Flying Skynyrdのブログ

映画や音楽、本についての雑文

この人の、この1枚 『シャドウ・ギャラリー(Shadow Gallery)/Carved in Stone』

 今日の「懐かしのヘヴィメタ・シリーズ(懐メタ)」は先に紹介した、マジェランと同じ「Magna Carta」レーベルからデビューしたアメリカン・プログレ・メタルバンド、シャドウ・ギャラリー(Shadow Gallery)です。

 

1984年、ペンシルベニア州で結成されました。

メンバーは

マイク・ベーカー(Mike Baker,vo)

クリス・イングルズ(Chris Ingles,key)

カール・カッデン・ジェイムズ(Carl Cadden-James,b,vo,flute)

の3人で結成されました。

そこに、1989年にブレント・オールマン(Brendt Allman,g)が加わって、「Magna Carta」と契約します。

 

デビューは1992年、アルバム『Shadow Gallery』でした。

 

先輩のマジェランよりもプログレ的にもヘヴィメタ的にも1歩進化したバンドでした。

 

そして、3年後、セカンドアルバムがリリースされました。

タイトルは 『Carved in Stone』 です。

 

01.Cliffhanger

02.Interlude #1

03.Crystalline Dream

04.Interlude #2

05.Don't Ever Cry, Just Remember

06.Interlude #3

07.Warcry

08."Celtic Princess

09.Deeper Than Life

10.Interlude #4

11.Alaska

12.Interlude #5

13.Ghostship

   1.The Gathering The Night Before

   2.Voyage

   3.Dead Calm

   4.Approaching Storm

   5.Storm

   6.Enchantment

   7.Legend

   8.TG94 (Thanks Giving 1994)

 

新しくゲイリー・ワーカンプ(Gary Wehrkamp,g,key)ケヴィン・ソフィーラ(Kevin Soffera,ds)がメンバーに加わりました。

このバンドもマジェランと同じく、当初はドラマーがいませんでした。このセカンドから専属のドラマーが加わりましたが、ケヴィンはこの後脱退します。3枚目からはジョー・ネヴィロ(Joe Nevolo,ds)が参加します。

 

当時買ったCDには曲のタイトルが付いていない曲が5曲あります。曲と曲との間の間奏です。ラストの22分に及ぶ大作もクレジット上では1曲になっています。

前作以上にクラシカルな要素も高まり、ドラマティックな曲が揃い、そのなかにフォークを思わせるような静かな曲を配置したりと、ぐんと中身は濃くなりました。

 

その後も散発にアルバムをリリースし、これまでに6枚のアルバムを発表しています。かなり寡作なバンドです。現在も多分活動はしていると思われます。

 


Shadow Gallery - Cliffhanger


Shadow Gallery - Crystalline Dream


Shadow Gallery - Don't Ever Cry, Just Remember + Interlude (with lyrics)


shadow gallery - deeper than life

 

 

それでは今日はこの辺で。

聴き比べ『死んだ男の残したものは』

『死んだ男の残したものは』

作曲:武満 徹

作詞:谷川 俊太郎

 

死んだ男の残したものは

ひとりの妻とひとりの子ども

他には何も残さなかった

墓石ひとつ残さなかった

 

死んだ女の残したものは

しおれた花とひとりの子ども

他には何も残さなかった

着もの一枚残さなかった

 

死んだ子どもの残したものは

ねじれた脚と乾いた涙

他には何も残さなかった

思い出ひとつ残さなかった

 

死んだ兵士の残したものは

こわれた銃とゆがんだ地球

他には何も残せなかった

平和ひとつ残せなかった

 

死んだかれらの残したものは

生きてるわたし生きてるあなた

他には誰も残っていない

他には誰も残っていない

 

死んだ歴史の残したものは

輝く今日とまた来るあした

他には何も残っていない

他には何も残っていない

 

この曲は、1965年、まさにベトナム戦争真只中に創られた日本の反戦歌です。

最初に歌ったのは声楽家友竹正則だったようですが、私が初めてこの曲を聴いたのは以前にも紹介した高石 友也先生でした。アルバム想い出の赤いヤッケ 高石友也フォーク・アルバムに収録されていた曲です。

