Flying Skynyrdのブログ

映画や音楽、本についての雑文

『マイク・フィニガン(Mike Finnigan)』と仲間たち

マイク・フィニガン(Mike Finnigan)の名前を初めて見たのはジミ・ヘンドリックスのアルバム『Electric Ladyland』だったでしょうか。アディショナル・ミュージシャンとしてトラフィックスティーヴ・ウィンウッドやクリス・ウッド、それからアル・クーパーやバディ・マイルス、ジェファーソン・エアプレインのジャック・キャシディなど錚々たるメンバーの中に、キーボード奏者でマイク・フィニガンという聞きなれない名前を見つけました。

 

そてからしばらくして1974年にデイブ・メイソン(Dave Mason)の6枚目のアルバム『Dave Mason』で彼の名前を見つけました。以後、デイヴ・メイソンのレコーディングに参加しツアーも同行するようになりました。1977年のデイヴ・メイソンの初来日にも同行しました。この時初めて中野サンプラザで彼の姿を見ました。

 

この間、1976年にはファーストソロをリリースしました。タイトルはその名の通り『Mike Finnigan』です。

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ジャケットはいかにもカントリー風ですが中身はソウルティックなAORの奔りのようなサウンドです。ちょうどボズ・スキャッグスAORに変身したときのようです。ソウルフルなヴォーカルを聴かせます。

プロデュースはジェリー・ウェクスラー(Jerry Wexler)でバックにはデビッド・フッド(David Hood,b)ロジャー・ホーキンス(Rodger Hawkins,ds)バリー・ベケット(Barry Beckett,key)ジミー・ジョンソン(Jimmy Johnson,g)ピート・カー(Pete Carr,g)などのマッスルショールズのミュージシャンが参加しています。さらにエイモス・ギャレット(Amos Garrett,g)マリア・マルダー(Maria Muldaur,vo)まで参加しています。

アラン・トゥーサンジョン・セバスチャンジェシ・ウィンチェスターの曲を取り上げています。さらにビリー・ジョエルの「ニューヨークの想い」を感情たっぷりに歌い上げています。

 

さらにこの後、1978年にはセカンドアルバム『Black & White』を発表します。

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たった2年でジャケットまで都会風になりました。

実はここに特別参加しているメンバーはジェラルド・ジョンソン(Gerald Johnson,b)リック・ジェイガー(Rick Jaeger,ds)、そしてジム・クリューガー(JIm Krueger,g)というデイヴ・メイソンのバックバンドで一緒だった連中です。おまけに当のデイブ・メイソンまで参加しています。さらにレス・デューデック(Les Dudek,g)が参加していることを見逃せません。

ますますソウルフルなヴォーカルでポップなAORミュージックに磨きがかかりました。中には絶品のバラードも含まれています。

 

そして同じ年に、仲間であるジム・クリューガーがソロアルバムを発表します。

『 Sweet Salvation』です。

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ジム・クリューガーはデイヴ・メイソン・バンドでギターを弾いていましたが、来日公演の時にはデイヴ・メイソンのギターを期待していたのに何でギタリストが入っているだと訝しがりますたが、彼のギタープレイを見て納得しました。もちろんデイヴ・メイソンのギターソロも期待どうりでした。

そんな彼のソロアルバムにもマイク・フィニガンは参加しています。またドラムスはリック・ジェイガーです。プロデュースはマイケル・オマーティン(Michael Omartian)です。

ウェストコースト・サウンドからジャズやポップスのようなものまでが詰まったバラエティに富んだアルバムです。

 

そして先ほどマイク・フィニガンのセカンドで顔を出したレス・デューデックがやはり1978年に3枚目のアルバム『Ghost Town Parade』を発表しています。

 

レス・デューデックはオールマン・ブラザース、スティーヴ・ミラーやボズ・スキャッグスのアルバムにギタリストとして参加し頭角を現してきました。

そしてこの3枚目のアルバムにはマイク・フィニガン、ジム・クリューガーが参加しました。このレス・デューデックは才能あふれたギタリストです。ブルースを基調としたファンキーなサザンロックという感じでしょうか。

