Flying Skynyrdのブログ

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思い出のテレビ プロ野球 パ・リーグ編

今日は昨日に引き続きプロ野球編のパ・リーグでいきます。但し、当時の関東地方の野球放送はほぼ巨人のみでしたので、パ・リーグの試合はほとんど観ていません。オールスターや日本シリーズ、オープン戦などで観るだけでした。あとは雑誌などで情報を得ていたというのが実情です。従ってセ・リーグ程詳しくはありません。ただよく名前が出てくる選手はそれとなく憶えています。1球団3人の原則で行ってみましょう。

 

南海ホークスダイエーソフトバンク

 

杉浦 忠

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私が投手の中で一番好きだったのが、セ・リーグでは村山実パ・リーグではこの杉浦忠でした。長嶋と立教大学の同期。二人とも南海に入団するはずでしたが、長嶋が裏切って?巨人に入団。杉浦は義理堅く南海に入団したと後から聞きました。杉浦の魅力は何といってもフォームの美しさでしょう。地を這うようなアンダースローから浮き上がってくるストレートと大きく曲がるカーブ。入団初年度から27勝。翌年は38勝4敗、防御率1.40.で投手5冠王を達成。日本シリーズでは血マメを作りながらも4連投4連勝で日本一に。翌年も31勝と2年連続30勝越え。しかしその翌年20勝をあげるも血行障害で戦線離脱、そして手術。昭和39年の20勝を最後に昭和40年には8勝どまりで引退を決意し、コーチに就任。しかし要請によりコーチ兼任で投手復帰。何度も引退を表明しましたが慰留され、結局5年現役を続けました。手術後は握力が落ち50球も投げると腕がカチカチになってしまったそうです。昭和45年引退。通算187勝。実質7年でした。その後、監督就任。数字以上に物凄い投手でした。穏やかな表情と喋りはプロ野球選手とは思えませんでした。

 

野村 克也

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その杉浦とバッテリーを組んでいたのが野村克也でした。野村については既に多くのことが語られていますので、今更何も言うことはありません。戦後初の3冠王。しかも捕手での3冠王は世界初でした。ホームラン数も打点も王に抜かれ2位。その他数々の記録保持者。捕手としても打者としても超1流でした。ただそこに行きつくまでには相当な苦労もあったようです。監督としても難解で1度、ヤクルトで4度優勝、3度の日本一を達成しました。

 

ジョー・スタンカ

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阪神のバッキ―と並んで外人で100勝を挙げた投手です。「赤鬼」と呼ばれました。昭和39年には26勝を挙げ、阪神との日本シリーズでは第1戦、6戦、7戦で3完封とい凄いことをやってのけました。この時第6戦でバッキ―と投げ合いましたがスタン化が勝ちました。そのスタンカの訃報を最近聞きました。87歳でした。

 

西鉄ライオンズ太平洋クラブ~クラウンライター~西武)

 

稲尾 和久

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「神様、仏様、稲尾様」で知られる稲生和久ですが、私が実際にテレビで観たのは既に全盛期は過ぎていたかもしれません。昭和31年、高校卒で西鉄に入団、大した注目もされず、三原監督からは「打撃投手として採用した」などと言われていました。しかしオープン戦で結果を残し1軍に。敗戦処理で登板していましたが、その後登板機会が増え結局1年目から21勝6敗、防御率1.06の好成績を挙げました。2年目はシーズン20連勝のプロ野球記録で35勝、防御率1.37.そして伝説となっている、巨人との日本シリーズでは7試合中6試合登板、5試合に先発4完投。第5戦ではリリーフ登板しサヨナラホームランまで売ってしまいました。これが「神様、仏様、稲尾様」の由来です。次いで翌年33勝、続いて30勝と3年連続の30勝、さらに昭和36年には42勝のプスタルフィンと並ぶプロ野球タイ記録を作りました。プロ入り7年目で最速の200勝達成。昭和38年まで8年連続20勝を達成。しかし翌年肩の故障で0勝。その後もかつての勢いは戻りませんでした。通算276勝、防御率1.98は凄い記録です。昭和44年引退、その後監督就任も優勝は無し。西鉄黄金時代を築いた1人でした。

 

池永 正明

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黒い霧事件で永久追放になった池永正明です。下関商業で春の選抜で優勝。夏は準優勝。昭和40年、ジャンボ尾崎と共に入団。初年度から20勝を挙げて新人王。故障した稲尾の代わりにエースとなります。入団5年で99勝を挙げました。昭和44年のシーズンオフに黒い霧事件が発覚、同じ西鉄のピッチャー永易が八百長をしたとの疑いで6人の選手の名前があがりました。その中に池永の名前もありました。結局池永自身は不起訴処分になりましたがプロ野球機構は昭和45年5月に永久追放処分を決定しました。その後平成17年に処分が解除され復権しました。それまでに多くの時間がかかりすぎました。大投手に成り得たであろう選手を見殺しにしてしまいました。