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初めて聴いたのはおそらく1967~8年頃だったと思います。まだよく意味も分からず聴いていたのでしょう。その後、高校生になってから、学生運動にも興味が出た頃によく聴いていました。1969年の加山雄三の映画『弾痕』の挿入歌にもなりました。高石友也でもバージョンがいくつかあります。ここにあげたのはギター1本のシンプルなバージョンです。高石バージョンはなぜか最後の詩は歌われません。


高石友也 死んだ男の残したものは

 

 

次に聴いたのが、森山 良子バージョンです。当時フォークの女王などと呼ばれていた彼女の当時のベストアルバムに収録されていました。なぜこのLPが我が家にあるのかは謎です。ちょっときれい過ぎますか。いかにもフォークソングです。

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死んだ男の残したものは 森山良子

 

次は以前に紹介したカルメン・マキです。彼女の1970年の3枚目のアルバムで、フォーク時代の最後のアルバム『想い出にサヨナラ “カルメン・マキ'70" 』に収録されました。フォーク時代の彼女もいいですね。声が美しい。この後は以前にも紹介したカルメン・マキ&OZで活躍します。

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死んだ男の残したものは

想い出にサヨナラ?カルメン・マキ’70?

想い出にサヨナラ?カルメン・マキ’70?

 

 

次は、これも以前紹介した大好きな石川 セリです。1995年のアルバム『翼 武満徹ポップ・ソングス 』に収録されました。何でこの時代に、この曲をカバーしたのでしょう。武満徹へのトリビュートということで取り上げたのでしょうか。ボサノヴァ調でいい感じです。詩の重みとは別に曲調を楽しめるアレンジです。


石川セリ 死んだ男の残したものは

翼 武満徹ポップ・ソングス

翼 武満徹ポップ・ソングス

 

  

そして倍賞 千恵子です。昔から彼女の歌唱力には一目置いていました。女優としても素晴らしいですが、歌手としても超一流だとと思っています。その彼女が2枚組のベストアルバム『GOLDEN☆BEST/倍賞千恵子 まるで映画のひとこまのように・・・ 』の中で歌っています。このアルバムはその他の楽曲も素晴らしく、大のお気に入りです。

 大変残念ながら映像がありません。

 

最近になって小室 等が歌っています。大昔にリリースした『プロテストソング』の続編『プロテストソング2』を2017年にリリースしました。その中に収められました。彼自身も当時のフォークソングブームの立役者として、現代社会に対する危機感を感じ取っているのだと思います。


小室等 死んだ男の残したものは

 

この『死んだ男の残したものは』は詩にある通り直接的な反戦歌です。このような歌が大手を振って受け入れられた時代でした。再びこのような時代が来ることが無いようにと願いを込めて作られた歌だったはずでしたが、またしても同じことが繰り返される危険性が感じられるここ最近です。

 

それでは今日はこの辺で。

『オリジナル・キャスト(The Original Caste)』をご存じですか?

1970年に「ミスター・マンディ」で日本でも大ヒットを飛ばしたポップス・グループを覚えている人は、多分少なくなったでしょう。

グループ名はオリジナル・キャスト(The Original Caste)です。

元々は1962年に結成されたカナダのビッグ・スカイ・シンガーズというフォーク・グループでした。リーダーはブルース・イネス(Bruce Innes,g,key,vo)でこのグループを解散した後、後に結婚するディクシー・リー・イネス(Dixie Lee Innes,vo,vo)ブルース・マッキー(Bliss Mackie,g,vo)グラハム・ブルース(Graham Bruce,b)ピーター・ブラウン(Peter Brown,ds)というメンバーでノース・カントリー・シンガーズというグループを1966年に結成します。その後、バンド名をオリジナル・キャストに変更します。

このグループは1968年にDOTレコードからシングルを2枚リリースしました。ゴードン・ライトフットやボブ・ディランの曲をカバーしていました。

 

1969年にT・Aレコード契約が成立しました。このレーベルはベル・レコード傘下のレーベルでデニス・ランバートブライアン・ポッターという優れたソングライターを抱えていました。