 

こうしてこの3人はとうとう新たなバンドを結成しました。3人の頭文字をとってThe DFK Bandです。正式には『The DUDEK, FINNIGAN, KRUEGER BAND』です。

そして1980年にデビューアルバムを発表します。

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ジム・クリューガーとレス・デューデックのアルバムにも参加していたマックス・グロネンタール(Max Gronenthal,key)も参加していることで、ツイン・ギター、ツイン・キーボードで迫力のあるサウンドが聴かれます。

1980年になるとウェストコーストサウンドもかなり様変わりしてきたのが分かります。ファンキーで、それまでのスカスカしたサウンドからぎっしり詰まったサウンドに変わりつつあります。今聴いても古臭さを感じない、よくできたアルバムです。

 

しかし、結局この1枚を残してバンドは解体してしまいます。

 

その後レス・デューデックはソロアルバムを出す一方、スティーヴ・ミラーやマリア・マルダー、スティーヴィー・ニックスデイヴ・メイソンのレコーディングに参加します。

ジム・クリューガーは同じくデイブ・メイソンやジム・キャパルディのレコーディングに参加したりします。

マイク・フィニガンはデイブ・メイソン、CS&Nなどのレコーディングやファントム・ブルース・バンドのメンバーにもなっています。

 

当時、デイブ・メイソンのライヴで観た2人がそれぞれ同時期にソロアルバムを出したという、なにか因縁みたいなものを感じてレコードを買いました。そこにレス・デューデックが加わるという、スティーヴ・ミラーファンでもあった私としてはこのDFKバンドも当然買わざるを得ませんでした。買って正解でしたが、1枚のみというのはちょっと寂しいものが有りました。

 


Mike Finnigan - New York State Of Mine


MIKE FINNIGAN - I COULD NEVER LEAVE YOU


DFK Band Angels fall


DFK BAND - It's All About You (1980 WESTCOAST AOR)

 

それでは今日はこの辺で。

 

葡萄から極上ワインへ『Fine Wine』

サンフランシスコの最高峰バンド、モビー・グレイプ(Moby Grape)が1969年に解散してから7年後、嬉しいニュースが入ってきました。

lynyrdburitto.hatenablog.com

モビー・グレイプの中心メンバー、ジェリー・ミラー(Jerry Miller,g,vo)ブ・モズレー(Bob Mosley,b,vo)が新しいバンドを結成したというニュースです。その名もファイン・ワイン(Fine Wine)。まさに洗練されたブドウから極上のワインが創り出されたようなものでした。

その他のメンバーはマイケル・ビーン(Michael Been,g,vo)ジョン・クラヴィオット(John Craviotto,ds)です。

この前の年にはクイックシルバーメッセンジャー・サーヴィスの再結成があり、この年にはフライング・バリット・ブラザースにいたリック・ロバーツがファイアー・フォールを結成するなど、シスコでもロスでもウェストコーストが賑やかになっていた頃で、このファイン・ワインの結成も私にとっては嬉しいニュースでした。

 

そしてポリドール・レコードからアルバム『Fine Wine』が発売されました。

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Side A

1.Got To Get Back Home

2.As Near As I Can Tell

3.If You Feel Like Dancin

4.Cold Heart

5.Heaven Knows

6.8:05

 

Side B

1.I'll Never Be Lonely Again

2.Step Right Up

3.Shadow of Yourself

4.Talkin' 'Bout You

5.Everything's Gonna Be Alright

6.I Wonder If It's All Worth It?

