choice』以降の曲が占めています。ブルースナンバーも数曲入れながらのアメリカンロック全開です。ホット・ツナは何をやってもホット・ツナです。

 

こうしてホット・ツナの1970年代は終わり、しばらくの休養に入ります。

その間1980年代にはホット・ツナの1970年代のライブ音源を編集したアルバムが2枚ほど発売されました。『Splashdown 』と『Historic Hot Tuna』です。

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前者は1975年のライヴでアコースティック・セットです。後者は1971年のライブでエレクトリック・セットです。パパ・ジョン・クリーチがいます。

 

この後、活動を再開したり、また解散したり、復活したりして現在も活動中です。

 

1989年にはヨーマ・コウコネンとジャック・キャサディがマーティ・バリンとポール・カントナー、グレイス・スリックとともにジェファーソン・エアプレインを再結成しました。アルバムも1枚『Jefferson Airplane』残しました。

Jefferson Airplane

 

ヨーマ・コウコネンもジャック・キャサディも健在なのが嬉しいです。

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Hot Tuna - Come Back Baby - 3/22/1973 - 46th Street Rock Palace (Official)


Hot Tuna: Rock Me Baby (live - audio only)

 

それでは今日はこの辺で。

ジェファーソン エアプレインからスターシップ(Starship)へ ’70年代編

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前回はジェファーソンの60年代までを書きました。今回は70年代のジェファーソンについて書いてみたいと思います。

1970年にメンバーのポール・カントナー(Paul Kantner)は自身のプロジェクトアルバムBlows Against the Empireを発表します。このプロジェクトの名前は『Paul Kantner Jefferson Starship』と名付けられています。

参加メンバーはジェファーソン・エアプレインからポール・カントナグレイス・スリック(Grace Slick,vo)ジャック・キャサディ(Jack Casady,b)、スペンサー・ドライデンの後任のドラムス、ジョーイ・コヴィントン(Joy Covington,ds)、CSN&Yからデヴィッド・クロスビー(David Crosby,vo,g)、グラハム・ナッシュ(Graham Nash,vo,g)グレイトフル・デッドからジェリー・ガルシア(Jerry Garcia,g,banjo)ビル・クラウツマン(Bill Kreutzmann,ds)ミッキー・ハート(Micky Hart,ds)クイックシルバーメッセンジャー・サーヴィスからデヴィッド・フライバーグ(David Freiberg,vo)、それにセッションマンのハーヴィー・ブルックス(Hervey Brooks,b)、ヨーマ・コウコネンの弟、ピーター・コウコネン(Peter Kaukonen,g)などです。

日本盤タイトルは『造反の美学』です。何とも当時の反体制的世相を反映しています。

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ポール・カントナーの権力に対する反抗精神が強く表れたアルバムです。もはや飛行機(Aireplane)ではなく宇宙船(Starship)で地球から飛び出そうというような感じです。電子音楽が実験的に多用されています。

なお、この時には既にポール・カントナーとグレイス・スリックは事実上の結婚をしており子供が出来ています。前の夫とは正式に離婚はしていなかったようですが、前夫も公認だったようです。

 

1971年、ジェファーソンの創立者マーティ・バリンがバンドを脱退します。今のバンドでは自分の思い描く音楽が出来ないとの判断によるものらしいです。

この年にジェファーソンは自身のレーベル「GRUNT」を設立し7枚目のアルバム『Bark』を発表します。

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このアルバムではドラムスが正式にジョーイ・コヴィントンに替わっています。さらにジェファーソンのサイドプロジェクトの「ホット・ツナ」のメンバー、フィドラーのパパ・ジョン・クリーチ(Papa John Creach)が参加しています。ますます反骨精神旺盛なジェファーソンを見ることが出来ます。

 

翌年には8枚目のアルバム『Long John Silver』がリリースされます。

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このアルバムがジェファーソン・エアプレインとしての最後のスタジオアルバムとなります。

その後1973年にライブアルバム『Tirty Seconds Over Winterland』とベスト盤『Early Flight』が発表されます。

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ポールカントナーはその後も1971年にグレイス・スリックとの共作、さらには1973年にグレイス・スリック、デヴィッド・フライバーグとの共作盤をリリースします。

 

 