そして1969年、シングル「天使の兵隊(One Tin Soldier)」をリリースすると、これがッ全米のトップ40入りする大ヒットなりました。

日本では1970年の発売でした。

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これで火が付いたのか、同じ1970年に発売されたシングル「ミスター・マンディ(Mr.Monday)」が日本で45万枚も売り上げる大ヒットとなりました。しかし本国カナダでは売れたものの、アメリカではチャート入りも逃した有様でした。「オー、ミスター、マンディ、ミー、オー、マイ」というディクシーの声が何とも言えません。

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そして第3弾「愛する未来に歌おう(Leaving it all behind)」を続けざまにリリースします。但し、これは日本でのみの発売となりました。

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アメリカでの人気はさっぱりでしたが、日本では絶大な人気となって、1970年にはカーペンターズと共に第1回東京国際歌謡音楽祭(後の「世界歌謡祭」)にゲスト出演も果たしました。翌年には来日公演も行いました。

 

しかし、この後はシングルをリリースするも勢いは衰えました。一つの原因としてはソングライティングを担当していたランバート&ポッターがダンヒルレコードに移籍してしまったことが挙げられます。それまでのヒット曲は全て彼らが書いていたものです。

代わりにカーペンターズの曲などを書いていたポール・ウィリアムスとロジャー・ニコルズが担当しましたが思うように売れませんでした。そして、1971年あえなく解散となりました。活躍した期間は本当に短い期間でした。

 

この後、ディクシーはソロアルバムを発表後、1974年にはブルース&ディクシー夫妻は新たなメンバーを集めてオリジナル・キャストを再結成しアルバムを発表しますが、日本では未発売でした。その後1980年に夫妻は離婚、ブルース・イネスは新たなヴォーカリストを迎えてオリジナル・キャストとして活動中のようです。

 

当時はシングル盤しか聴いていなかったのですが、後年アルバムを買う機会があって聴いてみると、これがフォークロックのいい曲揃いで驚いたことを憶えています。当時としては日本でのライヴを除けば唯一のアルバムでした。

 

1970年にこんなグループが存在していたことを、ふと思い出しました。そしてこの年に社会でも大きな出来事が次々と起こり、まさしく混沌とした時代でした。日本赤軍による淀号ハイジャック、日米安保自動延長、三島由紀夫割腹事件などなど。そんな時代を思い出させる歌たちでした。これらの歌を毎日口ずさみながら学校に通ったことを、つい昨日のように思い出しました。

 

洋楽の全盛時代だったかもしれません。この他にも多くのポップ・シンガー、グループが登場しました。  また思い出したら書いてみたいと思います。

 


天使の兵隊/オリジナル・キャスト One Tin Soldier/The Original Caste


ミスター・マンディ/オリジナル・キャスト Mr.Monday/The Original Caste


The Original Caste - Leaving it all behind (1970)

 

 

それでは今日はこの辺で。

聴き比べ『百万本のバラ』

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『百万本のバラ』という曲は、元々はラトビアの歌謡曲を原曲とするロシア語の歌謡曲です。歌ったのはソビエト連邦の歌手アーラ・プガチョアという人です。

ラトビア語の原曲の歌詞の内容はロシア語版とは全く違い、大国に翻弄されたラトビアの苦難を暗示する内容だったようです(以上ウィキペディアより)。

一方、ロシア語版はグルジアの画家ニコ・プロスマニがマルガリータという女優に恋をしたという話になっています。ただし、プロスマニがマルガリータという女優を愛したかどうかについては諸説あるようです。マルガリータという女優が実在したかどうかもはっきりしないようです。


百万本のバラ  アラ・ブガチョワ(ヒットの頃)

  

この曲が、最初に日本で紹介されたのは1984年に岩谷時子の訳詞で小田陽子という歌手が歌ったのが初めてらしいです。私は知りませんでした。この歌手の名前さえ知りません。

 

そして1986年に加藤登紀子の訳詞・本人歌唱によって、日本中に知られるようになりました。この曲は,当初アルバム収録曲の中の1曲でしたが、問い合わせが相次ぎ、1987年シングルカットされ100万枚の大ヒットとなりました。