 

プロデュースはマイケル・オコーナー(Michael O'Connor)ファイン・ワインです。

ボブ・モズレーの曲がA-1とB-3の2曲。

ジェリー・ミラーの曲がA-3,4,6 B-2,4の5曲

マイケル・ビーンの曲がA-2,5 B-2,5の4曲

ミラーとビーンの共作がB-6

マイケル・ビーンが存在感を示しています。彼は後にソロアルバムも出しています。

A-6の「8:05」はモビー・グレイプ時代の名曲です。

 

オープニングからCCRを思わせるようなロックンロールから始まりますが、それ以降はモビー・グレイプ時代のセンスのいいメロディーとジェリー・ミラーのカッコいいギターが随所に現れて、聴き惚れてしまいます。

マイケル・ビーンの曲は意外といっては失礼ですが、モビー・グレイプによく似合っています。

 

しかし、このバンドもこの1枚のみのリリースで、その後はどうやら活動を停止したようです。好みのバンドでしたが残念です。

 

ボブ・モズレーはこの後ニール・ヤング、ジェフ・ブラックバーン、メンバーのジョン・クラヴィオットとダックス(The Ducks)なるバンドを結成しましたが短命に終わりました。その後は以前から悩まされていた統合失調症と戦いながらも音楽活動を続けています。

ジェリー・ミラーはローリングストーン誌の選ぶ100人の偉大なギタリストの68位に選出など、そのギターリストとしての力量は衆知のことで、多くのミュージシャンと競演しました。現在も自身のバンドを持ち活動を続けています。

 

1970年代中盤、まだまだウェストコーストロックも元気でした。

 


Fine Wine - 8 05


Fine Wine - Near As I Can Tell


Fine Wine - Shadow Of Yourself


Fine Wine - Cold Heart

 

それでは今日はこの辺で。

ポール・コゾフ亡き後の『クローラー(Crawler)』は

ポール・コゾフ(Paul Kossoff)フリー(Free)脱退後に製作したソロアルバムのタイトルをバンド名にしたバック・ストリート・クローラー(Back Street Crawler)もポール・コゾフが1976年に亡くなった後もバンド名をクローラー(Crawler)に変えて活動を続けました。

バック・ストリート・クローラーは2枚のアルバムを残しましたが、2枚目のアルバム『2nd Street 』がポール・コゾフの遺作となってしまいました。

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フリー及び脱退後のポール・コゾフについては以前の記事で書いていますのでご参考までに。

lynyrdburitto.hatenablog.com

コゾフが亡くなってバック・ストリート・クローラーの残ったメンバーは新たに元ストーン・ザ・クロウズ、イフのジェフ・ホワイトホーンを迎え新たな旅立ちをしました。

メンバーは

テリー・ウィルソン=スレッサー(Terry Wilson-Slesser,vo)

テリー・ウィルソン(Terry Wilson,b)

トニー・ブロウネイジェル(Tony Braunagel,ds)

ジョン”ラビット”バンドリック(John"Rabbit"Bundrick,key)

ジェフ・ホワイトホーン(Geoff Whitehorn,g)

となりました。

 

レコード会社はワーナーからエピックに移り、1977年新生クローラーの第一弾が発表されました。その名も『Crawler』でした。

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ここにはティーヴ・ランジ(vo)ロード・テッド・バンティング(sax)トニー・カー(per)トラフィックのクリス・ウッド(flute)らも参加しています。

バック・ストリート・クローラーとは明らかに違うバンドに変身しています。ジェフ・ホワイトホーンのギターテクは凄いけれど、あくまでも控えめですが、それでもブリティッシュ・ハードロックの魂は生きています。ファンキーな曲が増えているのは時代性でしょうか。フリーを思い出させるバラードも健在です。このアルバムから「Stone Cold Sober」ビルボードの65位にランクされました。

 

翌年、セカンドアルバム『Snake Rattle & Roll』をリリースします。

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プロデュースはゲイリー・ライオンズ(Gary Lyons)に変わりました。ここではラビットがフリー時代に書いてアルバム『Heartbreaker』に収められていた「Mudy Water」が再演されています。

 

しかし、時代はパンク、ニューウェイヴ全盛時代。クローラーはこの年に解散してしまいます。時代の波には勝てなかったようです。ポール・ロジャースのバッド・カンパニー(Bad Company)が頑張ったのとは対照的でした。