ホット・ツナの二人は1972年にグループを正式に離れます。これをもってジェファーソン。エアプレインは解散となりました。

なお、ホット・ツナについては別途取り上げます。

 

1974年にグレイス・スリックのソロツアーに集まったメンバーでバンドを結成することになり正式に『ジェファーソン・スターシップ』を名乗ることに決定しました。

飛行機から宇宙船へのデビューです。ポール・カントナーのプロジェクトに集まったメンバーが顔を揃えました。ポール・カントナーのスターシップ精神が受け継がれたのでしょう。

その最初のアルバムが『Dragon Fly』です。

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ジャケット表にはポール・カントナーとグレース・スリックの名前がまだクレジットされています。

メンバーはポール・カントナー(g,vo)、グレイス・スリック(vo,p)、デヴィッド・フライバーグ(b,vo)、クレイグ・チャキ―ソ(Craig Chaquoico,g)、ジョン・バーベイタ(John Barbata,ds)、パパ・ジョン・クリーチ(violin)、ピート・シアーズ(Pete Sears,b,key)です

マーティ・バリンが1曲参加しています。1曲目の「Ride The Tiger」は名曲です。ハードでノリが良く、ジェファーソンの新しい一面です。

 

翌年、『Red Octopus』がリリースされます。

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ジェファーソン・エアプレインから含めて初の全米1位を記録したアルバムです。そして2曲目の「Miracles」がシングルの大ヒットとなりました。このアルバムからマーティ・バリンが正式にカムバックしました。このアルバムでオクトパスがタコだと知りました。お恥ずかしい。

 

1976年には『Spitfire』をリリースします。正式なスターシップとしては3枚目です。

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このアルバムからパパ・ジョン・クリーチが抜けます。この頃になるとメンバー全員が曲作りに参加し、それぞれ個性ある楽曲が生み出されるようになります。

 

1978年、4作目『Earth』がリリースされます。

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このアルバムは前2作に比べかなりポップになっています。また、ポールカントナーが曲作りに参加したのがわずか1曲のみになっています。マーティ・バリンに至ってはゼロです。このあたりにジェファーソン内部の力関係が変わってきていることがわかります。ピート・シアーズ、クレイグ・チャキ―ソの存在感が増してきています。「Count On Me」がヒットします。

 

この後、ジェファーソンの顔、ヴォーカルのグレイス・スリックが精神的に不安定になりアルコール中毒が悪化し、バンドを離れます。そしてマーティ―・バリンもポール・カントナーとの音楽的方向性の違いから脱退。またドラムスのジョン・バーベイタが交通事故で長期入院となり、代わりにジョン・メイオール&ブルースブレイカーズジェフ・ベックグループ、フランク・ザッパのマザース、さらにはジャーニーに在席したエインズレイ・ダンバー(Aynsley Dunbar)が加入します。それとグレイス・スリックに代わって男性ヴォーカルのミッキー・トーマス(Mickey Thomas)が加入します。彼はエルビン・ビショップのバンドにいたヴォーカリストです。

こうして新生ジェファーソン・スターシップは1979年に再スタートを切ります。

その最初のアルバムがFreedom At Point Zeroです。

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ミッキー・トーマスのソウルフルなヴォーカルを活かしてますますポップ・ハードロックといった内容になってきました。一部のファンからは産業ロック化しているとの非難もありました。

ここまでで1970年代のジェファーソン・エアプレイン~ジェファーソン・スターシップは終わります。

1980年代に入ると、レコード会社はジェファーソンに対し時代の流れに即し、スタジアム・ロック、アリーナ・ロック路線の追及を要求してきます。

そんな中、1981年には『Modern Times』を、1982年に『Winds Of Cange』をそれぞれ発表します。

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後者にはグレース・スリックがカムバックしています。この後エインズレイ・ダンバーがグルーを脱退します。代わりはドニー・ボルドウィン(Donny Baldwin)です。

1984年に『 Nuclear Furniture』を発表

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もうこの頃にはメンバー間の対立も激しくなり、ポール・カントナーが脱退、ジェファーソンの名は使わせないという訴訟まで起こします。結局残ったメンバーは『スターシップ(Starship)』と名乗り存続させます。

ポール・カントナーは別プロジェクトを立ち上げマーティ・バリンやジャック・キャサディといった昔の仲間とKBCカントナー・バリン・キャサディ)BANDを結成します。1986年にはアルバム『KBC BAND』を発表します。そこそこ売れました。