私も彼女のコンサートに行ったことがありました。もう20年程前になるでしょうか。もちろんこの曲も歌いました。その頃はまだ彼女の歌唱もまともでした。最近はお年を召したせいか、ちょっと歌唱法が聴きづらくなっているのが残念です。


「 百万本のバラ 」 加藤登紀子

加藤登紀子 ベスト PBB-05

加藤登紀子 ベスト PBB-05

 

 

それからしばらくして、かつて『異邦人』で大ヒットを飛ばした久保田早紀がこの曲を歌っていることを知りました。『異邦人』の頃から彼女の声に惹かれていましたので、早速入手しました。訳詞は松山善三でした。彼女の透き通るような声がこの歌によくマッチしており、今でも大のお気に入りです。

彼女は1984年に結婚し、クリスチャンとなり、以後は教会音楽家として活動しています。名前も久米小百合になっています。

 

信じてくれますか 

一人の若者が

小さな家を売り 

バラを買いました

信じてくれますか 

嘘だと思うでしょう 

街中のバラを 

あなたに贈るなんて


バラをバラをバラを下さい 

ありったけのバラを下さい

あなたの好きなバラの花で 

あなたをあなたをあなたを包みたい

バラをバラをバラを下さい 

百万本のバラを下さい

僕の僕の僕のこの命 

あなたにあなたにあなたに捧げましょう

 

貧しい絵描きの

僕にできるのは一つ 

何もかも捨てて 

あなたを想うこと

誰も知らない

心のささやきを 

花びらに添えて

あなたに贈りたい


バラをバラをバラを下さい 

ありったけのバラを下さい

あなたの好きなバラの花で 

あなたをあなたをあなたを包みたい

バラをバラをバラを下さい 

百万本のバラを下さい

僕の僕の僕のこの命 

あなたにあなたにあなたに捧げましょう

 

出会いは短くあなたはもういない 

あなたは踊り子街からまた街へ   

夜汽車の窓辺で

あなたは思うだろう 

見えない愛の灯が

この世にあるのだと


くるくるくるくるくるくる回る 

真っ赤なサテンのトウ・シューズ

残った僕の熱い心には 

甘い思い出涙のしずく

あなたに捧げたバラの花は 

枯れても枯れても枯れてもわが命

あなたのあなたのあなたの胸に咲く 

あなたの姿は遠く消えても


僕の僕の僕のあるかぎり 

君への君への君への愛は

燃えて燃えて燃えて燃えるよ 

燃えて燃えて燃えて燃えるよ

 


百万本のバラの花 ・久保田早紀 Photo to Movie

GOLDEN☆BEST/久保田早紀 シングルズ

GOLDEN☆BEST/久保田早紀 シングルズ

 

 

そして極め付け。確か2010年頃だったと思います。山崎ハコちゃんの『バースデー・ライブ』が毎年5月にあるのですが、そのライブに行った時のことです。この年のゲストが女優で演出家の渡辺えりさんで、彼女がハコちゃんのために「百万本のバラ」を訳詞して、それを歌ったと記憶しています。このバージョンは残念ながらレコード化されていないと思います。セリフ入りのロングバージョンです。感動しました。歌詞を書き留めることが出来なかったのは残念です。なんとかレコーディングして欲しいと思っています。それでもこんな映像があるなんていい時代になりました。


山崎ハコ 百万本のバラ

 

ここに揚げた曲はそれぞれ歌詞が違います。それぞれに魅力的です。

以上、私が知っている「百万本のバラ」を羅列しましたが、この他にも多くの方が歌っていると思います。いい曲は誰が歌ってもいい曲なのです。

 

また聴き比べてみたい曲を思い出したら書いてみたいと思います。

 

それでは今日はこの辺で。

ディープインパクト 逝く!

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昨日、とんでもなく悲しい知らせが入ってきました。なんとあのディープインパクトが死んだというのです。それも安楽死です。驚きと共に悲しみに暮れました。

 

40年超の競馬歴の中でも、私の中では史上最強馬だったことは疑いもありません。

現役時代の競走馬としての成績はもちろん、引退後の種牡馬としての成績も群を抜いていました。

その勝ち方には危なっかしさと、とてつもない破壊力が同居していました。

昨年まで7年連続リーディングサイヤーを獲得していました。今年もおそらく獲るでしょう。

その彼がなぜ死んだのか。頸椎骨折ということらしいですが、俄かには信じられませんでした。

今はただ安らかに眠ってもらうことしかありません。

 

競争成績 14選12勝 史上2頭目の7冠馬

種牡馬成績 2012年~2018年 リーディングサイヤー 44頭のG1馬を輩出

 

以前書いた記事を読み返してみました。

lynyrdburitto.hatenablog.com

ディープインパクトよ安らかに!