 

 


Crawler - Without You Babe


Crawler Stone Cold Sober


Crawler - Muddy Waters

 

 それでは今日はこの辺で。

映画『たちあがる女』を観る

昨日のキネ旬シアターは『たちあがる女』でした。

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監督:ベネディクト・エルリングソン

主演:ハルドラ・ゲイルハルズデッティル、ヨハン・シグルズアルソン

制作:2018年 アイスランド、フランス、ウクライナ

 

合唱団の講師と環境活動家という二つの顔を持つ女性の戦いのドラマです。原題は「Woman At  War」、つまり「戦う女」です。

 

アイスランドの田舎町に住むハットラはアマチュア合唱団の指揮者をしています。彼女にはもう一つの顔がありました。環境活動家として地元のアルミニウム工場に対し孤軍奮闘の戦いを挑んでいるのです。

 

そんな彼女にある日、知らせが届きます。長年の念願だった養子を迎え入れる申請が通ったのです。とうとう母親になれるのです。その前にハットラはアルミニウム工場との戦いに決着を付けようと目論見ます。さて、その決着は・・・。

 

ネタバレです。

冒頭からハットラが送電線を切断するシーンから始まります。場所はアイスランドの大草原です。こんなだだっ広い平原にたった一人で破壊活動に取り組んでいます。環境活動家というよりはテロリストです。 このテロ行為は成功し、工場は操業ストップに追い込まれます。ヘリコプターの追跡に会いますが、近所の農業主ズヴェインビヨルンに助けられます。彼と話すうち、自分たちはいとこ同志かも知れないということになり、その後も何かと手助けをしてもらうことになります。

「映画 立ち上がる女 画像」の画像検索結果

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ハットラのもとに1通の手紙が届き、間もなく電話があり、養子の話が決まったというのです。それはハットラが4年も前に申請したものでした。彼女自身も忘れていました。ハットラはちょっと戸惑いましたが、すぐに決心しました。養子の相手はウクライナに住む4歳の女の子ニーカでした。ニーカは両親を紛争で亡くし、亡くなっていた祖母のそばに何日も寄り添っていたということです。

 

ハットラには双子の姉アウサがいます。ハットラはある決意をし、もしもの時はニーカをアウサに託すつもりでした。ハットラは再び送電線の破壊行為を実行する決心を固めたのでした。そして犯行予告のビラを撒きました。政府は警戒態勢を敷きます。その警戒の中、ハットラは大草原に向かいます。そして鉄塔の爆破に成功します。しかし、自分も手に傷を負います。政府の追跡が始まります。ドローン、ヘリコプター、警察犬など大掛かりな捜索活動が始まります。ハットラは大草原の中を逃げ回り、ある時は川の中や氷河の中に潜み、何とか逃げ延び、再びズヴェインビヨルンに助けられます。

「映画 立ち上がる女 画像」の画像検索結果

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ハットラはウクライナに向かうため空港に入ります。ところが空港ではDNA検査を行っていました。ハットラが傷を負って出血した際に血液を採取されていたのです。順番が回ってきそうになった時に、臨時ニュースが入り、犯人が捕まったというのです。その犯人というのは姉のアウサでした。おそらくDNAが一致したのでしょう。ハットラはすぐに空港を出てタクシーで街に引き返しますが、途中で気分が悪くなり車を降ります。すると姉の逮捕は誤認逮捕だったことが分かり、再び追われる身になり、とうとう逮捕されました。

 

ハットラは刑務所にいます。そこにアウサが面会に来ます。監視カメラで監視中に停電が起きます。これはアウサと打ち合わせたズヴェインビヨルンの仕業です。この間に姉妹は入れ替わります。アウサはスピリチュアルの信奉者で、インドへ行って修行することになっていましたが、修行する場はインドでも刑務所でも変わらないと言い、ハットラにニーカに会いに行くようにと、やってきたのでした。そして上手いこと入れ替わり、ハットラは刑務所から出られました。