 

こうしてジェファーソンは二つのグループに分かれてしまいます。

KBCバンドはアルバム発表後、解散。ポール・カントナーはヨーマ・コウコネンとジャック・キャサディの共にホット・ツナに参加、ツアーを行います。

一方のスターシップはメンバーが次々と抜けやがて1990年に解散。

1989年にジェファーソン・エアプレインのメンバーだったポール・カントナー、ヨーマ・コウコネン、ジャック・キャサディにグレイス・スリックが加わり、さらにマーティ・バリンも参加してジェファーソン・エアプレインが再結成されます。

アルバムも発表されます。『Jefferson Airplane』です。

 

ジェファーソンはマーティとポールを中心に今でも活動中です。

 

1970年代までを書こうと思っていましたが、ついつい1980年代まで入ってしまいました。書きすぎました。反省。

 


Jefferson Starship - Ride The Tiger


Jefferson Starship - Miracles (Audio)

 

それでは今日はこの辺で。

『ジェファーソン・エアプレイン(Jeffeson Airplane)』 ’60年代編

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デッドに引き続きジェファーソンでいってみたいと思います。

サイケデリック・ロック創始者としてグレイトフル・デッドと並び称されたのが、サンフランシスコの大物バンド『ジェファーソン・エアプレイン』です。

ヒッピー文化とベトナム反戦を叫ぶフラワー・ムーブメントが沸き起こり始めたサンフランシスコにぴったりマッチした音楽がロックミュージック、それもサイケデリック・ロックでした。LSDマリファナなどの麻薬による幻覚症状を音楽で表現するという試みがなされ、これに西海岸の若者が飛びつきました。こうして60年代後半は西海岸から全米、さらにはビートルズの「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」の発表などにより、サイケデリック文化は全世界へと波及しました。

こうした中で結成されたのが『ジェファーソン・エアプレイン』です。

バンドの創立者マーティ・バリン(Marty Balin,vo,g)はR&Bのシンガーで、フォーク系のシンガー、ポール・カントナー(Paul Kantner,vo,g) と知り合い、グループ結成を目論見ます。ギタリストのヨーマ・コウコネン(Jorma Kaukonen,g,vo)、を誘い、最初のベーシストが抜けたため、ヨーマ・コウコネンの友人ジャック・キャサディ(Jack Casady,b)を誘い、さらにシグニー・トリー・アンダーソン(Signe Toly Anderson,vo)、それにアレックス・スキップ・スペンス(Alex Skip Spence,ds)を加えて1965年に結成されます。バンドはRCAと契約します。

 

1966年、ファーストアルバム『Takes Off』がリリースされます。

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このアルバムは、それ以降のジェファーソンと違って、まだまだフォークロックの色彩が濃いアルバムになっています。まだマーティ・バリンが中心的存在だったことがよくわかります。カバー曲以外はほとんどマーティーの手によるものです。ヴォーカルもほぼマーティ―です。ポール・カントナーが1曲歌っています。なお、日本ではこのアルバムはセカンドアルバムの発売の後に発売されました。

 

続いて1967年に大ヒットアルバム『Surrealistic Pillow』がリリースされます。これが日本でのデビューアルバムになります。

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前作の後、ドラムのスキップ・スペンスは脱退します。元々彼はギタリストでドラムス担当という立場に不満を持っており、退団しモビー・グレイプ結成へと動きます。代わりのドラムスはスペンサー・ドライデン(Spencer Dryden)が加入します。彼も元々はギタリストです。そしてもう一人、女性ヴォーカルのシグニー・トリー・アンダーソンが脱退し、替わりにやはり女性のグレイス・スリック(Grace Slick)が加入します。彼女は元グレイト・ソサエティのメンバーでジェファーソンに引き抜かれた格好になりました。彼女の加入がその後のジェファーソンを決定づけます。このアルバムからは「Somebody To Love(あなただけを)」、「White Rabit」の大ヒット曲が生まれ、彼等のステージでの定番曲「Today」も含まれています。このアルバムの大ヒットによりジェファーソンの人気は不動のものとなります。

 