 

それでは今日はこの辺で。

映画『COLD WAR あの歌、2つの心』を観る

今日のキネ旬シアターは『CALD WAR あの歌、2つの心』でした。

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監督:パヴェウ・パヴリコフスキ

主演:ヨアンナ・クーリグ、トマシュ・コット、ボリス・シィト

制作:2018年 ポーランド、イギリス、フランス

 

この映画はカンヌ国際映画祭パルムドール賞を競い、監督賞を受賞しました。ヨーロッパ映画賞では5部門で受賞、アカデミー賞にも外国映画部門でノミネートされた他数多くの表彰を受けました。

監督のパヴェウ・パヴリコフスキは今やポーランドを代表する監督です。2013年の前作『イーダ』アカデミー賞外国映画賞を受賞しました。

 

映画の内容は1949年から1964年までの時代を背景に、ポーランドの音楽舞踊学校で知り合ったピアニストのヴィクトルと歌手志望のズーラとの恋愛物語です。といってもただの恋愛物語ではなく、その時代背景を写し出しながら二人の運命を描いていくというものです。

 

1949年というと冷戦の真只中です。ポーランドソ連の傀儡政権が一党独裁体制を敷いていました。民族舞踊団でピアノを弾き、入団試験の試験官をしているヴィクトルは入団試験に集まった大勢の歌手志望者の中でズーラという女性の歌声に惹かれます。そして彼の後押しでズーラはマズレク舞踊団に入団できました。

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やがて二人は愛し合うようになります。しかし、西側の音楽に興味を持つをもつヴィクトルは政府の監視を受けるようになります。その監視役は舞踊団の管理部長カチマレクです。カチマレクはズーラにその役目をさせていたのでした。ズーラは父親を刺した罪で執行猶予中だったのです。したがってカチマレクの言うことをきくしかなかったのです。ズラーはそれをヴィクトルに打ち明けました。それでも二人は離れられませんでした。

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やがて舞踊団は実力もつき海外遠征もするようになりました。モスクワ、ベルリンと公演が行われました。そしてベルリン公演の後、ヴィクトルはズーラにパリへの亡命を持ちかけます。待ち合わせ場所で待つヴィクトリアですが、ズーラは来ませんでした。止む無くヴィクトルは一人でパリへ向かいました。

 

2年後、パリでヴィクトルはピアノを弾いて生計を立てています。ズーラは舞踊団のパリ公演のためにやってきて、二人は再開します。今は互いに恋人がいることを認めます。それでもまだ愛し合っていることも確認します。

 

時は流れて、ヴィクトルは舞踊団のユーゴスラヴィア公演へ向かいます。公演の後、ポーランドの警察にパリへ強制送還させられます。

 

また時は流れて、ズーラはパリへやってきます。結婚したので合法的にやってきたと言います。そして二人は共に暮らします。ヴィクトルは映画音楽の仕事や作曲、編曲をこなしたり、クラブでジャズの演奏をしています。ズーラも歌手としてポーランドの歌をジャズ・アレンジで歌いレコードも出します。

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しかしこのパリでの生活は二人の関係を怪しくしていきます。ズーラはヴィクトルのかつての恋人で詩人に嫉妬し、ヴィクトルはズーラの怠惰な生活や友人との不倫などで嫌気がさしてきます。そんな時、ズーラはポーランドへ帰ってしまいます。意気消沈したヴィクトルはズーラを追ってポーランドへ帰ります。

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しかし、ヴィクトルは捕まり、15年の強制労働を言い渡されます。その手はもうピアノを弾ける手ではありませんでした。そこにズーラが現れ必ず釈放させると言います。そしてヴィクトルは釈放されたのです。そして舞踊団の舞台を観に行きます。ズーラは舞踊団で歌っています。カチマレクがズーラとの間に出来た子供を抱いていました。ヴィクトルを助けるためにカチマレクと結婚したのでしょう。