 

そして大雨の中、ウクライナの孤児院に行き、ニーカに会いました。かわいい女の子でした。ニーカを連れてバスに乗り空港に向かいますが、途中で大雨のため道路の水かさが増し、バスから降ろされ、乗客は歩いていかざるをえません。ハットラもニーカを抱いて水の中を歩き始めました。

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このラストシーンは地球温暖化に対する激しいメッセイージだと思います。

 

途中のテレビに映し出される報道番組でも、大雨、洪水、海面の上昇などシーンが流されていました。

 

それにしても、このハットラという女性の強さと言ったら、筆舌に尽くしがたいです。たった一人で政府に対し宣戦布告するという、大胆不敵な行動。とてもじゃありませんが真似できません。スクリーンに映し出されるアイスランドの平原はどこまでも続き、そして限りなく美しい。その美しい自然を破壊することは許せない、ということなのでしょう。

 

この映画を観ていて、ふと思い出したのが1970年代に起きた連続企業爆破事件の「東アジア反日武装戦線」の面々です。大道寺将司、あや子、片岡利明、佐々木則夫の「狼」グループ。斉藤和、浴田由紀子の「大地の牙」、そして黒川芳正、宇賀神寿一、桐島聡の「さそり」グループ。

彼らの思想はあくまでも「反日」であり、資本主義を担う企業が標的でした。超法規的措置で釈放された大道寺あや子と佐々木則夫は現在も逃走中です。大道寺将司は死刑判決で現在は獄中で執筆活動をしており、句集も何冊か出版しています。斉藤和は逮捕後、車の中で用意していた青酸カリを飲んで自殺しました。これで事件の詳細が不明になりました。片岡利明は獄中結婚し、現在は益永利明として死刑執行を待っています。黒川芳正は無期懲役で収監中。浴田由紀子と宇賀神寿一は釈放、桐島聡は逃走中です。

 

話が逸れました。この映画でもう一つ特徴的なのが音楽です。音楽がBGMとして流れるのではなく、演奏者が登場するのです。3人の楽器を演奏する男と、ウクライナ?の民族衣装をまとった3人の女性コーラスが何度も何度も登場するのです。但し、ハットラには彼らが見えていません。彼らはハットラを見守っているのです。これは特徴的な音楽の使い方でした。

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アクションあり、逃走劇あり、社会的メッセージありで楽しめる映画でした。

 


映画『たちあがる女』予告編

 

それでは今日はこの辺で。

ザ・バーズ解散後の『クラレンス・ホワイト(Clarence White)』は・・・

先日、カントリーロックの『カントリーロックの軌跡』と名をうってコンピレーション・アルバムを紹介していたところ、クラレンス・ホワイト(Clarence White)の名が出て来ました。そう言えば、と思いバーズが解散して、彼が亡くなるまでの間に残したアルバムをレコード棚から引っ張り出して久しぶりに聴いてみました。それをちょっと紹介したいと思います。

 

1971年にバーズの通算11枚目、リード・ギタリストのクラレンス・ホワイトが正式に加入してから5枚目のアルバムとなるアルバム『Farther Along』が発表され、その後もツアーは続けましたが、リーダーのロジャー・マッギンとメンバー間の対立で、1972年にクラレンスは解雇されます。翌年にはスキップ・バッティンも解雇されバーズは解散しました。ロジャー・マッギンはオリジナル・メンバーを集め1973年にバーズを再結成しますが、アルバム1枚限りでした。

バーズ在籍時からクラレンスは多くのミュージシャンのレコーディングに参加していました。バーズが解散するとクラレンスはピーター・ローワン(Peter Rowan,g,vo)デヴィッド・グリスマン(David Grisman,mandlin)リチャード・グリーン(Richard Green,fiddle)ビル・キース(Bill Keith,banjo)らと合流し、ブルーグラスのスーパーグループ『ミュールスキナー(Muleskinner)』を結成します。