同年にサードアルバム『After Bathing at Baxter's』をリリースします。

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このアルバムでは、前作までのフォークロック的アプローチから元々ブルースロック志向だったヨーマ・コウコネンのリードギター、ジャズ志向だったジャック・キャサディ、スペンサー・ドライデンのリズムセクションとポール・カントナー、マーティ・バリンのフォークロック、サイケデリックロックが組み合わさったアルバムになっています。また、グレイス・スリックの存在感も大きくなっています。アルバムは5つの組曲からなっています。1曲目の「The Ballad of You & Me & Pooneil」はライブでもよく演奏されますが最高です。

 

続く1968年、4枚目のアルバム『Crown Of Creation』がリリースされます。

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このアルバムあたりから政治色の強いメッセージが曲の中に表現されるようになります。アルバムジャケットもヒロシマの原爆写真と思われます。観客の方も反体制的な象徴としてジェファーソン・エアプレインを祭り上げるようになっていきます。

それと注目したいのが元ザ・バーズのデヴィッド・クロスビーのゲスト参加です。楽曲を提供しギターで参加しています。ロサンゼルスの代表的バンドのザ・バーズとサンフランシスコの代表的バンドのジェファーソンが一緒にプレイすることでウェストコーストが一体になったというような気がしました。ポール・カントナーの「Crown Of Creation(創造の極致)」、ヨーマ・コウコネンの「Star Track」、グレイス・スリックの「Greacy Heart」、マーティ・バリンの「If You Feel」、スペンサー・ドライデンの短い前衛的な「Chusingura(忠臣蔵)」など各様の特徴が出ています。

 

翌1969年には初のライブアルバム『Bless Its Pointed Little Head』がリリースされます。

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このアルバムは、フィルモア・イーストフィルモア・ウェストでのライブです。この前年にフィルモア・ウェストが開設されました。といってももとはカルーセルというクラブでそれをビル・グラハムが買い取って、ニューヨークのフィルモア・イーストに対してウェストと名付けたものです。彼らはカルーセル時代から出演しており、演奏しやすい場所だったらしいです。この中では「Somebody To Love(あなただけを)」や「It's No Secret」などのヒットナンバーの他に、ヨーマ・コウコネンとジャック・キャサディが中心のブルースナンバー「Rock Me Baby」を演奏します。ヨーマとジャックはこの頃から別プロジェクトで『ホット・ツナ(Hot Tuna)』というグループを結成します。ジェファーソンの講演が終わると、ホット・ツナの演奏が始まるといった具合です。

 

同じ年6枚目のアルバム『Volunteersがリリースされます。

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このアルバムにはピアノのニッキー・ホプキンス、ハモンドオルガンでスティヴン・スティルス、ペダルスティールでジェリー・ガルシア、パーカッションで後にメンバーになるジョーイ・コビントン、それとデヴィッド・クロスビーが参加しています。

反体制的、政治的メッセージをふんだんに盛り込んだアルバムになりました。もはやジェファーソンはアメリカの反体制のカリスマ的存在になりました。1曲目のポール・カントナー作「We Can Be Together」がすべてを象徴しています。CS&Nのアルバムにも入っているポール・カントナーとデヴィッド・クロスビー、スティヴン・スティルスの共作になる「Wooden Ship」を取り上げています。

 

ここまでで1960年代のジェファーソン・エアプレインは終わります。

この1969年にはウッドストックがあり、ベトナム戦争は泥沼化し、ロックはますます社会性を帯びるようになっていきます。

そうした中、ジェファーソンは1970年に入りメンバー間に考えの違いが出てきます。マーティ・バリンは1971年にグループを脱退します。ヨーマ・コウコネンとジャック・キャサディは別プロジェクト『ホット・ツナ』に力を注ぐようになります。またポール・カントナーは『Paul Kantner Jefferson Starship』名義でのアルバムを発表します。それでも1971年には自主レーベル「GRUNT」レコードを設立しバンドを継続させます。そしてジェファーソン・エアプレイン名義でライブと未発表音源集を含む4枚のアルバムを出して、1974年『ジェファーソン・スターシップ(Jefferson Starship)』として飛び出します。

そのあたりの70年代についてはまたの機会にしましょう。


Jefferson Airplane -White Rabbit-

 


Jefferson Airplane - Somebody To Love, American Bandstand, 1967

 

それでは今日はこの辺で。