昨夜、またしても聞きたくなかったニュースを聞いてしまいました。渡哲也さんが逝ってしまいました。10日のことでした。78歳でした。
近年の渡さんを観ていて、何か嫌な予感はしていました。それが現実になってしまいました。昭和の大スターがまた一人亡くなってしまいました。
渡さんは昭和40年の日活でのデビューですから、日活も映画界も斜陽の時期に入ったころです。私が最初に彼の映画を観たのは、その昭和40年の映画『赤い谷間の決闘』でした。石原裕次郎さんとの最初の共演ではなかったでしょうか。内容はほとんど覚えていません。ただ、小学生の子供ながらにカッコいい俳優だなという印象を持ちました。
続いて翌年には『東京流れ者』が印象に残っています。鈴木清順監督の色鮮やかなスクリーンが目に焼き付きました。この映画は前年にヒットした『東京流れ者』という曲を映画化したものです。歌ったのは竹腰ひろ子と渡哲也の競作でした。
そして同じ1966年に、吉永小百合様との共演が実現しました。『愛と死の記録』です。しかし、この映画は浜田光夫の代役だったと思います。この映画の撮影前に浜田光夫が右目の視力を失うという大けがをしたのです。飲み屋での客との喧嘩でした。
この映画で渡哲也の名前も大きくクローズアップされました。広島の原爆症で亡くなる青年を演じました。
その後は『無頼シリーズ』『関東シリーズ』と日活ニュー・アクションで主演を務めました。
そしていよいよ1971年、日活がロマン・ポルノ路線を打ち出すと、日活を退社し裕ちゃん(石原裕次郎)の石原プロモーションに入社しました。この辺りから映画よりもテレビ出演が多くなってきます。
1974年にはNHKの大河ドラマ『勝海舟』の主役に抜擢されます。しかし、胸膜炎のため途中降板せざるを得ませんでした。これはショックでした。途中までいい調子で運んでいたのでがっかりでした。
その後は『大都会』『西部警察』で裕ちゃんとの共演もあって大人気となりました。石原プロモ完全に立ち直りました。
1987年に裕次郎が亡くなると石原プロの社長に就任、2011年まで務めます。その後は相談役として経営陣に復帰しました。
一方、歌の方でもヒット曲を飛ばしました。1973年にリリースした『くちなしの花』が徐々に売れ出し、翌年にはミリオンセラーとなりました。紅白歌合戦出場も果たしました。その他『みちづれ』などもヒットしました。朴訥とした歌い方が特徴でした。
渡哲也、と言えばアクションスターと言いうイメージが強いですが、『西部警察』以降は人間ドラマにも多く出演しています。『熟年離婚』や『家族』、そしてNHKの大河ドラマにも2度出演。ドラマ『東郷平八郎』も演じました。
また病気との闘いも絶えませんでした。直腸癌による人工肛門、心筋梗塞、肺気腫、さらに2017年には弟の渡瀬恒彦を亡くしました。心痛いかばかりであったか。
2005年に紫綬褒章、2013年には旭日小綬章を受章しました。
華やかな日活時代を彩った俳優がまた一人いなくなりました。残念です。
謹んでご冥福をお祈り申し上げます。合掌。
それでは今日はこの辺で。