元々はビル・モンロー(Bill Monroe)のテレビ出演時に一緒に出演するために結成されたようなスーパーグループでした。ところがビル・モンロー側のバスのアクシデントで、出演できなくなり、代わりに彼らが演奏しました。これが好評でワーナー・ブラザースとアルバム1枚の契約が出来ました。そして録音されたのがアルバムMuleskinner』です。

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しかし、このアルバムがリリースされた1974年には彼は既に亡くなっています。ジャケットの裏は『クラレンス・ホワイトに捧ぐ』となっています。

ここにはその他のミュージシャンとしてジョン・カーン(John Kahn,b)ジョン・ゲリン(John Guerin,ds)が参加しています。

このアルバムはドラムを使用したブルーグラスの最初のアルバムといわれています。そういうことも含めて、プログレッシヴ・ブルーグラスなどと呼ばれています。

ここではクラレンスの類まれなるギターテクニックがたっぷりと味わえます。

またミュールスキナーの出演時の録音が1994年になって発売されています。

 

この後もクラレンスは様々なレコーディングに参加しています。その中にバーズでの仲間だったスキップ・バッティン(Skip Battin,b)のソロアルバム『Skip』ジーン・パーソンズ(Gene Parsons,ds)のソロアルバム『Kindling』も含まれています。

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ミュールスキナーのアルバムが完成後、クラレンスはローランド・ホワイト(Roland White,mandlin,vo)エリック・ホワイト(Eric White,b)の兄弟とラン・マンデ(Alan Munde,banjo,vo)ホワイト・ブラザース(The White Brothers)(別名The New Kentucky Colonels)を結成します。

ホワイト・ブラザースはカリフォルニアや1973年の5月にはヨーロッパでツアーを行いました。バーズの『ロデオの恋人』以来親しくしていたグラム・パーソンズとも競演したりしました。この時のスウェーデンでのライブの模様がThe White Brothers』として1976年に発売されました。

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これが生前のクラレンスのプレイを記した最後のアルバムになりました。

 

その後6月にはソロアルバムの作成作業を開始しました。6曲の録音を終え、このうち4曲は1980年に『Silver Meteor: A Progressive Country Anthology』に収録されました。

 

 

1973年7月15日。悲劇は起こりました。機材を詰め込んでいる時に、酔っ払い運転の車に撥ねられ死亡しました。29歳でした。

葬儀の際、悲痛にくれたグラム・パーソンズは彼のためにバーズのラストアルバムでクラレンスが歌った「Farther Along」を歌いました。また、グラムは彼のソロアルバムのなかで「In My Our Of Darkness」という歌をクラレンス・ホワイトに捧げました。しかし、そのグラム・パーソンズも9月19日、薬物の過剰摂取で死亡しました。

 

ケンタッキー・カーネルズからバーズへ、グラム・パーソンズと共にカントリーロックの礎を築いた偉大な男でした。早逝が何とも悔やまれました。

 


The Byrds / Farther Along

 


Muleskinner w/Clarence White - Dark Hollow


Clarence White playing Soldier's Joy on Muleskinners' album -

 

それでは今日はこの辺で。

映画『それでも夜は明ける』を観る

昨日のキネ旬シアターはそれでも夜は明けるでした。

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監督:スティーヴ・マックイーン

主演:キウェテル・イジョフォーマイケル・ファスベンダーブラッド・ピット

制作:2013年 アメリカイギリス 2014年 日本公開

第86回アカデミー賞作品賞

 

原作は1853年発表の、1841年に誘拐され奴隷として売られた黒人ソロモン・ノーサップの奴隷体験記です。原題は『Twelve Years a Slave(奴隷として12年)』です。

 

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1841年、ソロモン・ノーサップは自由黒人(法的に奴隷ではない黒人)でバイオリン奏者として妻と子供2人と共に暮らしていました。

 

ある日、ソロモンは友人から紹介された2人組に金儲けができる周遊公演に参加しないかと誘われます。しかしこれは真っ赤な嘘で、3人で食事をした時にワインに薬を入れられ眠らされてしまいます。