 

舞台を終えたズーラは主人も子供も無視しヴィクトルに駆け寄り、「私をどこかへ連れてって」と言います。そして二人バスに乗りは廃墟となった教会へ入ります。そこで結婚を誓います。祭壇には睡眠薬があります。二人はそれを飲みどこかへ消えてゆくのでした。

 「cold war あの歌、2つの心」の画像検索結果

 

第2次世界大戦中、ナチスの占領下にあったポーランドがドイツの敗戦により、戦後解放されました。しかし、それは一時のこと。続いてはソビエト連邦による共産党一党独裁体制での国家づくりとなったのです。

 

この映画はそうした社会背景を直接は表現していませんが、音楽の使われ方でそれを感じます。ある意味で音楽映画です。最初はポーランド民族音楽が流されていますが、次第にソ連に気を使いスターリン賛歌やロシヤ民謡を歌わされるようになります。パリでは西側を代表する音楽ジャズとロックンロール、そして最後はラテン・ミュージックです。「2つの心」というポーランドの歌を前半部分ではマズレク舞踊団が合掌します。後半のパリではジャズ・ヴォーカルとしてズーラが気だるく歌います。この東側と西側の対比が面白いのです。

「cold war あの歌、2つの心」の画像検索結果

 

この映画は80分という短い映画で15年間を描いています。時はどんどん進みますが、その間の説明は一切ありません。会話も少なめです。余計な部分は語らないのでしょう。映像と音楽で想像するしかありません。私もこの文章を想像を含めて書いています。そのギリギリまでに削ぎ落したストーリー性が逆に緊張感を生み、ラストの二人の愛の結末に生きてきたのでしょう。

 

二人の純粋なラブストーリーという単純な映画ではありません。男はひたすら女を求めますが、女はしたたかです。スパイを演じたり、パリ亡命はドタキャン、愛のない結婚・出産。男はそれに翻弄されるように自分の人生を彼女に委ねていきます。そして最後まで「世界の果てまで一緒よ」というズーラの言葉どおりになりました。やはり女は強い、です。

 

それにしてもラストで平原の十字路の隅に座る二人の風景はとても印象的でした。そこでズーラが「あちら側へ行きましょう。もっと綺麗な景色よ」と言って歩き出し、画面から消えます。画面には風になびく草むらだけが映し出されました。この画面での白黒映像は抜群の効果でした。久々の極上ラブストーリーでした。

 

自国のアイデンティティさえ持てなかった国の男女を通して重苦しい時代を映し出した映画です。モノクロでスタンダードサイズの画面がその時代性を映し出しているようで印象的でした。このような映画を以前観た様な気がしたのですが、思い出せませんでした。

 

近年のポーランドは若者の流出に歯止めがかからないようです。国としての危機感を感じ対策に追われているというニュースが報じられています。

 


映画『COLD WAR あの歌、2つの心』予告編

 

それでは今日はこの辺で。

映画『愛と死をみつめて』の主題歌は?

またまた古い映画の話で恐縮です。

小学校の頃に観て感動を受けた映画、愛と死をみつめてです。 

 

監督:斉藤武

主演:吉永小百合浜田光夫

制作:日本 1964年公開

 

 

内容もさることながら、吉永小百合さんの美しさに感動しました。ただただ見惚れていました。それまでテレビの歌番組などでは観ていたと思いますが、映画は初めてだったと思います。それ以来私は吉永小百合ファンになり、ほとんどの映画は観たと思います。小学生のくせに生意気でした。この映画は日活史上最高の興行成績をあげました。

 

この映画の上映前にTBSテレビの『東芝日曜劇場』で大空真弓さんと山本学さんの主演で放送されていたようですがそれはたぶん観ていなかったと思います。

 