 

東尾 修

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「ケンカ投法」の東尾修は高校卒で昭和43年のドラフト1位指名で入団。入団当初はプロのレベルの高さについていけず、投手を諦めかけていました。ところが池永らの黒い霧事件で投手不足になり、コーチにシュートを覚えさせてもらい、1軍に。しかし西鉄は経営を放棄し太平洋クラブに身売りしました。さらにクラウンライターへと、球団経営は不安定でした。その中、東尾は2年目から実力を発揮し二桁勝利。4年目は18勝、昭和50年には23勝で最多勝。通算で251勝を挙げました。しかし敗戦も多く247敗でした。デッドボールが多く「ケンカ投法」と呼ばれました。スピードも大したことはなくシュートが武器だっため必然的にデッドボールが増えたのです。引退後は1995年に西武の監督に就任。優勝2回。

 

 

大毎オリオンズ(東京~ロッテ)

 

大毎は毎日大映の略です。前身は毎日オリオンズ。そして毎日新聞大映の共同経営になり通称大毎です。このチームははっきり言って印象が薄かったです。1960年が10年ぶり2回目の優勝ですから、記憶はありません。

選手の名前はもちろん聞いて知ってもいました。

山内 一弘(2271安打)

田宮 謙次郎

榎本 喜八(2314安打)

阪神から移籍の小山正明(320勝投手)

など有名選手もいましたが、実際にテレビでの記憶はありません。山内は阪神に移籍してからの方が知っています。榎本は若干ながら記憶があります。左バッターでした。

 

東京オリオンズになってからでは、

木樽 正明

八木沢 荘六

 

などがいました。そして、

 

村田兆治

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昭和43年、福山電波工業高校から1位指名で東京オリオンズへ。高校時代からその速球を買われていました。その年は振るいませんでしたが、翌昭和44年には球団名もロッテに変わり6勝5完封と頭角を現しました。昭和45年には優勝を経験しますが勝ち星は5勝と伸び悩みましす。翌年に金田正一が監督に就任すると監督のアドバイスで「マサカリ投法」をあみ出し12勝を挙げました。昭和49年には日本一になり胴上げ投手になりました。その後は鈴木啓志や山田久志と並ぶパ・リーグを代表する投手になりました。通算215勝。

 

このチームは10年ごとに優勝する珍しいチームでした。落合博満が入団するのはもう少し先です。

 

東映フライヤーズ日拓ホームフライヤーズ~日本ハムファイターズ

 

張本 勲

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プロ野球初の3000本安打達成。16回の3割、9年連続の3割。通算打率.319、首位打者7回、504本塁打、319盗塁と文句なしの偉業達成者です。入団2年目から3割をマーク、昭和42年から45年まで4年連続首位打者。張本の東映時代の映像はオールスターぐらいでしか見ることはできませんでしたが、その後昭和51年から巨人に移籍。3年連続で3割を打ちました。安打製造機の異名そのものでした。

 

尾崎 行雄

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「怪童」と呼ばれた男、尾崎行雄です。浪商で2年生の時に夏の甲子園で優勝。法政二高の巨人に行った柴田勲とはライバルでした。この年、昭和37年、高校を中退し東映に入団しました。1年目から20勝を挙げまさに「怪童」でした。3年目から3年間20勝を挙げるも、登板過多で肩を壊しそれ以降は勝星から遠ざかり29歳で引退。昭和47年には5年ぶりに勝ち星を挙げますが翌年引退しました。通算107勝でした。12年の短い現役生活でした。2013年68歳で亡くなりました。

 

大杉 勝男

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昭和40年、東映フライヤーズの入団テストで合格、入団。3年目からレギュラー獲得。この年のオールスターで江夏から満塁ホームランを放ちMVP。昭和44年から6年連続30本塁打、45年からは3年連続40本塁打。張本との3,4番は巨人のON砲と並びOH砲と呼ばれました。しかし昭和48年、東映から日拓にオーナーが変わると不振に陥り低迷。翌年経営が日本ハムに代わると、東映色を払拭するため主力選手の放出を決行し、大杉もヤクルトに移籍しました。ヤクルト移籍後はヤクルトの日本一に貢献しました。1992年、肝臓癌により47歳の若さで亡くなりました。

 

阪急ブレーブス

 