 

気がつくと暗い部屋の中で手足を鎖に繋がれていました。そして他の奴隷と共に収容所に送られてしまいます。ソロモンは自由黒人だと主張しますが認められず、娘を連れた奴隷、エリザと共に農園主のフォードに売り渡されてしまいます。エリザは子供と引き離され泣いてばかりいたので、また他に売り飛ばされてしまいました。

 

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農園主のフォードは信仰心の強い温厚な人物でした。ソロモンは材木切りの仕事をさせられますが、フォードに材木の水運の提案をします。これが功を奏してフォードに目をかけられます。しかし、それを妬んだ奴隷の意地悪な監視役ディビッツに虐められます。ある時、ソロモンはディビッツからリンチを受け、それに逆らったため木に吊るされてしまいます。フォードが帰宅してようやく降ろされましたが、フォードはソロモンの身を案じ、資金面で世話になっている別な農園主エップスにソロモンを売ってしまいます。

「それでもよは明ける 画像」の画像検索結果

 

エップスは冷酷非情な男でした。仕事は綿花摘みです。収穫量が少ないと容赦なく鞭打ちです。ただ女性奴隷のパッツイだけは鞭打ちを受けませんでした。それは彼女が性的虐待を受けていたからでした。ソロモンは何とか耐えていました。

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ある日、農園にアームスバイという白人の奴隷がやってきました。彼はかつては監督官でしたが、不祥事を起こし奴隷に成り下がっていたのです。ソロモンは親身に話を聞いてくれるアームスバイを信用し、友人に手紙を書きアームスバイに託そうと考えました。そして手紙を渡そうとしたその日、アームスバイは裏切り、すべてをエップスに話してしまいました。しかし、幸いなことに手紙を渡していなかったので何とか難を逃れました。

 

その後も長い奴隷生活が続きました。ある日、カナダ人の大工のバスと知り合いました。彼は奴隷反対派でした。ソロモンは彼を信用し、すべてを話しました。そして友人に手紙を送るお願いをしました。

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数日後、保安官と友人がやって来ます。そしてとうとうソロモンは解放されました。帰り際、パッツイはソロモンを呼び止め、ソロモンは彼女をきつく抱きしめました。パッツイは悲しみに打ちひしがれました。

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12年ぶりに故郷に着いたソロモンを家族が待っていました。娘は結婚していました。ソロモンは家族に詫びますが、妻は「あなたは何も悪くない」と言います。

 

ソロモンは誘拐した者たちを告訴しようとしましたが、当時は白人が被告の裁判に黒人が証人として出廷することが出来なかったため、彼らは罪には問われませんでした。その後、ソロモンはその後『奴隷廃止論者』として活動しました。

 

観ているのも辛い映画でした。特に、奴隷に対する虐待シーンは目を覆いたくなります。

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このような人種差別の歴史を経て、現在のアメリカがあるのだな、とつくずく思わされました。しかし、この人種差別は決して終わってはいません。最近のアメリカは、特に現大統領になってから、その傾向が顕著です。

 

差別はいつの時代になってもなくならないのでしょうか。人種差別、民族差別、性差別、学歴差別、障害者差別、職業差別、部落差別・・・。人間皆平等などと言うのは単なる幻想なのでしょうか。どの国でも保守傾向が強くなってきている昨今ですが、人類はいつまでたっても同じ過ちを繰り返す動物なのでしょう。

 

私自身、辛い時や苦しい時には念仏のように「明けない夜はない」と唱えていたものでした。そうです、「それでも夜は明ける」のです。

 


映画『それでも夜は明ける』予告編

 

 

それでは今日はこの辺で。

 

感謝、感謝です! 2周年 & 700記事突破!!