内容はご存じかと思いますが、軟骨肉腫という難病に罹病した大島みち子(映画では小島道子)と河野実(映画では高野誠)の悲恋物語です。

ミコ(道子)が高校生の頃、軟骨肉腫で阪大病院に入院していた際に、同じく入院していた長野の浪人生のマコ(誠)と知り合います。お互いに阪神ファンということもあって気が合い文通をするようになります。マコは退院後も休みの時にはバイトをしながら病院に見舞いにやってきます。病院の屋上で仲宗根美樹の「川は流れて」を二人で歌うシーンが印象的でした。

やがてミコは同志社大学、マコは中央大学に入学しますが、その後も文通は続きました。ミコは手術を受けるも再発し、やがて顔半分を切り取るほど病状は悪化してゆきます。視力を失い、顔を失う恐怖と戦い、マコは懸命に励ましますが、そのかいもなく22歳になる前に亡くなってしまいます。

 

映画を観て泣いたのはこれが初めてだったと思います。軟骨肉腫などという病気の存在を知り怖い思いもしました。吉永小百合さんとの出会いといい、悲しすぎる内容といい、思い出深い映画でした。

 

ところでこの映画が上映されたのは1964年、東京オリンピックの年でした。この年のレコード大賞青山和子さんが歌った愛と死をみつめてでした。これも大好きな歌です。


愛と死をみつめて☆青山和子☆吉永小百合

 

「マコ、甘えてばかりでごめんね・・」で有名なこの歌です。しかし、この歌は映画でもテレビ版でも使用されませんでした。

 

映画では吉永小百合さんが歌う「愛と死のテーマ」が使われました。 

 


愛と死をみつめて

 

この歌がヒットしたという記憶はありません。というか映画以外では聴いたことがありませんでした。

映画とテレビと歌とそれぞれが別々にヒットしたという当時としては珍しいケースだったのではないでしょうか。

 

この後、青山和子さんはこの曲のお陰か今でもテレビでこの歌を歌っている姿を見かけます。一方映画の方はすっかり忘れ去られたのではないでしょうか。

 

この話を詳しく知りたくなって、後年二人の往復書簡集愛と死をみつめてや大島みち子さんの日記『若きいのちの日記』などを買い込んで読みました。400通にも及ぶ往復書簡は涙なしには読めません。今の時代では信じられない純愛物語です。

 

さらに吉永小百合さんのエッセイ『夢一途』の中で、この映画のことが書かれてありました。小百合さんはこの往復書簡と日記を読んで「是非この役をやりたい」と会社に申し出たそうです。ロケの帰りにみち子さんの実家を訪ねると、快く歓迎され、お母さんから「今日一日ミコになってください」と言われ、そして一日家族と共に過ごしたそうです。小百合さんはみち子さんの強い生き方に心を打たれ、励まされたそうです。

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「病院の外に、健康な日を3日下さい。

一日目、私は故郷に飛んで帰りましょう。

そして、おじいちゃんの肩をたたいて、それから母と台所に立ちましょう。

おいしいサラダを作って、父にアツカンを一本つけて、妹達と楽しい食卓を囲みましょう。

二日目、私は貴方の所へ飛んで行きたい。

貴方と遊びたいなんて言いません。おへやをお掃除してあげて、ワイシャツにアイロンをかけてあげて、おいしい料理を作ってあげたいの。そのかわり、お別れの時、やさしくキスしてね。

三日目、私は一人ぼっちで思い出と遊びます。

そして静かに一日が過ぎたら、三日間の健康にありがとう、と笑って永遠の眠りにつくでしょう。」

「若きいのちの日記」より

 

みち子さんが亡くなった後、河野実さんが結婚したということで、世間から批判されたようなことを何かの雑誌で読んだことがあります。

その辺のことも河野さんは著書にあらわしています。

マコがミコを思う気持ちは本物だったと思います。その後ことはそれぞれの人生です。

 

この後も、この『愛と死をみつめて』は映画化されたりテレビドラマになったりしていますが、オリジナル映画のイメージを壊したくないので観ていません。

 

最近の小百合さんのエッセイにもこの映画のことが書かれています。 小百合さんは今でもこの映画のDVDを観ると泣いてしまうそうです。

私が愛した映画たち (集英社新書)

私が愛した映画たち (集英社新書)

 

 

 

懐かしすぎる映画の話をしてしまいました。ご容赦願います。

 

それでは今日はこの辺で。