山田久志

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私の中でのアンダースロー3羽烏は南海の杉浦、大洋の秋山、そして阪急の山田でした。山田はアンダースロー投手最多の284勝を挙げました。昭和43年のドラフト1位。社会人野球からの入団でした。この頃の阪急には米田、梶本、足立という大投手がいました。それでも2年目には10勝、3年目には22勝を挙げました。この年阪急は優勝し日本シリーズの第3戦で山田は王貞治に逆転3ランを打たれました。がっくりと膝をつき立ち上がれない山田の姿が今でも目に浮かびます。しかし、これがあってその後の山田の成長があったと自身も語っています。地を這うようなストレートが印象に残っています。大投手でした。

 

福本 豊

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世界の盗塁王」は通算の安打数も2543安打、本塁打も208本と打撃力も兼ね備えていました。守備面でも俊足を生かしたセンターの守備は抜群でした。これぞ攻・走・守を兼ね備えた選手でしょう。山田久志とは同期です。福本も社会人野球からの入団です。ドラフトは7位指名でした。2年目から75盗塁で盗塁王、4年目には106盗塁の日本記録を打ち立てました。13年連続盗塁王となりました。日本シリーズやオールスターでもその俊足ぶりはたっぷり魅せられました。

 

長池 徳士

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山田、福本、加藤秀司らとともに阪急黄金時代を築いた男です。昭和40年ドラフト1位で法政大学から阪急に入団。2年目から本塁打27本と頭角を現しました。翌年は30本、その翌年は41本で打率.316、打点101と文句なしの成績で本塁打・打点の2冠王となり、野村克也の9年連続のホームラン王を阻止しました。昭和45、46年と東映フライヤーズの大杉にホームラン王をとられ、2人のライバル関係は見物となりました。昭和47年のホームラン王は最終戦で長い毛が2本のホームランで41本となり、40本の大杉を押さえてホームラン王に輝きました。3度の本塁打王打点王を獲得しました。昭和54年引退。

 

 

近鉄バファロー

 

鈴木 啓示

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おそらく最後の300勝投手でしょう。昭和40年のドラフトで2位入団。入団1年目から10勝を挙げ、それから15年連続で二けた勝利、2年目からは5年連続で20勝以上。20勝以上を通算8回(金田正一は14年連続20勝以上)。ノーヒット・ノーラン2回。弱小球団で孤軍奮闘の活躍でした。まるで国鉄スワローズの金田のようでした。通算317勝は歴代4位の勝利数です(1位は金田の400、2位は米田の350

3位は小山の320)

 

太田 幸司

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近鉄の太田というよりは三沢高校太田幸司と言った方が分かり易いかもしれません。昭和44年の夏の甲子園太田幸司一色になりました。松山商業との決勝戦。18回投げ切るも、勝敗つかず翌日再試合。惜しくも敗れましたが、太田人気は物凄いものが有りました。高校野球でアイドル扱いされた最初の選手じゃなかったでしょうか。その年のドラフト1位で近鉄バファローズに入団。近鉄在籍13年で58勝85敗。いきなり1軍入りをせざるを得なかった当時の太田人気がかえって仇になったのかもしれません。もう少し2軍で鍛えていれば、とは思っては見たものの。ハンカチ王子を思い出します。

 

土井 正博

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昭和36年、高校2年で中退し近鉄に入団。プロ入り1年目でいきなり4番を任されました。しかし結果は出ず、非難轟轟。もともと弱小球団でしたが、それでも別当監督は土井の才能を見越して4番で使い続けました。そして3年目には28本塁打、98打点、打率.289と好成績を残し4番としての役割を果たしました。その後は昭和49年までの近鉄在籍期間中に3割を6回、40本塁打1回、100打点1回と近鉄の4番打者として活躍しました。足と肩に不安が出てきたため、昭和48年オフに太平洋クラブ・ライオンズ(後の西武)にトレードされました。しかし移籍して即本塁打王に輝きました。実はこの年からパ・リーグでは指名打者制度が導入され、土井は守らなくてよくなったのでした。近鉄の西本監督はこれを悔やんでいました。通算2452安打。

 

 

以上、パ・リーグの選手を見てきました。パ・リーグで印象が強いのはやはりオールスターでしょうか。「人気のセ、実力のパ」と言われたように、パ・リーグが強かった印象があります。特に投手陣の凄さには参りました。山田久志鈴木啓示村田兆治の3人には手も足も出なかったことを憶えています。セ・リーグ江夏豊平松政次堀内恒夫の3人も凄かった。この頃のオールスターは見ごたえ十分でした。

 

パ・リーグは球団名がよく変わったものでした。阪急、近鉄はもうありません。この2球団は私が野球を観始めた頃は万年最下位争いでした。途中から阪急はめっぽう強くなり、常勝球団の南海、西鉄が失速。球団経営陣も変わり、混パと言われるような時代に入ったのが昭和40年代だったでしょうか。

 

パ・リーグの選手でもまだまだいっぱい登場していない選手がいるのですが、この辺で止めておきましょう。

 

それでは今日はこの辺で。