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2017年4月1日に始めたこのブログも本日で丸々2年目を迎えました。気がついてみたら記事数もいつの間にか700記事を超えていました。

いつもは区切りの数の時には記念の記事を書いていたのですが、今回はうっかりしていました。2周年も近いからまとめて書こうということにしました。

 

昨日までに書いた記事の数は、このブログで723記事。途中から別ブログにした『闘病記』で新たに21記事。同じく『競馬』で21記事。合計で765記事です。1日1記事以上です。よくぞここまで書けたと、我ながら感心しております。

 

ここまで書けたのも、ひとえにこのブログを読んで下さった方々、読者登録をしてくださった方々、スターやはてなブックマークを下さった方々のお陰と感謝しております。

誠にありがとうございました。

 

お陰さまで読者数も随分と増えました。また、最近はアクセス数も1000/日 前後で推移するようになりました。昨年の倍以上になっています。内訳はグーグルとヤフーからの検索が95%以上で、はてなブログからの訪問割合は数字上は表れなくなりました。それもなんか寂しい感じもします。

 

アクセス数の多い記事は音楽部門では何故か『私のメロハー20選』です。これは意外でした。「メロハー」という言葉が検索で引っ掛かるのでしょうか。

lynyrdburitto.hatenablog.com

 

読書部門では『インタビュー・イン・セル:殺人鬼フジコの真実を読んで』でした。これも意外です。完全なネタバレ記事です。真梨幸子さんがよく読まれているということでしょう。

lynyrdburitto.hatenablog.com

 

その他では『検査入院でした。(腰部脊柱管狭窄症)』のアクセス数が多いようです。これは腰部脊柱管狭窄症の方がそれだけ多いということなのだと思います。

lynyrdburitto.hatenablog.com

 

映画の記事では突出してアクセスが多い記事はありません。上位に来る記事が日替わりで変わります。

 

試しにグーグルで何らかのキーワードを入力して自分の記事が上位に出てくると何故か嬉しくなったりします。単純なのです。アーティスト名などを検索すると、かなり高い確率で上位に来ます。

 

実は、1年目を終えた時に、そろそろブログを止めようかと思いました。というのは、1記事書くのにも結構な時間と労力を要します。それを毎日となるとなかなか大変です。気が向いた時に書けばいいじゃないかと思うのですが、なかなか性格上それが出来ないのです。初めの頃は散発に書いていたのですが、その内毎日書くようになってしまいました。日常になってしまうと、そのルーティーンを壊すというのは私にとっては、これまた勇気がいることなのです。従って、なんとなく続けてきてしまったたというのが実態です。マンネリ化しているな、と自分でも思っています。

しかし、楽しむために始めたブログが義務と化しては本末転倒です。このあたりは「百かゼロか」という極端な性格が恨めしい次第です。

 

さて、今後のことですが、少しペースを下げて書いていこうかと思っています。果たしてできるかどうか。中途半端なことはやめて、一層のこと完全に止めてしまうか、思案中です。どちらにしても踏ん切りがつかないままダラダラと行くような気もしています。所詮個人的な備忘録ですから、深刻に考える必要などないのです。

 

もう一つ困ったことが。700記事以上も書いていると、音楽記事などで、どのアーティストのことを書いたのか、書いていないのかがわからなくなってきてしまっていることです。書き始めて、途中で書いたような気がすると思い、自分のブログを検索すると案の定書いていた、などということが結構あります。備忘録が備忘録になっていないのです。認知症予備軍に入ってきたかな、と不安になります。そういえばこのブログを始めたきっかけも、ボケ防止の一環でしたが、こうしてみるとあまり役に立っていないのかもしれません。

 

ということで、つまらないことをダラダラと書いてしまいました。

また明日から記事をアップした際にはご拝読のほどよろしくお願いいたします。

あらためて、これまでのご厚情有難うございました。

  

以下、区切りの記事を載せておきます。

 

lynyrdburitto.hatenablog.com

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それでは今日はこの辺で。

 

追伸:新元号は『令和』に決まったようです。「人々が美しく心を寄せ合う中で文化が生まれ育つ」という意味らしいです。なんだかよくわかりません。